「…………」
 ふと、目が開く。
 …………。
 ……あれ?
「っ……!」
 ミシ、と少しだけ身体が軋んだような気がした。
 ……いや、事実そうだったんだとは思う。
 じんじんとした鈍い痛みが響く、身体。
 それはもう、全身。
 思わず呻きそうな鋭い痛みが背中に走って、一瞬瞳をぎゅっと閉じていた。
「……て……」
 ガチガチの身体をほぐすように、ゆっくりと起こす。
 時計を見るまでもなく、なんとなくだが時間はわかった。
 カーテンを閉めなかった窓から、さんさんと降り注いでいる弱いながらも白い光。
 それは紛れもなく、今が朝だと告げている。
「…………」
 あぐらをかいたまま、ぼーっと窓のほうを見る。
 どうやら、明かりもテレビも何もかも付けっぱなしで寝たらしい。
 付けた覚えのないテレビからは『おはようございます』などという、呑気な朝のあいさつが聞こえた。
「…………」
 ぼやけた世界に別れを告げるため、テーブルの上に置いたままだった眼鏡へ手を伸ばす。
 すると、指先に少し違った硬い物がぶつかった。
 …………スマフォ。
 そう。
 それは確かに、俺のスマートフォン。
 だが、しかし。

 今となっては、鳴るはずのないモノ。

 今はただ真っ黒な画面を浮かべているだけで、何を映すこともない。
 ……当然だ。
 昨日の夜、不慮の事故とはいえ俺が自分で水の中に落としたんだから。
「……くそ」
 思い出すと同時に、眉が寄る。
 そして、治まっていたはずのムカムカとしたやるせない気持ちも。
「…………」
 あれは、夢だったんだろうか。
 ……いや。
 『か』じゃない。絶対に、だ。
 なんせ、電源が落ちている。
 そんな状態のコレが、メッセージの受信も通話もできるはずがない。
 夢。
 幻。
 偽り。
「…………」
 1度握ったものの手を離すと、やけに重たいゴトンという音がした。
 彼女が、来る。
 俺を気遣ってくれ、真夜中にもかかわらずウチに来てくれる……そんな夢。
 ……よほどそう強く望んだんだろう。
 まるで、あの件こそがホンモノだと思えた。
 逆に、今が夢であるかのようにさえ思える。
 ……それほどに、喪失感がハンパない。
「……はぁ」
 夢だと実感するたびに、身体が重たくなる。
 昨日は、いうまでもなく散々な日だった。
 だからこそ、今日も大人しくしていようと思った。
 ……大人しく。
 どうせ、車も動かないんだし。
 …………。
 って、それじゃダメか。
 このままじゃ週明け困るから、今日中になんとかしておかないと……。

 ピンポーン

「っ……」
 どうせひとり寂しくすごすならば……と、もう1度ソファに寝転がろうとしたとき。
 まるで、それじゃダメだと言わんばかりにチャイムが部屋へ響いた。
「………………」
 仕方なく立ち上がり、インターフォンに向かう。
 ――……と。
「……な……」
 思わず、そこにある光景から目を逸らし、時計を見る。
 今はまだ、朝の7時を回ったところ。
 ……休日にしては、ずいぶんと早い時間だ。
 だがそこには紛れもなく、今の今まで俺が欲していた相手がいた。
 幻でもない。
 嘘でもない。
 何ひとつ偽りのない――……愛しい彼女、その人が。

「……朝早くに、すみません」
 エントランスから上がってきて我が家のドアをくぐった彼女は、そう言うと同時に頭を下げた。
 まだ着替えもしていない俺とは違い、きちっと着替えて立っている彼女。
 考えるまでもなく、ふさわしくない言葉だ。
 どっちかといえば、俺のほうが謝らなければならないのに。
「っ……! せ……んせ……っ……」

「ありがとう」

 申し訳なさそうに眉を寄せて俯いた彼女を、強く抱きしめる。
 なぜ、謝らせる必要がある。
 そんなモン改めて考える必要なんてこれっぽっちもないんだから、だったらそれを否定してやらなければ。
「俺に対しては、時間なんて気にしなくていいんだよ?」
「……先生……」
「朝一で会えるなんて、すごい嬉しい」
 知らず知らずの内に、自分がものすごい笑顔であるのに気づいた。
 ……あー。
 やっぱり、彼女の力っていうのはものすごく強大なんだな。
 どれほどヘコんで底に沈みっぱなしであろうとも、彼女さえいてくれれば、たちまち定位置に戻れるんだから。
 有難い存在。
 貴重で、心底愛しい。
「……おいで」
 笑みを浮かべたまま彼女の手を引き、リビングへ向かう。
 その手のひらには、なんだか自分でも思った以上に力が篭っていた。


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