「やっぱり、マリンがいないとなんだか……広いですね」
ソファに座りながら彼女が呟いた。
……は。
「普段は、もっと広いんだよ」
ぽつりと言ってやると、ようやくこちらに視線を向けてくれた。
そんな彼女を、何も言わずにじーっと見てやる。
すると、まばたきを見せてから苦笑を浮かべた。
「まだ怒ってるんですか?」
「別に」
あっさりと首を振ってソファにもたれると、彼女が顔を覗きこんで来た。
ようやく得た、彼女に対する自由権。
今ならばマリンはもちろんか、邪魔される相手はいない。
だが、自分を放っておいてマリンを優先していた彼女に、すんなりと手を出す気分にはなれなかった。
別に意地悪をしようとかそういうつもりはない。
……ないぞ?
だが、敢えてこちらから手は出さないことに決めた。
…………彼女が甘えてくるまでは。
そっけない態度にしようと、そう決めたんだ。
理由なんて、ひとつしかない。
「…………」
……悔しかったから、だ。
せめて自分の気持ちを少しでいいから、わかってもらいたかった。
「先生……?」
そっと肩に手を当てて不思議そうな瞳を見せられ、思わず手を出しそうになる。
……だが、我慢。
がんばれ、俺。
そんな下らないことを考えながらそっぽを向くと、小さく笑って頬に手を当てた。
「もぅ。何怒ってるんですか?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃないですか。……もぅ。こっち向いてください」
「嫌だ」
「っ……先生……」
眉を寄せて顔を背けると、両手で頬を包まれた。
久々に感じた、彼女の温もり。
瞳を合わせると、小さく首をかしげる。
「どうしたら許してくれるんですか?」
「……自分で考えたらいいんじゃない?」
「っ……もぅ。先生のリクエスト聞いてるんですよ?」
……リクエスト、ね。
それは願っても無い申し出だ。
ならばこのあたりで許してやってもいい――……が、最後の仕上げは必要だな。
「っ……」
ぐっと両腕を掴んで顔を近づけると、自然に口角が上がった。
「言うこと、なんでも聞いてくれる?」
「えぇ……っ。そ、それはちょっと違――」
「一緒。……リクエスト聞いてくれるんだろ?」
「そ、それは……」
逃れようとする彼女を見つめると、困ったように眉を寄せた。
だが、勿論それくらいで離してやる余裕なんて持ち合わせてない。
ずーっと、ほったらかしにされたんだからな。
そもそもこれは、彼女の言い出したこと。
……イヤってほど最大限に利用させてもらおうじゃないか。
「はい。あーん」
「……うぅ」
とっとと風呂に入れてやった今、彼女を膝に乗せたままグラスを近づける。
さすがに邪魔されるものは何もないため、久しぶりにのんびりできた気がした。
「……もう着替えても、いいですか?」
「ダメ」
「っ……うぅ。なんで、ワイシャツ1枚なんですか?」
「それがいいんだって」
そう。
今現在、彼女はワイシャツを着せているだけという格好だったりする。
もちろん、俺の。
『風呂上りの彼女に、自分のワイシャツ』
やっぱり、これも定番だ。
サイズがデカいからこそ、こう……なんていうか、やっぱイイんだよ。
手が指先しか見えないところとか、足元が微妙なラインで見えないあたりとか。
白い長袖のシャツを渡し、着るようにリクエスト。
あくまで、『強要』ではなく『リクエスト』という点にミソがある。
俺は要望を出しただけであって、承諾は彼女がしたんだからな。
……だからこそ、そういう点での強みがある。
「ほら。いらないの?」
「…………」
軽くグラスを上げてやると、小さくため息をついてから口を開いた。
マリンを返してから、ずっとこんな感じで独り占めを叶えることができている。
でも、元はといえば、彼女がリクエストを聞くと言い出したわけだし。
そんなこんなで、今日は彼女を膝に置いたまま。
……まあ、まだ手を出しちゃいないだけいいだろ。
この1週間、いろいろと我慢させられたことを考えれば、いたって優しいリクエスト。
『今日1日俺のいうことを聞く』
ただ、それだけなんだから。
別に、無理な要求も特にはまだしてない。
彼女にとってみれば、下着にワイシャツ1枚というのもそれなりに無理な要求と取られるかもしれないが、まだまだ甘い。
「…………」
きゅっ、とシャツの裾を掴むようにして座っているのだが、そうして肌に密着させると下着が透けて見えるわけで……。
「……やらしいな」
「っ! せ、先生が着ろって言ったんじゃないですかっ」
「そうなんだけど。……なんか、すごいヤらしい」
「……ぅ」
つ、と背中を撫でるように指を這わせると、少しくすぐったそうに身をよじった。
ああ……楽しい。
思わず笑うと、怪訝そうな顔を向けられた。
「……もういいじゃないですか……」
「よくない」
「だって、今日1日こうなんですよ?」
「1日じゃ足りない。明日もだから」
「えぇ!?」
「当たり前だろ? 1週間、俺がどんな思いしてたと思ってるんだよ」
「っ……でも……」
瞳を細めて呟くと、申し訳なさそうな顔をした。
でも、許してなんてやらない。
「俺とは、いつでも会えるんだっけ?」
「……そ……それは……その。言葉のアヤっていうか……」
「俺がどんだけショックだったか、知らないだろ」
「…………だって、マリンが――」
「マリンはもういい」
ぷいっとそっぽを向いて紅茶を飲んでから、グラスをテーブルに置く。
すると、ガラスの音が部屋に少し大きめに響いた。
そんなに力を込めて置いたつもりはなかったのだが、結構勢いがあったらしく、ため息が漏れる。
「……そんなにマリンがいいのか」
「え?」
頬杖をつきながら呟くと、少しだけ驚いた顔をした。
……ったく。
いてもいなくても、変わらないのか。結局。
ちくしょう。
「マリン、マリンって……今一緒にいるのは誰だ? ……俺はどうでもいいわけ?」
「っ……そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、何?」
「……先生……」
困ったように眉を寄せ、小さく俯いてしまった彼女。
……俺は、別にいじめてるわけじゃない。
じゃないんだけど……だから、そんな顔するな。
「ずっと俺よりマリンだったクセに……まだ俺に我慢しろって?」
「……先生、我慢してたんですか?」
「当たり前だろ。1日どころか、ずーっとマリンばっかり。……機嫌がすこぶる悪い」
じぃっと瞳を細めて呟くと、困ったような瞳が向けられた。
正直な気持ち。
こんな状況で、機嫌がいいわけがない。
「……ごめんなさい」
「ったく……」
ソファにもたれると、申し訳なさそうな彼女がぎゅっと抱きついてきた。
久しぶりに感じる温もり。
そして、自分と同じ香り。
このまま許してやろうかという気にもなるが……ここは、あえて我慢。
「おやすみ」
「っあ……!」
彼女の肩を離して立ち上がり、ひとりで寝室に向かう。
「……先生ぇ……」
途端に聞こえた寂しげな声に後ろ髪引かれるが、やっぱり耐える。
……なんせ、これからいろいろとしてもらわなきゃいけないことがあるからな。
「…………」
俺だって、たまには甘えてほしいんだ。
彼女にあんな格好をさせたからか、余計にそんな想いが強くあった。
先にベッドへ横になると、やけに広く感じた。
平日と変わらないはずなのだが、今だけは彼女がいるせいかそんなふうに感じる。
しばらく、彼女が寝るほうに背中を向けていると、ほどなくしてベッドがきしんだ。
「先生……?」
とんとん、と腕を叩かれるものの反応は見せてやらない。
意地が悪いとかなんとか言われるだろうが、それだけ悔しかったんだ。俺は。
「……もぅ。起きてますよね?」
寝れるわけないだろ。
1週間散々な目に遭って、実質2週間も我慢してるんだぞ、こっちは。
――……が、次の瞬間。
「な……っ」
小さくため息が聞こえたかと思うと、ぐいっと肩を押された。
そのまま仰向けにされると同時に、彼女が顔を覗きこむ。
肩口に手を置き、いつも俺が見下ろすような格好で。
「ちゃんと聞いてくださいっ……」
「……何」
「もぅ。どうしたら……許してくれるんですか?」
「許してほしいの?」
「っ……! 当たり前じゃないですか!!」
久しぶりに大きな声で怒られた。
途端、少しだけ泣きそうな顔が目に入り、喉が鳴る。
……そんな顔するなよ。
許してやりたくなるだろ。
眉を寄せて少し潤んだ瞳を見ると、つい信念がグラつく。
「もぉ……意地悪しないで……」
「今までずっと意地悪してたのは誰?」
「……だって、そんなふうに思ってたなんて……知らなくて」
ゆるゆると首を振るたび、彼女の髪先が首筋に当たる。
くすぐったさをこらえながら彼女を見ると、なんとも言えない甘い顔を見せた。
「……ごめんなさい……。ちゃんと謝ります。だから……許して」
「…………許してもらいたいときの謳い文句があるだろ?」
「え?」
意地悪く笑ってやりたくなるのを我慢しながら呟くと、少し瞳を丸くした。
知らない、とは言わせない。
「……謳い文句……ですか?」
「そ。『なんでもするから』って言って」
「っ……なん、でも……?」
途端、眉を寄せて訝しげな顔を見せた彼女。
そういう顔をするだろうとは思ったが、そんな思いは微塵も出さずに少し視線を外す。
「イヤなら、別に俺は――」
「っ……! い……言います。……だから……そうしたら、許してくれる……?」
「いいよ」
再び背を向けようとすると、首を振って彼女が制した。
そんな彼女に小さく笑うと、ため息をついて瞳を合わせる。
「……なんでもします」
「そう?」
「うん。だから、許して……」
「…………へぇ。そこまで言われたら、しょうがないな。許してあげてもいいよ」
「っ……ホント?」
「うん」
嬉しそうに表情を明るくした彼女へ頷くと、それはそれはかわいい顔を見せた。
そんな彼女を見ながら肩へ手を滑らせ、改めてベッドに倒す。
「……せ……んせ……」
驚いたような顔を見せて、胸の前で手を合わせた彼女。
そんな仕草でさえも、ワイシャツ1枚という格好だと誘ってるんじゃないかと思えてくるから……たまらない。
「今、なんでもするって言ったよね?」
「……い……言いました、けど……」
「じゃ、ひとつ約束。声を出さないで我慢する。……わかった?」
「え!? な、何する気ですか?」
「別に? ただ、あんなことやこんなことを。だって、2週間も我慢させられたんだし、俺のつらさはハンパないよ? なのに、これくらいで許してやろうってんだから、優しいと思わない?」
「な……なっ……!?」
にっこりと笑みを見せながら頬に手を当てると、困ったように眉を寄せた。
もちろん、その頬は赤く染まっているわけで……いいね。
「……声……出したらどうなるんですか……?」
「ん? それ聞く?」
小さく呟いた彼女に瞳を丸くしてから、にっと意地悪い笑みを見せてやる。
「許してやらない。……当然」
「っ……! そんな! だって、『なんでもする』って言ったら許してくれるって……!」
「なんでもするって言うから、『声出すな』って言ってるんだろ?」
「……うぅ、そんなぁ……」
いかにも騙された、という感じの声色。
……失敬だな。ウソはついてないのに。
「……声出したら、タダじゃおかないから」
「ぅ。何するんですか……」
「まぁ、いろいろね。ほら……エプロンで1日すごしてもらうとか」
「やっ……!? それは、やだ!!」
「そ? じゃあ、がんばって耐えてね」
「……ぅ……」
慌てて首を振る彼女に笑みを見せると、小さく呻いて眉を寄せた。
さて。
それじゃ、きっちり払ってもらおうか。
俺が我慢した2週間分の、デカくてつらい代価を。
………………とはいえ。
そんな簡単に声を出させないつもりはこれっぽっちもないあたりが、ミソといえばミソだが。
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