うちのマンションは、今流行のペットマンションってやつになっている。
だが、自分自身は――……というより、もともとこの部屋を買ったじーちゃんはペットを飼うつもりがなかったから、ペット用に作られた部屋には住んでいない。
コンセントだって普通の高さにあるし、ペットが自由に行き来できるような小窓もドアには付いてない。
確かにペットを連れている住人を見かけることはあるが、これといって飼いたいと言う気にもならなかったわけで。
別に、動物が嫌いなわけじゃない。
賢い犬とかはむしろ好きなほう。
主人に従順で、大人しくて、利口で……というペットならば、大歓迎。
事実、実家に住んでいるときは犬やら猫やら飼ったりしていた時期もあった。
だが、やはり死別という必ず通らなければいけないつらい出来事と、ひとり暮らしで家を空けがちにするということから、特に飼わないままできた。
……だから。
俺はこのまま、きっとペットを飼うなどないだろうと思っていた……そんなある日のことだった。
「……なんの用だよ」
「随分だなー、お前。久しぶりに会った従兄に向かって」
珍しく泰兄から電話があったかと思いきや、マンションの下まで呼び出された。
彼の機嫌がいいときというのは、ものすごく嫌な予感がする。
思わず眉をしかめて見ると、苦笑を浮かべながら首を振った。
「なんだよ。そんな邪険にしなくてもいいだろ?」
「……そういうワケじゃないけど……」
怪訝な顔のまま訊ねると、やけに楽しそうに笑ってから両手を合わせてきた。
……なんだ、そのポーズ。
悪いが、貸してやれるものは何ひとつない。
「……なんだよ」
「実はさ、1週間うちの犬預かってほしいんだけど」
「嫌だ」
「……お前……身も蓋もないな」
「泰兄の犬だろ? ……ダメ犬とかなんじゃないのか?」
瞳を細めて呟くと、ないないとばかりに手を振って笑みを見せる。
……だが、どうしてもこの飼い主に賢い犬は想像ができない。
「馬鹿言っちゃ困るなー。俺の犬だぞ? お前、ペットはご主人さまに似るって聞かないのか?」
「だから、心配なんだろ」
彼の性格を考えると、犬に対しての躾やらというのをしっかりしていると感じられないからか、つい反射的に即答していた。
……だってなぁ?
いかにも、犬には甘すぎという感じがする。
「テレビで見かけるような、主人を困らせる犬とかなんじゃないのか?」
「大丈夫だって。それは、俺が保障する」
「……ホントか……?」
少し白々しい気がしてジト目になると、急に瞳を細めて意地の悪そうな笑みを浮かべた。
……きたよこの顔。
だから嫌なんだ。
「まさか、俺の頼みを断ったりしないよな?」
「……脅しだろ、それ」
「いいんだぜ? 別に。今後お前がどういう目に遭ってもいい、って言うなら」
「やらしいぞ」
「んー? ここまで大きくなったのは、誰のお陰だ? え?」
……相変わらず人が悪い。
つーか、性格が悪い。
別に、泰兄のお陰で今の俺があるとはあまり思えないんだが……ぞくりとした第六感は、外れないから困る。
「……1週間だけだからな」
「おー、懸命。やっぱ、持つべきものは従兄弟だよなー」
バシバシと肩を叩きながら笑みを見せると、満足げにうなずいてから車に戻っていった。
「じゃ、明日届けに来るから」
「ああ」
「サンキューなー」
にっと笑って軽くクラクションを鳴らし、そのまま何事もなかったかのように彼が去る。
その後ろ姿を見ながら、ついついため息が漏れた。
……ったく。
脅迫に近いぞ、あれは。
まぁ、彼には逆らえないから仕方ないとは思うが。
「…………」
それにしても、犬……ねぇ。
室内犬だから散歩とかはいいらしいが……ちゃんと、躾してんだろうな。泰兄のヤツ。
……できてなかったら、テラスに放り出す。
思わずそうなることしか考えられずにため息が漏れ、仕方なく部屋へ戻るべくエレベーターへ。
……犬……。
少し気が重いのは、気のせいじゃないだろう。
別に嫌いじゃない。
が――……泰兄のペットだから。
「……はー」
エレベーターのボタンを押しながら、またため息が漏れた。
金曜の昼休み。
コーヒーを飲み干してから机に置くと、ほどなくして彼女が机の横にやってきた。
「先生、泰仁さんのミニチュアダックス預かるんですか?」
「っ……なんで知ってるの?」
驚いて彼女を見ると、嬉しそうに笑みを見せた。
「昨日ね、泰仁さんから電話があったんです。先生ひとりじゃ心配だから、よろしくって」
「……なんだそれ」
彼から直接電話があった、というのが気に入らない。
思わず眉を寄せる――……ものの、やけに嬉しそうな笑みを浮かべているので、まったく違うことが口から出た。
「……犬、好き?」
「もちろんっ! あ、でも、犬っていうか、動物はみんな好きですよ」
確かに、そんな気がする。
……そういえば、孝之も好きだったもんな。
そのへん、やっぱり兄妹ってことか。
頬杖をつきながら苦笑を浮かべると、嬉しそうに笑った。
…………。
……そういえば、彼女は犬っぽくもあるんだよな。
なんつーか、子犬みたいな瞳っていうか…。
従順に主人に従うあたりは、とても犬っぽい。
などと考えていると、彼女が苦笑を見せた。
「もぅ。先生、聞いてます?」
「え? ……あ、ごめん。何?」
「じゃあ、明日行ったら会えますよね?」
「うん。今夜預かる予定だし」
「……楽しみ」
えへへ、と小さく笑って頬に手を当てる仕草は、なんともかわいらしい。
……まぁ、犬が好きならいいか。
彼女が喜ぶ姿を見れるのは、俺も嬉しいし。
思わず笑みを浮かべると、思い出したように小さく声をあげた。
「次の時間は、何ですか?」
「……あー、そうか」
危うく、犬談義で終わる所だった。
危険だ。このテの話題は。
「次は実験やるから、普通に実験室来て」
「はぁい。伝えておきますね」
「よろしく」
彼女を見送ってから、今日の単元のページをパラパラとめくってみる。
……犬、ねぇ。
まぁ……いいか。
――……と、このときはまだ、まさかあんな目に遭うとは思いもしなかった。
どれほどこの1週間というものが、長いものになるか……など、誰が予想できただろう。
彼女の嬉しそうな笑みに、思いもしなかった事態が待ち受けていようなどとは。
「んじゃ、よろしく頼むわ」
「ちゃんと一式あるんだろうな。ウチ、何もないぞ」
「当たり前だろ。ちゃんと入ってるよ」
大き目のキャリーに入ったミニチュアダックスを預かると、運転席に乗り込んだ泰仁が手を振った。
「マリンー。俺がいない間寂しいだろうけど、祐恭で我慢するんだぞー」
「……なんだよ、それ」
「ん? 気にすんなって。じゃ、よろしくな」
「わかった」
ため息をついて泰兄を見送ってから、早速エレベーターで家まで上がる。
……確かに、大人しいといえば大人しいかもしれない。
別に吠えるわけでも暴れるわけでもなく、大人しくキャリーの中で座っている。
泰兄にしては、上出来。
玄関の鍵を開けてからキャリーを下ろし、早速出してやることにした。
さすがに、いつまでもここじゃ窮屈だろ。
「ほら、いいぞ」
室内犬だからか毛並みもよく、手入れもしっかりされているようだ。
最初はおどおどしながらあたりを見回していたが、しばらくするとひとりでリビングへと歩いていった。
……高いな、順応性が。
こういうところは、飼い主にそっくりだ。
苦笑しながら玄関の鍵を閉め、自分もリビングへと足を向けることにした。
「……しかし、多いな」
ドライフード、缶詰、トイレ、砂、諸々……。
彼から預かったバッグを開くと、ものすごい量の物が出てきた。
「……ぬいぐるみ? ……こんなのいらないだろ」
イルカの形をしたそれを取り出すと、ふいに袖を引っ張られた。
「え?」
そちらを見ると、うるうるとした瞳でぬいぐるみを見つめる姿。
……ひょっとして、欲しい……とか?
「ほら」
差し出してやると、ものすごく嬉しそうにそれをくわえてソファへ上がった。
よっぽど気に入ってるものらしく、しばらくそれを離そうとしない。
……へぇ。
しかし、大人しいな。
思わず感心してしまう。
もっと騒いだりするもんだと思っていたが、やっぱり犬。
賢かった。
チョコ色のミニチュアロングダックスで、なかなか利口そうな顔立ち。
名前は、オスなのになぜか『マリン』。
……泰兄のことだから、名前の由来はすぐに思いついたが……。
「……パチンコか、お前の由来は」
彼も、パチンコに行くことはよくある。
恐らく、好きな台に出てくるマスコットキャラの名前から取ったんだろう。
……もしくは、その台がアタりまくって、その金で……なんてこともありうる。
ああ、なんでこういうことは容易に想像つくんだ。
上機嫌でペットショップに走る姿が見え、軽く眩暈がした。
「…………ん?」
ソファに座ってテレビをつけ、ニュースにチャンネルを変える。
……と。
横に座って、大人しくテレビを見るマリン。
「……お前、賢いな」
ぽんぽんと頭を撫でてやると、気持ちよさそうに瞳を閉じた。
……結構、かわいいかもしれない。
思わず笑みを浮かべながら撫でていると、やっぱり――……彼女が不意に思い浮かんだ。
「うさぎじゃなくて、犬かもな……」
頭を撫でられて嬉しそうな顔をしている彼女と、今、俺の手の下でそれはそれはしあわせそうに目を閉じているマリンと。
思わずダブって見え、笑いが漏れた。
「え? ……あー、メシか」
とん、と軽い音で床に下りたマリンが、とことことドアの近くに置きっぱなしだったバッグに近づいた。
かと思いきや、銀色のトレイをくわえて床に置き、そこに座ってこちらを見る。
鳴くわけでもなく、ただ見るだけ。
……これは、なかなか優秀。
こういう犬なら大歓迎かもな。
水と一緒に用意してやり、手で制してから手のひらを出して――……。
「お手」
ぽん
「おかわり」
ぽへっ
「おあずけ」
……じぃーっ
見る。
まだ、見る。
……見る……。
「……お前、賢いな。ホント」
ただただトレイを見つめるマリンに笑みを浮かべて解いてやると、嬉しそうに食べ始めた。
「なるほど。全部のペットが飼い主に似るわけじゃないんだな」
ペットが優秀な場合もあるらしい。
……今ごろくしゃみしてるだろうな、マリンの飼い主サンとやらは。
だが、これならばきっと、彼女も気に入るだろう。
なんか、動物に好かれそうな感じだし。
これなら、1週間楽勝……っていうか、意外と楽しいかもな。
大人しくしているマリンを見ながら、小さく笑みが漏れた。
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