お風呂あがりにキッチンへ顔を出し、そのままお茶をグラスにそそぐ。
すると、母がテレビを見ながら何やら楽しそうな顔をしていた。
「お母さん、嬉しそうだね」
「え? そりゃあもぅ。だって、カッコイイじゃなーい?」
にっこりと返ってきた言葉でテレビを見ると、母の好きな芸能人が画面に映っていた。
「相変わらず、好きだね」
「当り前でしょっ」
ソファに座りながら苦笑を見せると、テレビを見つめたまま大きくうなずく。
相変わらず、面食いというかなんと言うか……。
そんな彼女の隣で何も言わずに本を読んでいる父を見ると、少しおかしくなる。
……私がこんなことを言おうものなら、祐恭先生はなんていうだろう。
考えるまでもなく答えがでている自問に、苦笑しか浮かばない。
「……あ」
結局、母と一緒に番組を最後まで見てしまい、英語の宿題をすっかり忘れていたことに今ごろ気付く。
時計を見ると、すでに22時近く。
……マズい。
実は今日、英語の暗記の宿題を出されたのだ。
10個の例文を暗記、と聞けば簡単なように思えるかもしれないけど、ひとつひとつが結構長くて。
「あっ……!」
今夜は覚えるまで寝れないなぁ……なんてため息をつきながら階段を上がると、部屋でスマフォが鳴っているのに気付いた。
彼だ。
大きく鳴った鼓動を押さえる前に階段を駆け上がり、部屋に駆け込む。
暗闇で光を放っているスマフォを取り上げると、そこにはたしかに彼の名前があった。
「もしもしっ!?」
慌てて耳に当てると、すぐに聞こえる先ほどと同じ彼の声。
反射的に、つい顔が緩む。
「……電話してくれたんですね」
頬に手を当てて呟くと、彼がおかしそうに笑った。
「え?」
『いや。ずいぶんさっきととは雰囲気が違うんだな、って思って』
「だって……2回も声が聞けるなんて思わなかったんだもん。……でも……どうしたんですか? 充電できなかったんじゃないの?」
不思議に思ったことを今さら口に出すと、何やら得意げに彼が続けた。
声が変わって、とても楽しそう。
『最近の充電器はすごいんだな。シガーソケットで充電できるんだよ?』
「へぇー……え? でも、それってエンジンかけないと、使えないんじゃないですか?」
『もちろん。そのために、車使ったんじゃないか』
……え?
……えぇええー!?
「せ、先生! じゃあ、電話してくれるためだけに、車を……!?」
『そうだよ。ったく……責任どう取ってくれるんだ?』
「だ、だって……!! まさか、そんな……。ごめんなさい、なんか……」
事実を知った今、改めて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だって……だって、じゃあ、わざわざ充電するためだけに車のエンジンをかけてくれてるってことでしょ?
それって、なんだか本末転倒っていうか……いや、あの、嬉しいのはもちろん嬉しいんだけど。
「……ごめんなさい、私のせいで……」
ぺたん、とベッドに手をつきながらフローリングに座ると、彼が小さく笑った。
『別に、羽織ちゃんのせいじゃないって。声、聞きたかったし』
「……うん……」
彼の優しさが、少しつらい。
怒ってくれていいのに……。
とってもとっても嬉しいけれど、なんだか邪魔してしまっというか、無理なわがままを聞いてもらってしまった、っていうか。
まさか電話してくれるためだけに、彼が――……って、あれ?
でも、さっきも……電話してくれたよね。
……そう、だよ。
別に、電話ならばさっきみたいにホテルからでもかけられるのに……どうしてわざわざスマフォを……?
「…………」
改めて考えてみると、そんな疑問が湧く。
しばらく考えを巡らせてから口を開くと、彼が不思議そうに呟いた。
『どうした? 何かあった?』
「……先生。どうしてわざわざスマフォを充電して電話してくれたの? さっきみたいに……かけてくれてもよかったのに」
あまりにも嬉しくてわからなかったけれど、1度気づいてしまうと、『ん?』ってなったまま。
でも、ぽつりぽつりと考えていたことを話し始めると、彼がおかしそうに笑った。
まるで――……何かを楽しんでいるかのように。
「先生?」
ベッドへもたれながら彼の言葉を待つと、ほどなくして小さな音が聞こえた。
『どうして、わざわざスマフォを充電したと思う?』
「え? えっと……どうしてだろ。持ち運びができるから?」
『相変わらず面白いこと言うね、君は』
「そうですか?」
『うん。別に持ち運べなくてもいいだろ? 電話するの、部屋だし』
「そうだけど……。じゃあ、どうして?」
くるっと姿勢を変えてベッドへもたれるようにすると、彼が楽しそうに笑う。
……なんだろ……。
なんでスマフォ……?
それとも、あれかな。
“スマフォじゃなきゃいけない理由”として考えると、絞られてくる……のかな?
「んー……。え?」
不意に彼が声を変えた。
やけに明るくて楽しそうな声で、まばたく。
『今、何してる?』
「……え? っと……部屋で、電話してますけど」
『ふぅん。じゃあ、ちょっと玄関開けてほしいんだけど』
……玄関?
「え? ウチのですか?」
『ほかにどこの玄関を開けられるんだよ』
それもそうだ。
スマフォを持ったままで階段を降りると、お母さんはどうやら風呂に入ったらしい。
リビングのテレビは消え、お父さんの姿もそこにはない。
ひんやりとするサンダルを履き、言われるままに玄関の鍵を開ける――……と、なぜか開錠の音がやけに響いた。
「開けまし――」
「ありがと」
……え……。
瞳が丸くなる。
な……んで?
目の前にいるのは、確かに彼で。
自分と同じようにスマフォを耳に当てて、いたずらっぽい笑みを浮かべている……祐恭先生その人に間違いない。
「え……? え? えぇ!?」
「……あー、外は寒いな。お邪魔します」
肩をすくめてから中に入り、ドアを閉めた彼が後ろ手で鍵をかけた。
こちらが何も言えない間も、彼は普通のリアクション。
スマフォをポケットにしまうと、見つめたままの私を置いておいて先に上がってしまった。
「ちょ……ちょっと待って! え、なんで? どうして、先生がここにいるの!?」
「……そんなデカい声を出さない。もう遅いんだぞ?」
「あ……。ごめんなさい」
眉を寄せて唇に指を当てられ、思わず謝ってしまう。
……って、そうじゃなくて!!
「だって――」
「続きは部屋でね」
「あ、せんせっ……!」
ぐいっと手を引かれるまま靴を脱ぎ、引っ張られながら階段を上がる。
少し冷たい手。
だけど、彼の物であることに違いはない。
声も、後ろ姿も、彼の物。
……え、でも、どうして……?
どうして、彼がここに……?
眉を寄せたままで彼のあとをついていくと、私の部屋のドアを開けてから先に通された。
振り返れば、いたって平然とドアを閉める彼の姿。
見間違いじゃない。夢でもない。
さすがにスーツじゃなくて私腹だけど、とても違和感がある。
「先生、どうしてここにいるの? だって今、山梨なんじゃ……それに、討論会は? どうして!?」
一気にまくしたてるように言葉を続けると、苦笑を浮かべながら彼がベッドへ腰かけた。
「……いっぺんに聞くね。そう言われても困るんだけど」
「困るのは、こっち! だって、明日もまだ討論会あるんでしょ!? こんなところにいていいわけないじゃないですか!」
ふるふると首を振り、彼の前に立つ。
すると、優しい顔で小さく笑った。
「会いたかったから」
「っ……」
手を引かれると同時に、抱きしめられた。
床に膝がつき、ふわりと彼の匂いがする。
耳元に聞こえる、彼の声。
シャツを掴んで見上げると、頬をなぞって髪を撫でる。
「……それじゃダメ?」
「っ……」
優しい、手。
いつもの、声。
ここに彼がいることは現実なんだと実感すると、身体から力が抜けた。
「……先生……」
「電話の向こうで泣かれたら、こうするに決まってるだろ? しかも、会いたいとか言われたし……」
「……だって……」
「俺だって会いたかったよ」
「っ……」
優しく笑い、抱きしめてくれる腕に力がこもる。
……現実なんだ。
ここに、彼がいる。
抱きしめてくれている。
……ずっと、こうしてほしかった。
抱きしめてほしくて、たくさん声が聞きたかった。
それが今、現実に起きている。
「っ……せんせぇ……」
「ん。よしよし」
ぎゅっ、としがみつくように腕を回すと、背中を撫でてくれた。
大好きな彼の大きな手。
彼の言葉を噛み締めるように瞳を閉じると、自然に涙がこみ上げてきた。
ずっと、ずっと……こうしたかった。
たった数日彼に会えないことが、こんなにもつらいだなんて思いもしなかった。
「……ふぇ……せんせ、ぇ」
幼い子どもみたいに、何も言えずただただ抱きつくしかできない。
だけど、彼は何も言わずに許してくれた。
こんなにも、ワガママなのに。
めいっぱい、彼に迷惑をかけてしまったのに。
「寂しいくせに、強がるから」
「……だって……ぇ」
「泣かないって約束したろ?」
「……先生に会えるなんて、聞いてないもん……」
「言ってないからな」
くすっと笑って涙を拭い、頬に口づけをくれる。
そんな彼に瞳を合わせると、自然に口づけは唇に移った。
「……ん」
柔らかい、いつもの彼との口づけ。
何日もこうしていないせいかねだるようにキスを求めると、彼も応えてくれる。
……いつもと逆みたい。
ちょっとだけ恥ずかしくて、でもとっても嬉しくて、自然に笑みが漏れた。
「……会いたかった?」
「うん」
唇を離してすぐに聞こえた彼の言葉にふたつ返事でうなずくと、柔らかく笑った。
……嬉しい。
心底から、じんわりと温かくなる。
「ったく。……泣き虫だな」
「だって……寂しかったんだもん……」
ぎゅうっとしがみついたまま呟くと、泣いている子を慰めるように頭を撫でてくれた。
……また子ども扱い……?
と、少し思ったものの、心地いいから何も言わない。
だって、こんなふうに彼が来てくれるなんて……思ってもなかったんだもん。
「そんなに寂しかった?」
瞳を合わせるように身体をずらした彼が見せたのは、いたずらっぽい笑みだった。
……うぅ。
「…………寂しかったです」
眉を寄せて呟くと、満足げにうなずいてから抱き寄せてくれた。
なんだか、嬉しいのにちょっとだけ複雑な気分なのは、どうしてだろう。
「でも、山梨から車で来てくれたんですか?」
「当り前だろ? 出張中」
「だからですよ。どうして、わざわざ……」
「泣いてたから」
「っ……私のせい……?」
「だから、『せい』とか言わない。俺も会いたかったんだよ。……誰のせいでもないんだって」
にっと笑って髪を梳いてから、よしよしと頭を撫でられる。
そんな彼のさりげない優しさが、本当に嬉しかった。
……私が気にしすぎたから、だ。
本当は、こんなところにいていいはずがない。
明日はまだ討論会があるんだし、ゆっくりホテルで休んでいたいと思う。
なのに……。
「……羽織ちゃん?」
すがるように彼へ抱きつくと、小さく名前を呼んでくれた。
私の名前。
瞳を閉じると、自然に腕へ力がこもる。
「……ありがとう……」
噛み締めるように呟いた言葉。
それによって、彼がここにいるということがより実感できて嬉しかった。
「どういたしまして」
小さく笑って呟いてくれた言葉が、嬉しかった。
ワガママを言ったのは私なのに、こうしてここに来てくれたことが。
遠く離れた場所にいたのに……ここまで会いに来てくれたことが。
愛しい人。
すごく、すごく……自分が大事にされてるんだなぁと、身に染みた出来事になった。
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