「この前……えっと、月曜日だったと思うんですけれど……」
「うん」

「葉月が、奨学生に選ばれたんです」

 ソファに足を崩して座るようにした彼女が、組んだ両手を見つめながら呟いた。
 その表情は、どこか……ほんの少しだけ、寂しそうで。
 だが、次の瞬間には彼女らしい笑みに変わってしまった。
「……すごいじゃないか」
「ですよね」
「おめでとう」
「ありがとうございます。……って、言うと思いますよ」
 伝えておきますね、と笑った彼女の顔を見るのが、少しだけどうしても切なくなる。
 ……そんなふうに笑わなくてもいいんじゃないか……?
 思わず、そう口から出そうだ。
「同じその日に、絵里が……七ヶ瀬の二次試験を受けるって聞いて」
「……絵里ちゃんが?」
「はい。なんでも、理学部への転部を勧められたとかで……」
「っ……理学部、の……?」
「え? はい、そう……言ってましたけど」
 理学部という言葉に、つい、過剰に反応していたらしい。
 改めて自分の表情を確かめると、眉を寄せて……あんまり歓迎してるという感じじゃなかった。
 ……いや、別に深い意味はないんだけど。
 なんとなく……。
 そう。なんとなくだよ、なんとなく。
 突然聞かされた衝撃事実だが、まぁ……仕方がない。
 今だけは、穏便に済ませておこう。
 なんせ、今この場で1番重要な話は、絵里ちゃんがどの学部に進むかということじゃないから。
「……それで……」
「うん」
「そんなふうに……いろんなことがあって……」
「……うん」

「多分……自分自身でも、焦ってたんだと思うんです」

 それまで伏せがちにしていた顔を上げた彼女は、言葉に詰まるどころか――……気持ちまでも詰まるような。
 そんな、なんともいえない表情をしていた。
「葉月のことは本当にすごいと思うし、本当におめでたいことだと思うし……。絵里のことも、そう。だって、すごいんですよ? 絵里ってば大学の人に、直々にお願いされたんですもん」
 穏やかな笑みに、違いはない。
 ……だが。
「…………」
 どうして、こうも正視しがたいんだろう。
 まっすぐに見ていると、問答無用で止めてしまいそうだ。
 『もういいから』
 思い切り抱きしめながら、耳元でしっかりと。
「……感化されたっていえば、いいんでしょうけれど……でも私……どこかで『どうしよう』って思ったんですよね。その日から寝るのがなんだかもったいなくなっちゃって。……気付くと、すごい時間まで机に向かってたりとか」
「…………」
「……でも、本当に勉強してるかって言われたら、『うん』って言えなくて。椅子に座ってても、ただただ気持ちばかりが先に行っちゃって、身体が付いていかなくて」
「…………」
「寝不足っていうのはわかってたんですけれど……なんか、ちょっとだけ……急にがんばりすぎたみたいで……それで――……っ!」
 普段より、饒舌に物事を喋る彼女。
 相槌を打てばよかっただろうか。
 それとも、所々で自分の考えを言ったほうがよかったか?
「……そっか」
「っ……」
 だが、俺にはどれもできなくて。
 その前に、考えるどころか身体が動いた。
「先生……」
「無理に笑わなくてもいいんだよ?」
「……え……?」
「つらかったろ」
「……っ……」
 抱きしめたままで呟くと、一瞬、彼女の身体が強張った。
 顔を見えないようにしたのは、ある意味正解だろう。
 このほうが、きっとお互いにとってイイはず。
「自分だけ、って思った?」
「……ました……」
「ん。でも、センターの自己採点のでき、よかったんだろ?」
「あれは……っ……でも……模擬試験の判定は――」
「判定は、あくまで目安だよ。……実際の合否には関係ない」
 背中を撫でるようにしながら、静かにゆっくりと続ける。
 少しこもって聞こえる彼女の声。
 だが、まだ――……潤んではいない。
 それが正直言って、俺には救いだ。
「……やるだけやったんだから、結果はちゃんと出るよ」
「…………でも……」
「悪いようにはしない」
「……え……?」
「これまでずっと、嫌いな科目だってがんばったんだから。……ちゃんと報われるよ」
 どれもこれも、『気休め』だと彼女には怒る権利がある。
 いい加減なことを言うな、と言われても反論はできない。
 これでも、俺だって大学との関係は深いほうだろう。
 もしかしたら、教授に直談判をして頭を下げれば、世間よりずっと早く結果を得られるかもしれない。
 ……だけど。
「二次試験の出願は、もうしたんだろ?」
「……しました……」
「ん」
 彼女は、正々堂々とここまで自分の力だけでやって来たんだから。
 俺が反することをしてどうする。
 何ごとに関してもまず頭に浮かぶのは、大切な彼女のこと。
 まず、『彼女がどう思うか』という考えに及ぶから、俺も(とど)まってられるんだ。
「…………」
「…………」
 音のない、リビング。
 ただ、腕の中にある温もりだけが、今を確かだと語っていて。

「……ありがとうござます……」

「え……?」
 動かないままの彼女が、そう呟いてから――……俺をまっすぐに見つめた。
 少しだけ潤んだ瞳と……そして、儚いながらも確かな笑みで。
「きっと……」
「……うん?」
「ずっと、そう言ってもらいたかったんだと思います」
 えへへ、と笑って首をかしげた彼女に、こちらも笑みが浮かぶ。
 ……ほっとしたのは、こっちのほう。
 気休めかもしれないし、慰めかもしれない。
 それでも、彼女が少しでも心からの笑みを浮かべてくれるならば。
 ……そう思っていたからこそ、正直に嬉しかった。
「……ん」
 彼女がどれほどがんばってるかなんて、見ていれば誰でもわかる。
 諦めていない。
 見つめている先が、ちゃんとある。
 ……それくらい、芯の強い瞳が確かに語っているから。
「……せっかく、励ましてもらったのに……」
「ん?」
「……ごめんなさい……っ。……今日、できなくて……」
 小さく、小さく。
 唇の動きで読み取れた言葉で、思わず瞳が丸くなった。
 ……その言葉の、意味する所。
 それが、ピンと来たから。
「…………」
「先生……?」
 まるで、俺の表情を伺うかのように上目遣いで見上げた彼女に、ただただ黙って両頬を手のひらで包む。
 温かい彼女。
 柔らかい滑らかな肌が、心底心地イイ。

 むに

「っいぅ……!?」
 ぽよぽよとした頬が、見事なまでに左右へ伸びた。
「……っもぅ! 痛いじゃないですかっ!」
「わかった?」
「……え……?」

「俺がなんで怒ってるか」

 両手で、頬をしっかりとさする彼女に対するこちらは真顔。
 少し、いつもより力が入っていたような気がしないでもない。
 暴力だと怒られれば、文句は言えないこと。
 ……だが、しかし。
 今の言葉は、正直言って心外だ。
「俺は、身体が目的なんかじゃない」
「……え……?」
「確かに、会うたびに求めてる人間が言っても、説得力はないだろうけど……。でも、俺が羽織ちゃんを抱けないからって、嫌いになるとでも思ってる?」
 少しだけ、いつもより声が低い気もする。
 ……そして、少しだけ強い語調であるとも。
 だが、まっすぐに瞳を逸らさず俺を見つめている彼女に、つい、自分の思いをどうしても伝えておきたかった。
「俺は『瀬那羽織』が好きで、だからこそ一緒にいたいと思うんだよ。羽織ちゃんといる時間が好きなんだから。身体を求めるっていうのは、その延長」
 あますことなく、全部、何もかも。
 これが、本音だから。
 だからこそ、どうしても伝えたかったし、何よりも彼女自身に知っていてほしかった。
 確かに、彼女にしてみれば『わかってる』と言われてしまうようなことかもしれない。
 でも、どうしてもこのことに関しては、不安になってなんかほしくないから。
 自負してもらいたいからこそ、あえて何度でも口にしてやりたい。

「……そりゃ、羽織ちゃんを抱くのは好きだけどね?」

 少しだけ、語調が強かったか。
 しゅん、と何も言えずに困ってしまった彼女を見たら、このセリフだけはいつもと同じ調子で出てきた。
「……もぅ……」
「ホントのこと」
 そこでようやく、彼女が困ったように笑った。
 当然のように、俺にも笑みが浮かぶ。
「……だから」
「え? ……っ……!」
「たまには、のんびりすごすのも悪くないだろ?」
 瞳を丸くした彼女を抱きしめ、そのままの勢いでソファにもたれる。
 のんびり、って感じじゃないなんて笑われそうだが……それはそれ。
 言うことはきっちり宣言した以上、雰囲気を引きずるつもりなんてさらさらない。
 ……ましてや、今日。
 彼女はわざわざ、この家で俺の帰りを待ってくれていたんだから。
「……体調は?」
「あ……平気です」
「ん。それじゃ、もし具合悪くなったらちゃんと言って?」
「はい」
「……よし」
 くすくす笑っていた彼女のお腹をそっと撫でると、一瞬くすぐったそうに身体をよじってから、笑みとともに首を横へ振った。
 それが――……というか、彼女がそうやって微笑んでくれたことが、本当に嬉しく思う。
「もぅ……。先生、なんか……先生みたい」
「……なんだそれは」
 笑い声がすぐここで聞こえる距離。
 ……そして、簡単に笑みが出てくるこの雰囲気。
 やっぱり、彼女とすごすならばこうでなくては。
「……べったりくっ付いて寝るか」
「手も繋いでくださいね?」
「いいけど?」

 高くつくよ。

 ニヤっと笑って耳元に囁くと、一瞬瞳を丸くしてから彼女がおかしそうに笑った。
 とはいえ、まぁ――……彼女がこの言葉の意味を知るのは、もう少し先に……というか、来週あたりになるとは思うが。
 ……などということを、わざわざ教えてはやらない。

「おはようございます」
「あ。おはよー」
 恒例の朝の行事。
 ……そして、毎週の朝の慣例。
 準備室に荷物を置いてから向かう、職員室への道。
 その途中で白衣を翻しながら歩く純也さんを見つけ、隣に並んでいた。
 職員室の自分の机に行くのは、割と久しぶり。
 ……使ってないから、物置同然なんだが。
 その内、誰かしら目上の先生に苦言を呈されるだろうから、そろそろ片付けておかねば。
「そういや、聞いたよ?」
「え?」
「羽織ちゃんのこと」
 明るい口調で振り向くと、にっこり笑った彼が――……その顔を苦笑に変えた。
「……絵里のヤツ、残念がってた」
「え……?」
「はは。笑えるだろ? っていうか……それじゃお前、どっちなんだって話なんだけどさ」
 まさか、そんな言葉が飛び出してくるとは思いもしなかったので、だからこそ思わず瞳が丸くなった。
 そんな俺を、『そりゃそうだ』と言いながらうなずいた彼が、あらに続ける。

「なんでもさ、アイツ……名付け親になりたかったらしいんだよ」

「……へ?」
 そんな話、もちろん聞いてない。
 ぽかんと開いた口は、それを示すかのように暫くそのままだった。
 ……そもそも、だぞ。
 あのとき『もしも』があるかもしれないってことで、わざわざ半分休みになったようなこの時期に、朝っぱらから怒鳴り込んできたのは……いったいどこの誰だった?
 紛れもなく、皆瀬絵里その人じゃないか。
 ……なのに……何?
 名付け親、だと……?
 けらけら笑いながら『ホントワケわかんねーよな』と笑う彼を見たままで、しかし俺はやっぱり笑えなかった。
「それまで散々『何がいいかしら』とか言ってリストまで作ってたんだぜ? でも、羽織ちゃんに電話で聞いた瞬間さ、目に見えたんだよ。アイツがしゅー……っと落ち込む様子が」
 それが、少しだけおかしかった。
 そんなふうに続けた彼は、ひとしきり笑ったあと――……大きく息をついた。
「……でも、よかったな」
「え?」
「これで、生涯引きずることはなくなっただろ?」
 にっと微笑んだ彼に、思わず何も言えなかった。
 ……だが。
 もちろん、彼の言う通りで。
 先日ふたりで話したように、きっと彼女は“生む”という判断をしてくれるだろう。
 そしてそれは、俺も同じ。
 ……だけど。
 あれほど、彼女は大学へ……そしてその先へ進むために精一杯がんばってきた。
 それを知っているからこそ、どんな形であれ断念してほしくないという気持ちが第一。
 ほんのわずかでも『ああなっていれば』とか『もしも今と違ったら』と後悔させることだけは、どうしても避けたいと思っていたから。
「……ですね」
 職員室のドアが見えた曲がり角で、笑みとともに小さくうなずく。
 そのときの笑みの理由が、『絵里ちゃんが名付け親にならなくてよかった』と思ったから出たモノかどうかは……俺自身もよくわからない。
 だが、今は――……。
「んじゃ、また1日がんばるか」
「そうっすね」
 先日交わした彼女との約束事で、何よりも自身が勢いづき、そして大きな自信になっていることは、確か。
 純也さんにうなずいたそのときの顔は、今度こそその理由からの笑みだったから。


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