「うわぁーっ! かわいい!!」
家に入った彼女の第一声が、それだった。
いつもと違って彼女を家まで迎えに行ったのだが、なんと、マリンが玄関まで迎えに来てくれていたのだ。
「……うわぁ。いいなぁ」
嬉しそうにパタパタと尻尾を振るマリンに歩み寄って、早速抱き上げて頭を撫でる彼女。
……相当好きなんだな。
苦笑を浮かべてからリビングに向かわせると、マリンも彼女から離れようとしなかった。
犬好きな人間を犬はわかるというが、本当らしい。
キッチンに行くときも、ソファに座るときも、マリンはずっと彼女のそばをうろうろしていた。
「気に入られたらしいな」
「みたいですね。嬉しい……」
ソファに座ったまま優しい瞳を向けてから、両手を出して名前を呼ぶ。
「おいで、マリン」
するとすぐ、嬉しそうに膝に乗ってきた。
「あはは、かわいいーっ」
パタパタと動く尻尾が腕にあたり、それをくすぐったそうに笑いながらも、彼女はマリンを膝に乗せて背中を撫で始めた。
「すごいかわいい……いいなぁ。欲しいなぁ」
「賢いよ、マリンは。昨日の夜から見てて、思った」
「そうなんですか。……すごいねぇ」
両脇を抱いて顔を合わせると、『ね?』と小さく首をかしげた。
……かわいいな。
いや、もちろんマリンじゃなくて彼女が。
ペットに愛くるしい顔を見せているのは、隣にいても楽しいといえば楽しいが……だ。
「……ちょっとは、俺の相手しようとか思わないわけ?」
「え?」
瞳を細めて彼女を見ると、きょとんとした顔でこちらを見上げた。
釣られるように、マリンもこちらを向く。
同じような丸い瞳。
ダブルで見つめられて、思わず噴き出しそうになる。
そんな彼女の肩を抱き寄せ髪に唇を当てると、くすぐったそうに身体をよじった。
「マリンもいいけどさ。……たまには俺も構ってよ」
「……もぉ……先生ってば」
少し照れたような笑みを見せたかと思うと、ようやくマリンを離してこちらにもたれてきた。
……ったく。
せっかくの休日だというのに、会って早々マリンのことばかり。
確かに、かわいいのはわかるが……少しは、俺だって時間がほしい。
「……ん……」
頬に手を当ててこちらを見上げる形にさせてから、そのまま唇を塞ぐ。
耳に届く、久しぶりの彼女の声。
それを聞けば、もっとずっと欲しくなる。
そのままソファにもたれさせ、彼女の首筋に手を――……。
「っ……! あはは、や、やだぁっ」
ぐいっと身体を押しのけられ、思わず瞳が丸くなる。
だが、それに動じることなく、彼女はずっと笑っていた。
「……な……」
驚いて彼女を見ると、ぶんぶんと首を振ってから腰のあたりに手を伸ばした。
……腰?
「もぅっ、マリンってば」
くすくす笑った彼女の手に収まっていたのは、ぺろっと舌で鼻を舐めているマリンだった。
「……なんだよ、急に」
「だってぇ……マリンがくすぐるんですもん」
そう言って彼女が頭を撫でると、気持ちよさそうにマリンが瞳を閉じた。
……ちょっと待て。
…………あれ、なんか……嫌な予感がする。
「あっ」
マリンを彼女の手から引き離して、テーブルの下へ。
「もぅ! どうしてそんなことするんですかっ」
途端、慌てて彼女がマリンを抱き上げた。
「だから。マリンはいいんだよ!」
ぱっと取り上げて、再びテーブルの下へ。
「意地悪しないのっ!」
――……が、同じようにまた抱き上げる。
……だから。
「マリンはあとでもいいだろ? 今は放っといても!」
「だって、かわいいんですもん! いいじゃないですかっ」
ぎゅっと抱きしめて上目遣いにこちらを睨む彼女を見ていると、無性に焦りが出てくる。
キスでさえ、ああやって邪魔されたわけだろ?
……まさか……とは思うが、まさか……なのか? お前。
「1度邪魔されたんだぞ? そのたびに邪魔されたらどうするんだよ」
「……何がですか?」
「だから。マリンとはいつだって遊べるだろ!」
「いつも遊べないですよっ! 1週間で、泰仁さんのところに帰っちゃうじゃないですか」
「また遊びに行けばいいだろ」
「……もぅ。先生とはいつでも会えるでしょ?」
…………あぁもぅ。
ああ言えばこう言うというか。
相変わらず頑固だな。
…………それにしたって、『いつでも会える』って言葉はないんじゃないか。
少しヘコむ。
「………………」
ため息をついてソファにもたれると、彼女は再びマリンと楽しそうにし始めた。
……くそ。
犬に嫉妬するなんて、人としてどうかとかいろいろ言われそうだが……やっぱり、悔しいものは悔しい。
考えてみれば、ずっと彼女はマリンの話しかしてないわけで。
絶対、彼女の中では俺よりもマリンのほうが順位が上になってる。
それがわかって、無性に悔しい。
……ったく。
ああ、そうさ。
どうせ俺はいつでも会えるからな。
楽しそうな彼女らに背を向けてテレビのチャンネルを変えてやると、小さく声をあげた彼女がリモコンに手を伸ばした。
そこから逃れるようにリモコンをテーブルの端に放ってやると、小さくため息が聞こえる。
「……もぅ。せっかく見てたのに……」
「見てなかったろ。マリンと遊んでれば?」
「いじわる……。じゃあ、いいですよ。マリンと遊んでるもん」
ねーっとマリンに声をかけたかと思うと、彼女は再び楽しそうに笑いながらマリンとぬいぐるみで遊び始めた。
……なんなんだよ。
やっぱり、犬なんて――……つーか、泰兄の頼みなんて聞くんじゃなかった。
後悔先に立たずとはこのこと。
……ちくしょう。
彼女の膝の上で楽しそうにじゃれるマリンを一瞥してから、頬杖をついてテレビを見始めるもイライラはそう簡単におさまりそうになかった。
いつしか見入ってしまっていた映画。
両手を頭の後ろに回して首を支えてから、そのまま視線を向ける。
……そんなとき。
彼女はというと、キッチンに立って夕食の支度をしていた。
こうして見ていれば、いつもと変わらない彼女。
なんだが……。
「わっ! マリンってばー、危ないよ?」
どうやら足元をちょろちょろしているらしく、ときおりくすくす笑いながら彼女が下を向いた。
……ったく。
やっぱり、預かるんじゃなかった。
などと考えながらテレビに視線を向け、再び食い入る。
することがない以上は、こうしているしかないわけで。
無論、論文をやってもよかったが、1度見始めてしまうと最後が気になるもので。
こればっかりは、どうしようもなかった。
「先生、ごはんは?」
「食べる」
「……映画は?」
「見るよ」
キッチンから声をかけてきた彼女に振り返りもせずに答えると、小さく笑いながら隣に歩いてきた。
「…もぅ。何怒ってるんですか?」
「怒ってないってば」
「ホントに?」
「当たり前だろ」
顔を覗きこんできた彼女に、一度視線を向けてから再び外してやる。
すると、苦笑を浮かべて頬に手を当てた。
「…なんだよ」
「怒ってるじゃないですか。…どうして?」
「…別に」
「もぅ。先生ってば」
よしよしとばかりに頭を撫でられ、彼女の腰を抱くようにしてソファにもたれると、肩に手をついて顔を見下ろしてきた。
「…どうしたの?」
「別に。怒ってないよ?例え、放ったらかされたって」
わざと意地悪く呟くと、苦笑を浮かべて彼女の指が頬を滑る。
…遅いんだよ。
っつーか、俺の事を無視し過ぎだ。
「そんなつもりじゃ…」
「じゃあ、どうして俺よりマリンなんだよ」
ぽつりと呟くと、少し驚いたように瞳を丸くして彼女が笑った。
……あー、そうさ。
どーせ、みっともないよ。
…ちくしょう。
「……妬いてるの…?」
「俺が?犬に?…はっ。んなワケないだろ」
「ホントに?」
「…なんだよ、その顔は」
おかしそうに笑って首を振る彼女に瞳を細めると、小さく声をあげて笑った。
「そんなにおかしいか?俺が犬に嫉妬したからって」
「わっ」
「…ったく。人の気も知らないで…」
そのままソファに倒してやると、困ったように眉を寄せた。
だが、こちらは依然表情が和らぐ事はない。
そうだろ?
これまでずっと、放ったらかしにされたんだから。
「だ、だって…。マリン可愛いんだもん…」
「可愛いなら、彼氏ほっといてもいいのかよ」
「そういう訳じゃなくてぇ…」
顔を近づけて軽く睨むと、ぶんぶんと首を振る。
そんな彼女の様子を見てか、マリンがとことこと彼女の側にやってきた。
「…お前が悪いんだぞ」
目が合ったマリンに呟くと、パタパタと尻尾を振って――…
「んなっ!?」
「!マリンってば、くすぐったいよーっ」
「そういう問題じゃないだろ!!」
「だ、だって…」
いきなり、横になっていた彼女の胸元に前足を載せたかと思いきや、ぺろぺろと顔を舐めだしたのだ。
勿論、唇もだぞ!?
「マリンッ!」
両手で、がしっと掴んで抱き上げ、そのまま立ち上がる。
コイツは、絶対確信犯だ。
間違いない。
ふつふつと湧き上がる怒りのままでマリンを睨むと、慌てて彼女も立ち上がった。
「…お前はぁ……。ワザとやってるだろ。え?分かってんだぞ、こら!」
「せ、先生っ!マリンがそんな事するわけ無いでしょ!?」
「分かんないだろ!コイツ、賢いんだぞ!!」
大体、彼女も彼女だ!
なんで、平気なんだよ!!
舐められたんだぞ!?
しかも、唇まで!!
「先生ってば!ねぇ、降ろしてあげて!」
「嫌だ」
「先生っ!」
マリンがメスだったら、笑って許してやったかもしれない。
が。
オスなんだぞ、こいつは!
しかも、泰仁の飼い犬。
だからこそ、どうしてもヤツにキスされているようで、許せなかった。
「もぅっ!可哀想でしょ!」
「何もして無いだろ!?」
「先生ってばぁ…」
首を振って困ったような顔を向けられ、つい手が緩む。
それを見た彼女が手を伸ばしてマリンを奪うように抱きしめると、軽く睨まれた。
…なんだよ。
俺がそんなに悪いのか?
っつーか、なんだ。
俺は悪者か!?
ちくしょうっ。
「マリン、大丈夫?恐かったでしょ?」
「別に、高所恐怖症でも何でもないだろ」
「もぅ!先生、苛めちゃダメですよ」
「苛めてないだろ!」
大きく息をついて頭をかいてからソファに座ると、体重を受けたソファは大きく沈み込んで身体を包んだ。
まるで、子供をあやすかのように抱き上げて頭を撫でる彼女。
しかも、ちゃっかりとマリンは彼女の胸に顔を寄せているわけで…。
絶対、確信犯だアイツは。
昨夜の賢さがあるからか、どうしてもそれが拭えなかった。
普段の自分ならば、犬に嫉妬なんて馬鹿馬鹿しいと思うに違いない。
たかが、犬。
……なのだが…。
いざ自分がその立場になると、やっぱり違う。
悔しいものは、ペットでも悔しい。
…いいよなぁ、マリンは。
大事にされて。
一方、俺はどうだ?
一週間お預け食らったままだってのに…。
「…はぁ」
頬杖をついてソファにもたれてから、瞳を閉じる。
出来る事なら、耳も塞いでしまいたいくらいだった。
楽しそうな彼女の声。
それが向けられているのが自分ではないという辺りが、無性に悔しかった。
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