「……はぁ……」
「なんか、疲れたねー」
「うん」
ようやく昼休みになり、一気に会場から緊張感がなくなる。
昼食のための時間は1時間用意されており、その間は思い思いの場所で休憩を取ることが許されていた。
講堂を抜け出して、日当たりのいいロビーの椅子に座る。
眺めがよくて、穏やかな日差し。
そんな場所で昼食を終えてしまってから、他愛無い会話を続ける。
……だけど、どうしても方向がスピーチ関連になってしまい、否が応でもこのあとのことを考えざるを得なかった。
「いよいよ、ごはんのあとかぁ。あー、やだなぁー。緊張するっ」
「わかる。もう、帰りたいもん」
ペットボトルの紅茶を呷ってからため息をつくと、くすくすと彼女が笑った。
「羽織ってばー。今からそんなんで、どーするのよ」
「だって、ずっとこうだったんだよ? 最初の子のスピーチが始まってから、ずっと思ってたもん」
「ダメじゃん!」
「あはは。……ダメかも」
ぱしん、と軽くツッコミを入れられて苦笑を漏らすと、同じように彼女も笑みを浮かべた。
そうしてしばらく話していたら、結構な時間が経っていたらしい。
柱にかかっている時計を見ると、開始まであと20分。
「……あ」
そんなとき、向こうから聞き覚えのある声が聞こえた。
なんてことはない、当たり前のその人。
友達に小さく声をかけてから席を立ってそちらに足を向けると、これまで陽射しを受けていたせいか、日陰になっている廊下がやけに暗く感じた。
そこにいる、ほかのスーツ姿の人たちと話している彼に歩み寄り、ちょいちょいと袖を引っ張ってみる。
すると、一瞬瞳を丸くしてから、柔らかく笑みを浮かべた。
「ん? あぁ、羽織か」
「……おや。生徒さんですか?」
「あぁ、いえ。……娘です」
不思議そうに訊ねた男性に首を振り、ぽんぽんと頭に手をやってきたのは――……お父さん。
普段、学校が違うこともあって行事で会うなんてことは滅多にないからこそ、姿を見かけてちょっぴり嬉しくなった。
一緒だった人に頭を下げてから、ともにその場を離れる。
「いよいよ、だな」
「うん」
歩きながらそんな話をしていると、自然と……話題は祐恭先生に向いた。
会えないからこそ、無意識のうちに私がそうリードしていたのかもしれない。
「祐恭君もな、昔ここで同じようにスピーチしたんだぞ」
「え!? 先生も?」
「ああ。ちょうど、羽織と同じ高3のときにな」
……そんな話、全然知らなかった。
彼にスピーチコンテストのことを話しても何も言われなかったので、少し面食らってしまう。
まさか、彼も自分と同じときにこの大会へ出ていたなんて。
「あのときも『自分の主張』というのが大会のテーマでな。彼は、弓道について英語でスピーチしたんだよ」
「……弓道……」
「そう。弓道の教えとか、心構えとか……いろいろな。きれいな発音と、よく練られた文ということで、久しぶりに我が校第3学年での優勝を果たしたんだぞ」
「そうなの? ……すごい」
「すごいといえば、迫力もすごかったな」
「え?」
当時を思い出すように視線を宙に浮かせてから、父がこちらをいたずらっぽく見る。
くすくす笑いながら『あのな』と切り出したのを見て、私もうなずきながら自然と笑みが浮かんだ。
「審査員の先生方を睨むように語っててな。コンテストが終わってから、散々言われたよ。度胸のある生徒をお持ちですね、って」
「あはは、先生らしい」
「まぁな。……そういえば、彼の日本語文を推敲したのは孝之なんだぞ。あいつ、昔から国語だけはできがいいからな」
「あはは」
首をひねった父に思わず笑うと、数人の同じ制服を身に着けた男の子たちがこちらに歩いてくるのが見えた。
……冬瀬の子だ。
そちらに視線を向けたままでいると、父も気付いてそちらを見る。
「先生、そろそろ会場に入れってことですよ」
「そうか。……それじゃ、そろそろ行くか」
「はい」
にこやかなやり取りが目の前で繰り広げられている。
……お父さん、丸くなったんじゃない。
昔とは違うなぁなんて思いながら座ったままでやり取りを見ていると、ひとりの生徒が私を見た。
「ひょっとして、先生の……?」
「ああ。娘だよ」
「すげー、初めて見たー」
「先生に似てないっすねー」
「ほっといてくれ」
口々に感想を漏らす彼らに父が苦笑を浮かべると、ひとりの子がまっすぐ私を見る。
「彼氏とか、いるの?」
「え? ……あの……」
いきなりの事に慌ててこたえようとすると、父が一喝した。
「こら。親の前で声をかけるんじゃない」
「えー。いいじゃないっすかー。だって、なぁ?」
「そうそう。大目に見てくださいよ、オトウサンー」
「誰がだ!」
楽しそうなやり取りに思わず苦笑すると、父が小さくため息をついてからいたずらっぽく笑みを見せた。
その顔、なんだかすごく楽しそうで、そういえば家ではあんまり見ないなぁなんてことも思う。
「まぁ、お前たちにそう呼ばれる予定はないな」
「え? じゃあ、やっぱ彼氏とかいるんすか? っつーか、先生公認?」
「まぁな。ほら、お前たちもよく知ってるだろう? 化学の瀬尋――」
「っわぁああ!?」
いきなり父の口から彼の名前が出そうになったことで立ち上がり、そのまま彼の腕を取る。
お……お父さん!!
それは、絶対の絶対にダメでしょ!!
「どうした?」
「もぅ! お父さん、ダメ!! 先生のこと言っちゃったら、問題になるでしょ!」
「……あぁ、そうか。今の彼は教師だったな」
隅っこまで引っ張っていってからごにょごにょ小声で指摘すると、思い出したように苦笑を浮かべた彼が謝りながら頭をかいた。
……もぉ。
心臓がばくばくと高鳴る。
こんな形でこんな場所でバレたら、ひとたまりもない。
……しっかりしてね、お父さん。
「……っ……」
ため息を深くついてからやや強引に見送ると、ふいにスマフォが震えた。
さすがにマナーモードにしておいたものの、急に鳴ると結構心臓に悪い。
……なんてことを考えるのは、この緊張状態にあるからなのかな。
ポケットから取り出して、開――……き、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし!?」
『……ずいぶん元気いいね。何? 俺の声が聞けて嬉しい?』
くすくすと笑い声と一緒に聞こえてきたのは、心底ほっとする、あの彼の声。
耳元で聞く声とは少し違うけれど、それでも十分に笑みが漏れた。
「……すごく嬉しい」
素直に漏らすと、一瞬ためらってから小さな咳払いが聞こえた。
人が少ない場所に移動しながら耳をしっかりとスマフォに当てていると、小さな声で彼が続ける。
『……そんなに正直に言われると、困るんだけど』
「え? 困るって……どうして?」
『どんな顔してるか、見たくなる』
「っ……」
その声に、身体の芯がうずく。
……嬉しい。
彼の声を聞けただけでも十分だったけれど、そんなふうに言ってもらえたことがとっても。
つい、笑みを浮かべながらうなずいてしまう。
電話では声しか届かないとわかっているけれど、クセなのかもしれない。
『で? 調子はどう?』
「んー……緊張してます」
『だろうな。それじゃ、手のひらにしっかり“人”って年の数だけ書いてのんでおいて』
「はぁい」
『……それに、ちゃんと教えてやったろ?』
「え?」
『上手な発音方法』
何かを含んでいるような、いたずらっぽい声でまばたきをする――……と。
彼にスピーチのことを話した、あの日を思い出す。
「……あ、あれはっ……!」
『あのとおりに発音すれば、きれいに発音できますけど?』
「……だってぇ……あれ、キスじゃないですか……」
『今、赤くなってるだろ』
「ち、ちがっ……!」
『しっかり個人レッスンを思い出して、がんばってね』
「…………もぉ……」
彼の笑い声につられながら返事をすると、入り口に立っていた父と目が合った。
思わず背を向けて、小さく笑ってしまう。
すると、途端に彼がいぶかしげな声を聞かせた。
『……なんだよ。何がおかしい?』
「ううん。……お父さんと目が合ったの」
『先生と? ……あー、そうか。そうだよな。英語の先生だもんな』
「うん。先生がスピーチしたときのこと、ちょっと聞いちゃった」
えへへ、と自慢げに呟くと、一瞬声を詰まらせてからため息を漏らした。
もしかして、知られたくなかったのかな。
だとしたら、どうしてだろう。
『……まぁ、聞いたのが先生ならしょうがないけどさ……』
「なんで教えてくれなかったんですか?」
『弓道馬鹿、とか言われそうだから』
「もぅ……そんなこと言わないですよ」
『わかってるんだけどね』
彼の声をひとつひとつ聞き逃さないように目を閉じて聞き入っていると、彼が小さく声をあげた。
『……ごめん。会議を早めるらしいんだ。なんか……ほんのちょっとしか話せなかったけど』
「ううんっ、そんなことないですよ! ……すごく嬉しかったもん」
『そう? そう言ってくれると嬉しいよ。あ、そうだ』
「え?」
『弁当、ありがとう。うまかったよ』
「っ……」
瞬間、彼の表情が目に浮かび、言葉に詰まった。
視線の先には、クリーム色の無機質な建物の廊下。
彼は――……ここにはいない。
「……うんっ」
すごくいいことがあったように笑みを浮かべてうなずくと、彼が小さく笑ってから先に電話を切った。
……ああ、今とっても幸せ。
通話を終えたスマフォを見つめ、どうしても笑みが漏れる。
まさか声を聞けるとは思っていなかったので、すごく救われた気分だった。
……先生、もしかして私の不安な気持ちでも感じ取ってくれたのかな。
だとしたら、超能力者なんかよりもずっとずっとすごいことだ。
「瀬那……?」
「え?」
スマフォをポケットに戻しながら振り返ると、そこには見覚えのある人が立っていた。
背は昔より少し高くなったけれど、雰囲気は相変わらず変わらない――……その人。
目が丸くなっただけじゃなくて、鼓動が少しだけ速まる。
「やっぱり! すげー久しぶりだなー」
「……黒川君?」
「そうそう。まさかこんなトコで会えると思わなかったよ」
にっ、と小さな男の子みたいに笑う姿は、昔と何も変わっていなかった。
中学時代の、同級生。
そして、少しの間だけど………私が好きだった人。
今は冬瀬の制服を着ているけれど、雰囲気も声も昔のまま。
だから、少し態度がぎこちなくなる。
「電話、彼氏?」
「え」
にやっといたずらっぽい笑みを向けられ、思わず口を開いてしまってから小さくうなずく。
自然に漏れた、笑み。
すると、彼も同じように笑みを浮かべた。
「そっかぁー。彼氏いるのか」
「もー。そんなこと言ってると、サチに怒られるよ?」
苦笑を見せて彼に向き直ると、一瞬表情を堅くしてから再び苦笑を漏らした。
……その顔は、今まで私が見たことのないような顔で。
『あ』って、それが地雷だったことに気づく。
「アイツとは、別れたんだ」
「……え……な、なんで? だって、あんなにふたりとも――」
「そうなんだけどさ。やっぱ、ちょっと合わなくて」
――……そんなのって、ないと思う。
たしかに期間こそ短かった。
でも、好きで好きで、精一杯自分磨きをがんばったあの時期。
彼が好きだったのは、私ではなく同じクラスの女の子で。
しかも、その子も彼を好きだと言っていたから……お節介で、ついつい仲を取り持った記憶は投じのまま蘇る。
思わず眉を寄せて彼を見ていると、気まずそうに瞳を合わせてから苦く笑った。
「そっか。……でもまぁ、彼氏いるんじゃしょうがないか」
「え……?」
「すげー、幸せそうだもんな。彼氏と仲良くやってんの?」
「うん。それは……あるけど」
「だろうなー。お前、すげーきれいになったもん。……ちょっと残念」
なんでそんなふうに笑うの?
彼がほかの子を好きだと知っても諦められなくて、だけど……ふたりが付き合うと聞いて踏ん切りがついた、あのとき。
告白して振られたわけじゃないからこそ、余計につらかったのに。
「お前のこと好きだったんだけど……彼氏いるんじゃしょうがないよな。スピーチ、がんばれよ」
「……あ。う、ん」
背を向けた彼に、ぎこちなく笑うことしかできなかった。
まさか、昔好きだった人にこんな形で再会して――……こんなふうに告白されるなんて。
そばに“彼氏”がいないからこそ、余計に心が波立つ。
別に惹かれているわけじゃない。
だけど……落ち着かなかった。
知ってはいけないことを知ってしまったような、そんな気持ちでいっぱいになる。
今、彼の声を聞いてほっとしたばかりなのに。
なのに――……もう不安で仕方がない。
「……先生」
会いたい。
今すぐ会って、笑顔を見せてほしい。
何も言わずに、抱きしめてほしい。
今、自分は幸せなのに。
こんなにも、満たされているのに。
なのに、どうしても……笑顔が出てこない自分がいて。
「そろそろ、午後の部を始めます」
再開を知らせる声がロビーに響く中、足が動かなかった。
……動いてくれない。
声が聞きたい。
彼の……声が。
ポケットにしまったスマフォをぎゅっと握り締めると、手のひらの中で小さくきしむのがわかった。
誰でもいい。
……大丈夫だから、って言って。
あなたは今満たされているでしょう。
あなたは今幸せでしょう。
なのに、どうして不安になるの?
頭に響く誰かの声のようなものが、初めて人知れず怖いものだと思った。
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