ものすごく気分の悪い朝だった。
なぜだかしらないが、夏休みがあけてからというもの、ロクなことがない。
散々人間に邪魔された次は、犬か……。
朝っぱらから大きくため息をつき、身支度を整える……そんな本日は、月曜日。
昨日は結局、彼女が家に帰るまでずっとマリンに邪魔されっぱなしだった。
俺の独り占めという時間が、皆無。
むしろ、マリンの独占ばかりで……久しぶりに腹が立った。
『マリンのこと、いじめちゃダメですよ?』
結局、彼女も帰るときまでマリン漬け。
……俺は?
内心そんなことを考えながら彼女を送って、憎きライバルと1対1の我が家に帰ってきたわけだが……ため息しか出なかった。
「……お前、絶対わかってやってるだろ」
銀のトレイの前に大人しく座り、尻尾を振りながらこちらを見上げるマリン。
彼女が帰ってからというもの、家にやって来た日と変わらず手の掛からない犬へと変貌していた。
彼女がいるときは、こんな素直じゃないくせに……。
そこらへん、よく理解しているらしい。
彼女がいないと、普通の賢い犬なんだけどな……。
別にかわいくないわけじゃないし、むしろ優秀犬でこちらとしても助かる。
だが、どうしても彼女だけは譲ってくれようとはしなかった。
――……そんな1週間というもの。
連日、はっきりいって面白くない日々が続いた。
彼女が授業連絡にきたかと思えば、『マリン、大丈夫ですか?』だし。
家に帰れば、大人しいマリンと過ごす日々。
だからこそ余計に、彼女の口から普段出ている『ちゃんとごはん食べてますか?』という言葉が自分に対してでないことが、非常に悔しかった。
いつもいつも、マリンばかり。
アイツが来る前は、俺のことばかりだっただけに、やたらと腹が立つ。
まるで、俺のことなんて眼中にないかのようだ。
……ちくしょう。
1日でも早く、飼い主は引き取りに来るべきだぞ。
長い長い1週間を終えての金曜日。
彼女を連れて家に帰ると、朝とは態度のまったく違うマリンが玄関で迎えてくれた。
「マリンーっ! 会いたかったー」
ひしっと抱きしめるようにして彼女が部屋に上がり、そのままリビングへ向かう。
……久しぶりに彼氏に会ったみたいな反応だな。
ため息をつきながら自分もリビングに向かうと、ソファではすでにふたりがじゃれているわけで。
……気分いいものじゃない。
1週間ぶりに我が家へ来た彼女。
先週末は結局マリンに邪魔されて夜も一緒に過ごせなかっただけに、余計イライラしていたのかもしれない。
スーツのままソファにもたれ、ネクタイを外してテーブルに放るだけにしてしまった。
「……はぁ」
しかも、だ。
今は、さらに機嫌が悪くなる要素がほかにもあった。
というのは、先日持って行った論文に早速のクレームが付いたこと。
……教授のやりそうなことだ。
細かい部分を指摘され、自分でも納得のいかない手直し。
疲れているところに、さらに追い討ちをかけるようなもので、笑顔なんてカケラも出ない。
「……くそ」
眼鏡を外してテーブルに置き、しばらくソファに頭を預ける。
普段なら、嫌なことがあっても彼女で癒されるのだが、今回は別。
マリンに独占され、彼女自身もマリンしか頭にないらしく、頬杖をついてそちらを見ても相変わらず楽しそうにしていた。
どうせ俺が元気なかろうと、機嫌悪かろうと、関係ないんだろうな。
自嘲気味に笑ってから立ち上がり、早速論文を直してしまうことにした。
夕食までは少し時間もありそうだし、何より彼女はマリンさえいればいいみたいだし。
……って、拗ねた子どもみたいだな。俺は。
それが少しおかしくもあったが、我ながら若干情けなくもある。
「……え?」
眉を寄せてパソコンに向かったままでいたら、彼女が紅茶を淹れてくれた。
「どうぞ」
「……あ……ありがとう」
頬杖をつきながら彼女に呟くと、少し心配そうな顔を見せる。
……その眼差しを俺にも向けてくれるのか。
すごい久しぶりだな。
「大丈夫ですか?」
「……あんまり」
小さく苦笑を浮かべて首を振る。
……すると、髪に手を伸ばしてきた。
心地よい、感触。
なんだが、やけに久々のような気がした。
そんな彼女に手を伸ばして、そのまま――……。
「あ、危ないよ? マリン!」
「っ……」
くるりと身をかわされた。
空を切る、手。
……はー。またアイツか。
絶対、確信犯だろ。
もうダメだ。
帰るまでは、大人しくしていてくれないらしい。
じぃっと彼女の膝に乗るマリンを見つめてから再び論文に向かうも、ため息の数はぐんと増えた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「……また一緒か」
「だって、独りじゃかわい――」
「わかったよ。……おやすみ」
彼女に背を向けて手を振ると、小さくため息をついて同じようにベッドに入った。
どうせ『マリンが……』だろ?
……なんか、今日1日ほとんど喋ってない気がする。
無論、キスはおろか抱きしめてすらいない。
……はぁ。
疲れが取れない週末になりそうだな。
そう思ってしまうと、余計に疲れそうだった。
「……あれ?」
「よっ。悪かったなー」
随分早い時間に泰兄がマリンを迎えに来たかと思うと、俺の肩をぽんぽんと叩いてから彼女に笑顔を見せた。
「羽織ちゃん」
「え? ……っあ……」
泰兄が笑顔で彼女を手招いたかと思いきや、何を考えたのかいきなりそのまま抱きしめた。
「っな……!?」
俺の、目の前で。
平然と……だぞ!?
「泰兄! お前、何して……!?」
思わず拳を握って彼に歩み寄ると、手で制される。
そして、あのヤらしい意地悪っぽい笑みで見下ろされた。
「っ……!」
それだけじゃない。
彼は、瞳を細めて彼女を抱いたまま耳元に唇を寄せた。
「っん、……や……」
彼女から漏れる、艶っぽい声。
それを構わずに続け、彼は目の前で彼女を責め始めた。
「泰兄! 待てよ!!」
慌てて、彼を掴みかかる。
――……はずだった。
だが、手は届かない。
まるで、立体映像のように空を切る。
「ちょ、まっ……!?」
頬を染めて、うっとりと泰兄を見る彼女。
そんな彼女を満足げに見て、唇を――……。
「泰仁!!」
がばぁっと起きると、全身に嫌な汗をかいていた。
ぐっしょりと濡れた、パジャマ。
どくどくと鼓動が高鳴り、心臓が別の物のように感じた。
時計を見ると、7時を少しすぎたところ。
「……ゆ……め?」
今まで自分が見ていたのが夢だったとわかった途端、一気に身体から力が抜けた。
……よかった。マジで。
しかし、やけにリアリティがあったな。
本当に、彼女を泰兄が――……と思いながら横を見た瞬間。
思わず、凍りついた。
「……ん……くすぐっ……」
眉を寄せて、夢で見たように彼女が頬を染めている。
その耳元には、泰兄ではなくマリン。
しかも、彼女の弱い部分をしっかりと舐め上げている――……マリンが。
「マ……リン……ッ!」
慌てて引き離すと、まだ名残惜しそうにぺろぺろと舌を出していた。
ああもう!!
「お前のせいか!」
顔を近づけて睨んでやると、居心地悪そうに視線を合わせようとしなかった。
やけに賢い。
というか、やっぱり確信犯なわけで。
「……くそっ」
ものすごく気分の悪い夢を見た。
今から改めて寝なおす気にもなれず、マリンを床に離してから自分も起きてしまう。
ちくしょう。
マリンのせいで、泰兄に責められる彼女を見るハメになるとは……胸クソ悪いったらありゃしない。
この件でさらに、マリンが泰兄に見えて仕方がなくなってしまった。
「へぇー、そんな場所あるんですね」
遅めの朝食を終えて、テレビを見ながらこちらに笑顔を見せた彼女。
普段なら笑顔も出るのだが……今の彼女の膝上には、マリンが我が物顔で座っているワケで。
そのせいか、やはり笑顔なんて物は出てこなかった。
「あ」
テーブルに置いておいたスマフォが鳴ると同時にそれを取り、早速電話に出る。
相手は、もちろん泰兄。
どうやら、もうすぐマンションに着くらしい。
……よし。
少しほっとして電話を切ってから、ちゃっちゃと片づけを始める。
預かった荷物をすべてバッグにまとめ、マリンをキャリーに――……。
「……何?」
「抱っこしていったら、だめですか?」
「………………あ、そう」
ぎゅっとマリンを抱いたまま、彼女が立ち上がった。
無論、離そうとはしない。
………ったく。
「…………」
もういい。好きにしてくれ。
もう諦めた。
それに、どうせあと数分なんだしな。
そう考えると、自然に口角が上がった。
ざまぁみろ、マリン。
お前はもう、今日でバイバイなんだぞ。
…………。
……って、ああもう。
なんか、やっぱり俺は人として間違っているような気がする。
いろいろな考えにさいなまれながらエレベーターでエントランスに向かうと、泰兄の車が見えてすぐ安堵のため息が漏れた。
「ありがとねー」
「とんでもない! とってもかわいかったです」
降りてきた泰兄が、彼女からマリンを引き取った。
後部座席に置いたケージを開け、そこに導く。
……よし。
しっかりロックがかかったのをみて、ようやくため息が漏れた。
「ん? お前、何。そんな疲れた?」
「疲れた」
「……っかしーな。マリン、大人しかったろ?」
「それは……まぁ、大人しかったけど」
でも、彼女を独占されたんだぞ。
とはさすがに言えずため息を漏らすと、マリンを見て泰兄が笑う。
「お前、羽織ちゃんに何かしたのかー?」
「とんでもない! 何もしてないですよっ」
笑って首と手を振る彼女をジト目で見るものの、一向に気付く様子はなかった。
……したんだよ、今朝!
べろべろと舐められてたの、知らないだろ。
赤い顔して、ヤらしい声あげてたのに。
不機嫌満点の顔で泰兄を見ると、目が合ってすぐ『ありがとな』と苦笑を浮かべた。
「んじゃ、またね」
「はいっ」
「ありがとなー」
「……早く帰れ」
「はいはい。機嫌悪いみたいだから、とっとと帰ろうなー」
こちらの反応を楽しそうに見ながら運転席に乗り込んだ泰兄が、窓を開ける。
「気をつけて下さいね」
「ん。ありがとー」
いつまでも彼女は手を振り続けていたが、すぐそこの国道へ車が乗ると、すぐに見えなくなった。
……やっとだ。
やっと解放された。
確かにまぁ、賢い犬だった。
マリンは、な。
俺とふたりきりのときは大人しかったし、かわいかったさ。そりゃあ。
――……だが。
彼女を独占され、雲泥の差の扱いを受けた以上、“また”はない。
絶対にだ。
「行くよ」
「……あ」
寂しそうな顔をしている彼女の手を引いて、さっさと部屋に上がるべくエレベーターへ。
いい加減、時間を無駄にしたくない。
……これまでずっと、痛い目に遭わされて来たんだから。
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