風呂を沸かして、のんびりと湯船に浸かる。
 これは、今まで変わらずにやってきた習慣だった。
 彼女と入るようになってからは、結構楽しい時間にもなったし。
 ……だが。
 思わず、湯船の縁に頭をもたげて瞳を閉じる。
 リビングからは、いつもと変わらず何の音も聞こえてこない。
 ――……が今日は、それが少し不安だった。
 なぜならば、今現在ひとりで風呂に入っているからだ。
 何が悲しくて、せっかく週末にひとりで入らなきゃならないんだよ……。
 そう感じてしまうと、自然にため息が漏れる。
 風呂に彼女を連れて行くと、マリンももちろんついてくる。
 ……それを見た彼女は、マリンを抱き上げてこう言った。
 『あとで入るから、先にどうぞ』
 返事をする前にリビングへ行ってしまい、残されたのは自分独り。
 そのとき合ったマリンの瞳には、『ざまぁみろ』と浮かんでいるように見えて腹が立った。
 どうしてこんなにも、邪魔されなきゃならないんだよ。
 ……たかが犬1匹。
 のはずなのに。
「……はー」
 何度目かのため息をついて風呂から上がり、タオルで身体を拭いてパジャマを羽織る。
 さっきみたいにくっついてやがったら、タダじゃおかない。
 などと考えながらリビングに向かうと、大人しく彼女の膝に乗っているマリンと、そんなマリンの背中を撫でる彼女の姿があった。
 少しほっとしてソファに座る――……と、なぜか笑みを浮かべてからマリンを俺の膝に乗せた。
「……なんで俺の膝なんだよ」
「だって、眠そうなんですもん」
「なら、ソファの上でいいだろ」
「独りじゃかわいそうじゃないですか」
 ……じゃあ独りで風呂に入った俺はかわいそうじゃないのか。
 グラスを口に当てながら彼女を見ると、笑顔を見せて風呂へと向かって行った。
 ほどなくして、扉が閉まる音が響く。
「……え?」
 すると、今まで膝の上に大人しく乗っていたマリンが、とことことソファへ降りた。
 そして、小さく欠伸をしてから寝転がる。
 そのサマが、まるで『男に用はない』とでも言わんばかりだった。
「……お前、ワザとやってるよな。そうだろ?」
 ぽんぽんと頭に手を当てると、くりんっと顔をこちらに向けた。
 潤んだ丸い瞳。
 だが、これといった反応を見せることもなく、再び背を向けて大人しく丸くなる。
 間違いない。
 絶対、ワザとだコイツ。
 彼女がいなくなってそっけなくなったあたり、同じ男として感じるものがあった。
 ……お前が俺のライバルか。
 ひしひしと身体の小さな彼に対して、そんな感情が湧いていた。
「…………」
 まあいい。彼氏は俺だし、お前は犬で。
 人間には人間のペアでしかありえない。
 ……とはいえ、若干ないがしろにされてないとは言い切れないが……な。
 限られた休み。
 もっと有意義にすごすためにも、これ以上負けてたまるか。

「……何してるんですか?」
 彼女が風呂から上がってくると、不思議そうな顔をこちらに向けた。
 それもそのはず。
 マリンを抱っこして、しっかり掴んでいたから。
 さっきまで邪険にしていたからこそ、余計におかしいのだろう。
「仲直りしたんですか?」
 少し嬉しそうに笑って隣に座った彼女が、マリンを撫でる。
 いつも通り顔。
 当のマリンも寝ているときはさすがに大人しいらしく、彼女に向くことはなかった。
 ……よし。
「っ……」
 マリンを乗せたままで彼女を抱き寄せ、顎に手を当てる。
 邪魔されないのは今のうちだけ。
 そんな気がしたからこそ、そのまま唇を塞ぐ。
「……っん」
 今まで我慢させられていた分、つい求めすぎてしまうというもの。
 貪るように口づけ、深く舌を絡める。
 膝の上でじっとしているマリンに内心ほくそ笑みながら彼女を抱きしめると、力なくもたれてきた。
「は……ぁ」
 唇を離すと、うっすらと頬を染めて見上げてきた。
 耳元に唇を運び、そのまま息をかけるように軽く唇を当てると、自然に笑みが漏れる。
「寝ようか」
「……ん……」
 ふにゃんと力を抜いて抱きついてきた彼女を立ち上がらせてから、マリンをソファにおいて自分もベッドに向かう。
 昨夜もここで寝たんだし、大人しく寝るだろ。
 にやりとした笑みを向けながら、彼女の肩を抱いて寝室へ。
 ――……と、マリンが起き上がって先にベッドへと向かった。
「な……っ」
 思わず口を開けてからあとを追うと、マリンがベッドの真ん中にどーんと身体を伸ばして寝転がっているのが見えた。
 ……こ……いつ……!
「マリン! お前、昨日ソファで寝ただろ!」
 わき腹を掴んで、ぺいっと引き離す。
 ……だが、しっかりとシーツを咥えて離そうとしなかった。
「っく……! マリン!」
「いいじゃないですか、一緒でも……」
「よくない。気になるだろ!」
 たしなめようとする彼女に首を振ると、小さくため息をついた。
 ……そんな顔されたって、嫌なもんは嫌だ。
 夜くらい、せめて俺の時間として欲しい。
 やっとのことでベッドから引き剥がしたマリンを、そのままリビングへと連れて行ってソファに下ろす。
 今だけは、たとえどんなに涙誘うような顔と泣き方したって、ダメだ。
「お前はここ。……わかったな?」
 ぴ、と指をさしてやってから寝室に戻り、間仕切りをぴっちり閉める。
 これでさすがに入って来れまい。
「……なんか、可哀想……」
「いいんだよ。……つーか、さ」
「え?」
 ベッドに座りながらこちらを見る彼女を見下ろすと、視線を合わせてきた。
「……俺の相手は?」
「っ……それは……」
「マリンもいいけど……」
 隣に腰かけて抱きしめると、少し濡れた髪が頬に当たる。
 当然のように背中へ回された手。
 ……これがないと、やはり――……。
「……寂しいだろ」
 ぽつりと呟くと、彼女が顔を覗きこんできた。
 その瞳は、どこか嬉しそうに潤んでいる。
「……もぅ。しょうがないなぁ」
「だから、夜くらい羽織ちゃん独占したいんだけど……」
「…………えへへ。いいですよ、マリンに妬いちゃうから」
「しょうがないだろ。……あんなにベタベタしやがって……」
 眉を寄せて小さく呟くと、おかしそうに笑ってからマリンを撫でるのと同じように髪を撫でた。
 それが多少気に入らなかったが、まぁ、いいとしよう。
 とりあえず、今夜の勝者は俺になったんだしな。
 にっと笑って彼女の頬に唇を寄せ、くすぐったそうに瞳を閉じた彼女をベッドに倒し、唇を舐めてやる。
「……ん……」
 耳元で聞こえる、甘い声。
 ……あ。そうだったな。
「え……先生……?」
 ちゅ、と音を立てて口づけをしてから、顔を覗き込んで再びしっかりと唇を舐めてやると、小さく彼女が声をあげた。
「……どうしたんですか?」
「消毒」
「……え? なんの?」
「マリンに舐められたろ。ここ」
 眉を寄せて呟くと、一瞬瞳を丸くしてからおかしそうに笑い出した。
 ……なんか、さっきから俺はこうされてしかいない気がする。
「……笑いごとじゃないんだけど」
「もぅ。先生ってば……子どもみたい」
「子どもはそんな嫉妬しないだろ」
「でも、マリンに嫉妬しなくても……」
「……いいだろ、別に」
 ぷいっと横を向くと、そっと頬に手を当てて視線を戻される。
 瞳を細めて彼女を見ると、まだ顔が笑っていた。
「……何」
「か……じゃなくて、素直だなぁって」
「……今、かわいいって言おうとしたろ」
「してませんよっ」
「嘘つき」
「っ……もぅ……してませんってば」
 ふるふると首を振って苦笑を浮かべるのを見ていると、自然に笑みが漏れた。
 やっと、自分だけの彼女。
 それが素直に嬉しい。
 ……やっぱり単純だな、俺は。
「…………あ」
 首筋に顔をうずめて、舌でそっと撫上げる。
 そのままでボタンを外すと、ぴくんと反応を見せた。
 愛しげに首に回される、細い腕。
 今は、自分だけを感じている。
 それがわかるからこそ、つい口角が上がった。
 首筋から胸元にかけて唇を寄せると、小さく甘い声を聞かせてくれる。
 もっと……もっと、だ。
 そんな欲求を感じながら柔らかく胸に手を這わせると、どこからともなくカリカリと小さな音が聞こえてきた。
「……え……?」
 彼女も気付いたらしく、まばたきをして瞳を開く。
 ……なんだ?
 音のする方向を探すように、視線をあちこちへ向ける――……と。
「くぅぅーんっ……きゅー……」
「っ……」
 まるで、CMでも出てきそうな切なげな鳴き声。
 ……ひょっとしなくても、ヤツ以外に考えられない。
「マリン……」
 身体を起こそうとする彼女を制して組み敷くと、首を振って眉を寄せた。
 何も、そんなに反論したそうな顔しなくてもいいだろ。
「だって! ……かわいそうじゃないですか……」
「夜は独占させてくれるんじゃなかった?」
「……でも……先生も気になるでしょ?」
 肩に手を当てた途端、彼女に間仕切りへ視線を向けた。
 爪でドアをかく、微かな音。
 そして、先ほどから響いている……あのか細い鳴き声。
 …………はぁ。
「……わかったよ」
 大きくため息をついて立ち上がり、仕方なく間仕切りを小さく開いてやる。
 すると、するりと身体を通してとっとこ彼女の隣に飛び乗った。
「よかったね、マリンー」
 嬉しそうに頭を撫でる彼女にのしかかるようにして飛びつき、押し倒して……胸に擦り寄るマリン。
 ……く……お前。
「あはは、くすぐったいよーっ」
 ……ああもう。
 犬に嫉妬する俺はダメなのか?
 人として、失格か?
 などと考えたら、またため息が漏れた。
 ――……結局。
 俺と彼女の間にはマリンがしっかりと陣取って眠り、夜すらもコイツに邪魔されるハメになった。
 せっかくのチャンスが……。
「…………はぁ」
 ふたりの幸せそうな顔を見ながら泣く泣く眠りに就いたのは、言うまでもない。


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