「それじゃ、今日は瀬尋先生がいないから、用意されていたプリントをやるようにー」
水曜日の午後。
今日は化学の授業……だけど、担任がいないため授業を進めてしまうわけにもいかないらしく、田代先生の監督のもとで各自プリント学習になった。
班に配られる、わら半紙。
几帳面さを伺わせる問題を見ていると、少しおかしかった。
いつもだったら、『平均上回らなかったら、ペナルティ』とか言われそうなだけにそう思うのかもしれない。
――……結局。
昨日、彼の既読がつくことはなかった。
……具合が悪くなった、なんてことはないよね。
でも、急に熱が出たりすることもあるかもしれないし……。
などといろいろな考えが朝から取れないけれど、今は考えている余裕がない。
早く明日になってほしい。
家に帰ったら、そのまま寝てしまおうかとも思う。
だって、そうすれば明日が早くきてくれるから。
シャーペンを握ったままでぼーっとしていると、しばらくしてチャイムが鳴り響いた。
慌てて時計を見ると、きっちり授業終了時刻。
……寝てたわけじゃないのに。
荷物をまとめて実験室を出て行く同級生を見ていると、いつもと同じ授業のあとのようで。
これが現実だと、改めてを思い知らされた。
そんなに考えごとをしていたつもりがないだけに、思わず面食らう。
「羽織、大丈夫?」
「あ。……うん」
心配そうな絵里に慌てて笑みを作ってから立ち上がり、同じように荷物をまとめて実験室のドアに近づく。
すると、教壇に立っていた田代先生に小さく呼ばれた。
「……え?」
「似てるね、祐恭君と」
「……先生と……ですか?」
「うん」
予想外の言葉に瞳を丸くすると、おかしそうに笑ってからうなずく。
でも、どの辺が彼と似ているのかまったく見当がつかない。
「羽織ちゃんに会えないときは、そんなふうにいつも死にそうな顔してるよ」
「……先生がですか?」
「うん」
「ていうか、死にそうって言葉はないでしょ」
「お前も言うだろ? よく」
「そう?」
「そーだって」
呆れたような田代先生と絵里のやり取りを見ていると、少し元気が戻ってきた。
祐恭先生の意外な一面を知ることができたというのもあったけれど、ふたりが気を遣ってくれているのがわかって嬉しかった。
「そっかぁ。先生、そんな顔してるんだ」
普段私の前にいる彼からは想像できないだけに、余計におかしい。
すると、ふたりが顔を合わせてから、にっと笑みを向けた。
「やっぱり、羽織ちゃんはその顔じゃないと」
「そーそー! どうせ明日帰ってくれば、羽織羽織ってうるさいんだから」
「だな。……賭けるか? 夕飯」
「いいけど。でも、私は羽織にべったりに500円だからね」
「えー。俺もなんだけど……って、それじゃ賭けになんねぇじゃねーか」
眉を寄せるふたりの間に、そっと挙手をして割り入る。
すると、同じタイミングでこちらを向いたふたりに自然と笑みが漏れた。
「私がべったりに、500円」
「……マジ?」
「うん」
「え、羽織ちゃんが?」
「ですよ?」
「「ええぇーー!?」」
予想外の反応に、思わず目を見張る。
そ……そんなにヘンなこと言ったつもりないんだけどなぁ。
「どうしたの? 熱でもある?」
「え? ないよ、そんな」
「だって、羽織ちゃんが祐恭君にだろ? ……なんか……今までになかったパターンだな」
「うんうん」
「……もぉ。ふたりして……」
深刻な顔の退路先生に苦笑を漏らすと、絵里と顔を合わせてから再び笑みを浮かべた。
「明日、午後には帰ってくるよ」
「え……ホントですか?」
「うん。ただ、授業には間に合わないかもしれないけどね」
それでも、嬉しかった。
彼が、帰ってくるであろう時間を知る事ができて。
「ありがとうございます!」
「いいえ」
柔らかい笑みと一緒に首を振ってくれた彼に笑うと、絵里も嬉しそうに微笑んだ。
「よーし。それじゃあ、それまではしばらくのシングルを楽しみなさいっ」
「えぇ? んー、そんなのいらないけど……」
「なによ、珍しいわね。のろけるのは、先生の特権なんじゃないの?」
「そうかな? でも、そんなことないよ」
まばたきをしてから笑みを見せると、いつしか照れ笑いになっていた。
絵里に背中を押されて促されながら、田代先生に別れを告げて教室へ足を向けると、一歩一歩、確実に近づいているのがわかって、嬉しかった。
――……彼が帰ってくる、その時間まで。
「…………」
昨日と同じく、手元にはスマフォがある。
でも、昨日のお昼から今まで彼からの音沙汰はない。
明日帰ってくるのはわかってるけれど、どうしてもワガママになっちゃうんだよね。
声が聞きたい。
いろいろ聞いてほしい。
それに――……話さなきゃいけないこともある。
「……あ」
光ることのない液晶を眺めていると、家の電話が鳴り響いた。
3コールで途絶たかわりに、階下から母が話しているらしき声が聞こえてくる。
――……その時。
部屋にある子機が電子音を響かせた。
吸い寄せられるように、子機を手にする。
出なきゃ。
そんな思いがあって、すっ……と身体が動いた。
「もしもし」
相手を探るように呟くと、受話器の向こうから聞こえてきたのは……ずっと待っていた声だった。
『もしもし? ……あー、勉強の邪魔した?』
「……せんせ……」
『スマフォのバッテリーが切れちゃって。充電器持ってったつもりだったんだけど、なくてね。昨日電話しなくて、ごめん』
穏やかな声。
ずっと、ずっと待っていた……彼の声。
「……っ……」
ひとこと聞いた途端、声が出なくなる。
言いたいことはたくさんあるのに、聞いてほしいことも多いのに、言葉が出てこない。
『出張のとき、これまでは荷物詰めるの羽織ちゃんに頼んでたからさ。自分でもびっくりしたよ』
おかしそうに笑う声。
耳に届くのに……何も言えない。
ただただ、少しも漏らしてしまわないように、受話器を耳に当てて彼の声を身体にめいっぱい染み込ませるだけ。
……ずっと聞きたかった。
話が、したかった。
目を閉じて聞き入っていたら、少し間を置いてから彼が続けた。
『……羽織ちゃん? どうした?』
声に呼ばれる。
自分の名前なのに。
離れてからずっと、呼んでほしかったのに。
なのに――……。
「……せんせぇ……」
ぽつりと漏れた言葉。
たったひとこと。それだけしか、出てこなかった。
同時に、涙が頬を伝う。
「……っ……ふぇ」
口元を手で抑えると、嗚咽はさらにひどくなった。
何も言えず、ただただ漏れる声を押さえ込んで、飲み込む。
でも、無理なの。これ以上、どうにもならない。
だって、声が聞きたかったから。
ずっと、話がしたかったから。
だけど――……いざ、こうして声を聞いてしまうと、自分の気持ちに歯止めが利かなくなった。
声を聞けば、姿が見たくなる。
……会いたい。
溢れる涙を不器用に拭いながら受話器を握ると、静かな声で名前を呼ばれた。
『……どうした? 何かあった?』
いつもより低い、彼の声。
以前にも、こんな声を聞いたことがある、
あの……夏休みの夏期講習。
私が彼に対して1度だけ、ほんのわずかとはいえ着信拒否をした、あのあとの電話。
すごく心配そうで、すごく怒ってた……と思う。
でも、彼は私をひとことも責めなかった。
『羽織ちゃん?』
ただただ私を気遣ってくれている、心配そうな声。
今、彼に不安を与えているのは私。
そう思うととても申し訳なくて、見えるわけじゃないのに首を横に振ってから、涙を拭う。
大きくため息をつくと、少しだけ落ち着けたような気もした。
「ごめんなさい、急に……泣いたりして。違うの。別に、何もなくて……」
『……じゃあ、なんで泣いてるんだよ。理由は?』
穏やかながらも、響く声。
問い詰める感じがこれっぽっちもないのが、彼らしい。
「声聞いたら、会いたくなっちゃって……」
思わず本音を呟くと、彼の反応がなかった。
「あっ……! ち、違うの! そういうんじゃなくって……」
慌てて言葉を続け、姿勢を直す。
つい、出てしまった言葉。
そんなことを言えば、彼が困るのはわかっていたのに。
「あの、違うのっ。……ごめんなさい、ワガママ言って。なんか、ちょっと……いろいろあったから」
『いろいろって?』
「……その……ちょっと……」
なんとなく電話で話すのが阻まれたような気がしてはぐらかすと、少し考えごとでもしているかのように、また彼が間を空けた。
……ちょっと気まずい。
やっぱり、わがまま言ったから……呆れたのかも。
「その、明日帰ってくるっていうのは、わかってるんですけど……なんか――」
『いつも、何時まで起きてる?』
「え?」
言葉を遮るように彼の声が聞こえ、思わずまばたく。
……どうして、寝る時間なんて気にするんだろう?
「だいたい……23時くらい、かなぁ」
時計を見ながら返事をすると、ほどなくして電話口から小さな物音が聞こえた。
「……先生?」
『また連絡するから。……独りで泣くなよ?』
「え……? あ……はい」
『じゃあ、一旦切るけど……ホントに泣いたりしないように。いい?』
「……ん。大丈夫です。声、聞けたから」
『そう? ……それはよかった』
念を押すように再びそう告げた彼にうなずくと、自然に笑みが漏れた。
ホントのこと。声を聞くことができて、つい泣いちゃったけど……でも、これまでとはまったく違う気持ちになってることがわかる。
ぷつり、と電話が切れたものの、そんなに寂しくはない。
でも、どちらかというと『よかった』っていう彼の声が、彼らしくなかったようには思う。 ……なんだったんだろう。
あ、もしかしたら誰かに呼ばれた……とかかな。
寝る時間を聞いてくれたということは、もしかするとまた電話をもらえるかもしれない……って期待しちゃってもいいよね?
「…………はぁ」
彼の声が耳に残っているのが嬉しくて、手にある子機をしばらく見つめたまま、また笑みが浮かんだ。
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