「……休みか」
出席簿を手にしながら、ついそんな言葉が漏れてしまう。
もちろん、最初からわかっていたこと。
なのだが、やはりどうしても口から漏れた。
窓際の、主のいない席。
そこが、やけに大きく目に映る。
出席番号7番 瀬那羽織
本日の日付のマスには、しっかりと『公』という公式欠席を示す判が押されている。
それを眺めてから出席簿を閉じ、本日の連絡を済ませてしまうべく生徒たちに向き直る。
「それじゃ、今日の連絡。まず――……」
やけに響く自分の声。
いつもならば、たったひとつ席が空いていても気にならないのだが、彼女の席となると話は別。
相変わらず、勝手な教師だ。
漏れそうになる苦笑を抑えながらプリントを数枚配り終えると、自然に朝のSHRは終了となった。
「せんせー」
ペンを胸ポケットに戻しながら教室を出ると、後ろから声がかかった。
振り向かずともわかる、声の主。
小さくため息をついてからそちらを見ると、やはりいたずっぽく笑った絵里ちゃんがいた。
「先生、羽織がいないと寂しそうね」
「そう? 別になんとも思ってないけど」
「嘘つき。わかるわよ、そんなヘコんだ顔してれば」
……う、と思わず言葉に詰まりかけたのに気づいたらしい彼女は、くすくす笑って歩み寄ってくると腕を叩いた。
「先生、明日と明後日いないんだっけ?」
「……まぁな」
「じゃあなおさら、お別れの挨拶したかったでしょうねぇ」
「お別れとか、縁起でもない言葉を言わないでほしいね。……ほっといてくれ」
思わず悪態をついて彼女を睨むと、思い出したように手を打った。
その、あからさまな演技は指導を入れたほうがいいのか。
「んー、いーのかなぁー? そんなふうに言っちゃってぇ」
「何がだよ」
「……その彼女さんから、お弁当預かってるんだけどー?」
「っ……それを早く言うもんだろ!」
「あら。随分な言い方じゃない? 人に頼むときはどうするもんだって、習わなかったの?」
「く……っ」
相変わらず嫌味たっぷりに笑みを見せると、いかにも横柄な態度で腰に手を当てた彼女。
……ちくしょう。
ここに純也さんがいないのが、非常に悔やまれる。
彼は5組の副担任なのだが、現在もまだHR中らしく廊下にも生徒の姿はなかった。
「ほらぁ。欲しくないの?」
「……ください」
「何を?」
「弁当だよ、弁当! こっちだって時間がないんだから、とっとと――」
「祐恭先生。そんなんじゃ、手に入らないんじゃなくて?」
「……っ……くそ」
「んー? 何か聞こえたかなー?」
わざとらしく耳に手を当て、手にしている小さな包みをぷらぷらと振ってみせる。
……ちくしょう。
なんで俺がこんな目に。
ため息を漏らしてから彼女に向き直り、開こうとしない口を無理矢理開けるべく気合を入れる。
自分の身体なのに言うことを聞かないなんて、どんだけ拒否反応だ。
「皆瀬さん彼女のお弁当をいただきたいんですけど?」
「ん、よろしい。そうやって最初から言えばいいのに」
けらけら笑って包みを差し出し、わざとらしく首を傾げてみせる。
……あーもー。
ホントに、我が最愛の彼女とは大違いだ。
「そこに笑顔があると、もっといいのにねー」
「無理」
即答して冷ややかな視線を送ってから、彼女に背を向けて渡り廊下へと足を向ける。
……背後で何やら文句を続けていたが、まぁ、気にしないことにしよう。
本日、彼女は県主催の英語のスピーチコンテストに参加するため、公欠扱いなのだ。
それに対して。
絵里ちゃんが言っていたように、自分は明日明後日と山梨で行われる化学会主催の討論会へ出席しなければならないので、学校にくることはない。
今後は、何かと大学に行く用が増えるので、学会自体に出席するのは仕方ないのだが、せめてわずかでもいいから彼女と話がしたかったのが本音。
……2日も会えないのか。
明後日の夜にはこっちへ帰ってこれるが、今日は彼女と会えるわけがなく。
わざわざ向こうで食べれるように、と捨てられる容器に弁当を作ってくれたのは嬉しかったが、それよりも笑顔で見送ってほしかった。
……なんて、ワガママだよな。
ごめん。
別に、好意に差をつけたいわけじゃないんだ。
「……はぁ」
今ごろ、会場で緊張しているんじゃないかと思うと、やはり心配でため息が漏れた。
オンオフで会えない状況。
これは今まで経験したことがなかっただけに、自分が随分気落ちしているとわかる。
……でも、彼女も同じかも知れない。
などと思うと、どちらとも取れない苦笑が独りでに漏れてしまった。
「………はぁ」
会場に着いてからというもの、うろうろと所在なさげに歩くことしかできない。
市の文化会館の一室で行われんだけれど、やけに会場が広く感じた。
冬瀬市と近隣市から集まった、各高校の代表者たち。
誰もが優秀そうで、自分より遥かに英語が堪能に見える。
……あのときと一緒。
あの、七ヶ瀬での推薦入試のときと。
今回、うちの学校から選抜されたのは、各学年2名ずつの計6人。
3年のもうひとりの代表者が友人だったのがせめてもの救いだけど、ふたり揃ってもただお互いを励ますことしかできなかった。
「……どうしよう」
「もー。どうしようったって、しょうがないじゃない? 大丈夫だってば。どうしても優勝しろって言われたわけじゃないんだし」
「それが、言われたんだよね……日永先生に」
「マジ!? ……あー、でもちょっと納得できるかも」
そう言って苦笑を浮かべたのは、7組の子。
彼女のクラスの担任は穏やかな先生なので、日永先生の名前を出した途端に『大変だね』なんて言われた。
……はぁあ。やっぱり、気が重い。
私たちのスピーチは、午後の予定。
なので、まだまだ当分順番は回ってこない。
ほかの人のスピーチを聞く時間が長ければ長いほど、不安や余計な考えに酷く左右されてしまう。
……自分の悪い癖だ。
でも、彼ならば――……きっと、祐恭先生ならばこんなふうに他人の一喜一憂で自分のペースを乱すこともないんだろうな。
「……はぁ」
もう、今日は朝からずっと彼のことしか考えていない自分が、情けなかった。
いくら願っても会えないのに。
今日の午後から山梨に行くと言っていた、彼。
普段週末しか一緒に過ごせないだけに、平日も彼の姿を見ることすらできないというのが本当につらかった。
しかも、帰ってくるのは明後日の金曜日。
午後帰ってくるのか、夜帰ってくるのかはわからないけれど、寂しさはどんどん募っていく。
お弁当を作って絵里に託してきたけれど、今さらになって手紙でも付けておけばよかったと後悔した。
本当ならば、ちゃんと見送りたかった。
それが叶わないから……とお弁当にしたものの、やり残したことを思い出すとどうしても引きずってしまう。
……先生、今ごろ何してるんだろう。
ロビーの椅子に腰かけながら大きな窓を眺めると、空を滑るように飛んでいく鳥の姿が見えた。
羽があればなぁ。
この緊張感から逃げ出したいというのもあるけれど、真っ先に彼へ会いに行きたかった。
彼と会えるだけでも、自分のモチベーションが上がるとわかっているから。
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