「それで、これなんですけれど……どれがいいと思いますか?」
彼女の頭を撫でてからメシを再開すると、床に置いたままの本を見て彼女が笑った。
「……そうだな……。まぁ、こういうのは羽織ちゃんに任せるけど」
「そうですか?」
「うん」
「でも、せっかくだから……先生の意見も聞ければなぁと思ったんですけど」
スパゲティを少し多めにフォークですくって、口へ運ぶ。
若干冷めてはいたのだが、まぁ、気になるほどでもないし。
味に変わりはないんだからこそ、このままいただく。
「でも、やっぱ……こういうセンスを問われるモノは……それに、俺に聞かれても正直どれがどうっていうのかわからないし」
なんとも頼りがいのない返事しかできないのだが、彼女はくすくす笑いながらも『わかりました』とうなずいた。
……しょっぱなどころか、その前の段階からすでに情けないのだが……これはどうなんだ。
なんだか、いざとなったときにはもっと何もできないような自分の姿が目に浮かんで、苦笑が漏れた。
「……でも、すごくかわいかったんですよ?」
「ん? 何が?」
「もちろん、赤ちゃんです」
「っ……ごほっ……!?」
「わっ!? せ、先生!? 大丈夫ですか!?」
「げほごほごほっ……!」
ちょうどアイスティーを飲みながらだったので、思わず、妙な所に流れ込んだらしい。
ぐっと息が詰まるのがわかって、途端に苦しいほどの咳き込みに襲われる。
……あー……。
頭ではちゃんとわかっているんだが、どうも……うん。
やっぱり、いざその言葉を耳にすると、まだまだ動揺するモンだな。
その点、まったく動じずにどころかものすごく嬉しそうに笑って話す彼女は、本当にしっかりしてるんだと思わされる。
「……えーと……。かわいいってことは……性別とかももうわかるってこと?」
「もちろんですよ! こんな小っちゃい手が、ぎゅーって握ってて……すごくかわいかったです」
「……そうなんだ」
最近の医学というのは、どうやら相当発達しているらしい。
……だって、まだ彼女はお腹が大きくなってるワケでもないんだぞ?
それなのに、すでにわかるとは。
いやまぁ、俺は医学をかじってないのでわかってないだけなんだとは思うが……しかし、改めて驚かされる。
「それで?」
「え?」
「……何ヶ月だって?」
どうしてもそういうところに話が及ぶと、自然に声が小さくなってしまう。
……我ながら情けない。
だが、彼女はやはり平然と俺に笑いかけた。
「まだ、1ヶ月経ってませんよ?」
「……そう、なのか」
「はい」
にこにこにこ。
俺とは違って、この手の話をする時の彼女は、本当に輝いて見える。
……嬉しそうとかそういうレベルじゃなくて。
本当に、心底から祝福してるんだなというのがひしひしと伝わって来て、こちらまで幸せな気持ちになる。
……まぁ、まだ……徐々にという感じではあるが。
しかしながら、こういう所を見ると女性がいかに強いかというのがわかるな。
「顔なんかも、こんなに小さくて。あくびする所なんか、すごくかわいかったんですよ」
「……へぇ。欠伸なんかするのか」
1ヶ月経っていないということは、まだ……いわゆる受精卵からちょっと進化したかくらいの状態じゃないのか。
それなのに、性別やら表情やら……手やら。
そういう器官までしっかりと識別できるなんてのは、本当にすごいんだな。
……ちょっと、現代の医療をナメてたかもしれない。
改めて、少し反省する。
「……でも、すごいんだな」
「え?」
「確か、1ヶ月とかっていうと……本当にこんな小さいんじゃなかったっけ?」
フォークを置いてから、指先でなんとなくの大きさを示してみる。
……うん。
いや、もしかしたらもっと小さかったかもしれない。
そんなことを考えながら彼女を見ると、少しだけ瞳を丸くして首をかしげた。
「それなのに、性別とか表情とか……そういうのがわかるなんて、すごいよな」
最後のほうは、独り言のようなモノであったかもしれない。
改めてフォークを握り、パスタに絡める。
――……と。
「……え?」
いきなり、彼女がおかしそうに声をあげた。
「もぅ、先生ったら何を言いだすんですかー」
「え……何って?」
ワケがわからないのは、俺のほう。
『先生ってば』なんて言われても、それを正直飲み込めない。
……それとも、何か?
現代の女子高生ってのは、そのテの知識までしっかりあるってことなのか?
なんてことを考えながらまばたきをすると、小さく息をついた彼女が改めて笑みを浮かべた。
「だって、もうちゃんと生まれたんですよ? わかるのは当たり前じゃないですか!」
にっこりと。
はっきりと。
……そう今、言ったよな……?
「…………え……?」
今、確かに目の前で彼女が言った言葉が耳に残り、そして再び頭に響く。
『生まれた』
今、そう間違いなく彼女は言った。
……言った……よな……?
「…………」
くすくす笑っている彼女を見ながら、だが、やはり俺自身はまったく事情を飲み込めなかった。
「えー……と。……何……? 生ま、れた? え? できた、んじゃなくて?」
「え? はい。生まれたんですよ? 赤ちゃんが」
「……いつの間に?」
「えっと、今週の火曜日です」
「……火曜日に……?」
1度寄った眉は、まだ元に戻らない。
それどころか、眉間のシワが一層色濃くなっているような気さえする。
「…………つかぬことを聞いてもいいかな」
「はい?」
「それって……誰の赤ちゃん?」
問題点というか、1番重要なポイントはそこ。
まじまじと彼女を見つめて呟くと、ごくりと喉が大きく鳴った。
「棗お姉ちゃんです」
「……棗……?」
「あれ? 先生、知ってたんじゃないんですか? ほらぁ、優くんのお姉ちゃんで、武人さんと結婚した……」
「…………っ! あ! あー、あの人か!」
しばらく考え込んでいた俺だったが、ようやくひらめいた途端に眉間のシワが吹き飛んだ。
棗さん。
それはまさしく、先日結婚した俺の友人である武人の嫁さんで。
……そして、同時に――……優人の姉さん。
武人も、エラいのが義弟になったモンだとつくづく思った。
……ワケ、だが。
「え……?」
また、眉が寄った。
もしかして。
……もしかすると……。
「……それじゃあ……もしかして、この間産婦人科に行ったっていうのは……」
「え? あ、はい。棗お姉ちゃんに……面会ですけれど……」
がばっと身を起こして彼女に寄ると、少し驚いたような顔をしてから、口元に手を当てて確かにうなずいた。
……あー……。
なるほど。
そうなってくると……これはまた、話が違うワケで。
……なるほどな。
そういうことか。そういうワケだったのか。
「……そっか……妊娠したから、じゃなかったのか……」
「っ!? え、なっ……なっ……!? ち、違いますよ! そんな!!」
「……だね」
真っ赤な顔をしてぶんぶんと手と首を振る彼女を見れば、一目瞭然。
そうか。
…………ってまぁ、そうだよな。
ほっとしたと同時に、少しだけ……残念がってる自分もいて。
いや、やっぱりコレでよかったんだ。
彼女はこれから目指す夢がちゃんとあるんだし、それに……俺たちのことを許してくれているご両親の手前、きちんと順序は踏んでいかねば。
「え……?」
「……ごめん。なんか……いろいろ妙な心配してた」
改めて彼女の頭を撫でると、まだ赤くなった顔のまま俺を見上げた。
「……ずっとさ、いろいろ考えてたんだ。絵里ちゃんが見たらしくて……それで、怒られたよ」
「えっ!?」
「いや、でも……うん。彼女の気持ちはわかるし、それにどう考えたって非は男側にあるんだから」
今回は確かに違ったとはいえ、『もしも』がないとは言えない。
だからこそ、気をつけると同時に……本当に責任を負わなければいけないワケで。
……予行練習、みたいなモンだったな。今回は。
あまり適切な言葉とは思えないが、これでもそれなりにここ数日間はいろいろと考え、あれこれと想いを馳せた。
だからこそ。
「……そうなったときは、隠さず俺に話して?」
彼女ならば、ひとりですべて背負い込むんじゃないか。
そんな思いがあるからこそ、まっすぐに瞳を見て告げていた。
「……大丈夫、です」
おずおずと口を開いた彼女は、少しだけ赤い顔のままで、首を縦に振った。
「もし……。……もし、赤ちゃんができたら……そのときは、ちゃんと先生に話して……生む、から」
最後の最後で、消え入りそうなほど小さな声になった。
そんな彼女を改めて抱き寄せ、髪を撫でてやる。
「……ダメなら、ひとりでも……」
「え?」
「だ、だって……! だって、先生との……赤ちゃん、だから……」
「ひとりにはさせないよ?」
「っ……先生……」
「当たり前だろ? ……俺たちふたりのことなんだから」
何を言い出すのかと思えば、やはり。
……下手したら、いざそうなってしまったとき彼女は俺に話せないかもしれない。
思って考えて悩んで。
そうなって結局――……答えを、ひとりきりで出されてしまったら。
そう考えると、やはり不安で。
「……だから、ちゃんと話して?」
「…………はいっ……」
改めて彼女の目を見たまま首をかしげると、きゅっと唇を軽く噛んでから、彼女が笑った。
心なしかその瞳が、どこか……潤んでいるように見えて。
「……ふたりで、いろんなこと決めなきゃな」
「…………ん」
胸に置かれていた彼女の両手を、それぞれ手にして握り締める。
すると、ぬくもりが伝わって来ると同時に、彼女が確かにうなずいてくれたのが見えた。
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