「……あんた、相変わらず眠そうね」
「…………うん」
絵里が言うのも無理はない。
今日は、朝からずっとこんな調子だったからだ。
机にもたれながら、出てくるのは欠伸ばかり。
理由を知らない絵里にしてみれば、それこそ不思議がられても仕方ないと思う。
「それじゃあ、気をつけてくださいね」
「ん。まだ時間あるし、ゆっくり行くよ」
今朝の4時少し前に、彼は山梨のホテルへと車で戻っていった。
時間に、ぱっと起きれるのはすごいと思う。
自分の意思で起きたんじゃないときはものすごく機嫌が悪いのに、普通……というか、今日はむしろ楽しそうだった。
「午後には帰るから」
「あ……はい」
「……なんだよ。嬉しそうじゃないな」
「ち、ちがっ……! ちょっと……まだ眠くて……」
瞳を細めた彼に慌てて手を振ると、にやっとそれはそれは意地の悪い笑みを浮かべた。
……うぅ。その顔、また何か言うつもりですよね。
案の定、彼から出たのは昨夜がらみのこと。
「ふぅん。何? そんなに疲れた?」
「……ぅ。だって……」
「今夜も覚悟しておいてね」
「な……!?」
運転席に座ってにっこりと笑われ、思わず目を見張る。
うう、目が覚めた。
だ、だって、でも、あの。
そんな元気……ないと思います。
「…………先生、元気ですね」
「まぁね。まだまだ若いよ」
彼を見ていると、心底自分とは違うんだなと思う。
なんでこんなに元気なんだろう。
などと考えながら眉を寄せていると、くいくい、と指で呼ばれた。
「え?」
「いってらっしゃい、のキスは?」
「……う、ん」
運転席の窓枠に腕を置いた彼の顔へ近づいたところで、きょろきょろとあたりを確認。
相変わらず、眠気など微塵も感じられないしっかりとした表情。
瞳を閉じて唇を寄せると、何よりも安心する柔らかな感触が伝わってきた。
とはいえ、さすがに朝からめいっぱいの口づけはできないから、触れただけのもの。
普段は、このキスじゃ許してもらえないことはわかっている。
でも、さすがに……ねぇ?
「…………まぁいいか」
「な……なんですか、そのまぁいいかって……」
「ん? 言葉どおり」
何食わぬ顔で、眉を寄せた私に笑みを見せると、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
……もぅ。
なんだか、はぐらかれてばかり。
「じゃ、また学校で」
「はぁい。……気をつけてくださいね? 飛ばしたりしないで……」
「ん。わかった」
いつも通りの彼の表情が見え、顔が緩んだ。
どうしたって、昨日の彼とのことが思い出されるから……なんだけどね。
「…………はぁ」
いちばん奥の角を曲がるまで、その場からは動かない。
この時間、夏とは違って夜と何も変わらないけれど、だからこそテールランプはとてもよく目立つ。
……ありがとう。
そういえば、この言葉を彼に伝えていない。
帰ってきたら、まずそう言わなくちゃ。
車を見送ってから再び部屋に戻ったところで欠伸が出て、結局そのあと2度寝をすることになった。
「……はぁ」
どうしても出てしまうものは抑えきれず、今日何度目かなんて覚えていない欠伸を再びつく。
涙が浮かんで瞳が潤み、ぐしぐしっと不器用に拭っては再び欠伸が……なんてことを、今日一日ずっと繰り返していた。
「羽織ちゃん、眠そうだねぇ」
「……あ、ご、ごめんなさい」
午後の化学の授業前の、いつもの連絡。
田代先生の授業ということもあって絵里と連絡に来ていたものの、案の定指摘された。
とはいえ、祐恭先生とは違って優しい指摘。
『しょうがないなぁ』と言わんばかりの表情に、つい笑みが漏れた。
……先生じゃ、こんなふうに優しく言ってくれないもんね。
にやっと意地悪く笑いながらも揚げ足をしっかりとるような聞き方をするだけに、田代先生と祐恭先生との性格の違いがよくわかる。
「彼女べったりな彼氏がいなくて、せーせーしてる?」
「え!? ……あ、え……と、そんな……ところです?」
いたずらっぽく笑われて思わずそんな返事をすると、絵里と田代先生が顔を見合わせてから『やっぱり』と呟いた。
「賭けは、彼氏がべったりってことで決まりみたいね」
「かもなぁ」
「羽織、500円だよ?」
「……う」
まさか昨日の夜すでに自分がべったりしていたとは言い出せず、思わず眉を寄せる。
楽しそうに話しているふたりをどっちつかずの表情で見ていたら、田代先生がにっと笑った。
「羽織ちゃんがべったり、にまだ賭ける?」
「え? ……あ、えーと……」
「何よ、昨日とずいぶん態度が違うじゃない」
「うぇ!? そ、そんなことないよ?」
ぶんぶんと手を振りながら返事をすると、眠気などどこかへ行ってしまった感じだった。
……はぁ。さすがに言えないもん。
昨日の夜から今朝まで一緒にいた、なんて。
ため息が漏れ、視線も足元へと落ちる。
――……すると、背後でドアの開く音がした。
「あ。噂をすれば」
「え? あら、ホント。おかえりなさーい」
近づく、足音。
ぴたっとすぐ後ろで止まった気配で振り返ると、そこには彼が立っていた。
何食わぬ顔で、笑みを浮かべている――……祐恭先生が。
「ただ今、帰りました」
「お帰り。お疲れさんー」
「ども。……あ、これ。山梨名物、信玄餅です」
「おー。ありがとー……って、なんでお前が取るんだよ」
「え? 純也の物は私の物でしょ?」
「じゃなくて! これは、化学の教師陣で食べるんだよ!」
「えぇー?」
祐恭先生が差し出した紙袋を横から取った絵里に田代先生が眉を寄せると、渋々言いながらも手を離した。
信玄餅。
おいしいよね、あれ。
……けど、先生が甘い物のお土産って珍しい……。
でも、まぁ……ここの先生方に買ってきたって言ってたし。
「え?」
まじまじと田代先生と絵里を見ていたら、ぽんぽんと肩を叩かれた。
「ただいま」
「……あ。お、おかえりなさい」
にっこりとした笑みにぎこちなく応えると、絵里が不思議そうに眉を寄せる。
「何よ、羽織。やっぱり、先生がべったりなんじゃない」
「何だ? その……べったりってのは」
絵里の言葉に不思議そうな顔で彼がオウム返しをしたのを見て、平然と絵里が続けた。
……って、ちょっと待って!!
「あのね、羽織が『先生帰ってきたら、自分のほうがべったりくっついてる』なんて言うから――」
「!! ちょ、え、絵里!?」
「……ふぅん」
……はっ。
うぅ……遅、かった。
ていうか、もう………手遅れ。
背後に感じる殺気にも似た空気を察して恐る恐る顔だけを向けると、やけに楽しそうな笑みを浮かべていた。
うえぇ……。
「あの、ち、違うの。そうじゃなくて……」
「ふぅん。何、そんなに寂しかったわけ? ……なるほどね」
どうりで、とニヤニヤ笑いながら呟いた彼が、瞳を細め、顎に手を当てる。
その顔は、何かを企んでいるような顔だった。
……えぇええ!?
「じゃあ、今日は何も言わなくても家で待っててくれるはずだったんだ」
「へ!? あ、あの、そういうわけじゃ……」
「そういうわけだろ? ……楽しみだな」
「っ……うぅ、だってぇ……」
眉を寄せて彼を見るものの、一向にその表情を崩そうとはしない。
……むぅう。
「……え?」
「何? こんなとこ、怪我でもしたのか?」
「っ!!」
にやっ、とそれはそれは意地の悪い笑みを見せた彼が、自分の首筋を触った。
でも、視線は明らかに私の首筋。
反射的に、ぱっと手のひらでそこを隠す。
「絆創膏、ね。……ふぅん。そうきたか」
「だ、だって……! これはっ……先生が……」
「隠したら、見えないだろ? ……っつーか、あからさまに怪しすぎ。みんなには、バレてるんじゃないのかな」
「っ……もぅ、先生っ!」
慌てて彼を睨むも、まったく悪いと思ってくれているような様子は伺えなかった。
ぱくぱくと情けなく口をあけている私とは違い、気にしない様子で荷物を机に下ろすと、再び田代先生と話を始めてしまう。
……うぅ、マズイよこれは。
だって、なんか……妙な誤解されてない?
誤解っていうか、弱みを握られたっていうか……。
つ……と背中を走る冷や汗で眉を寄せるものの、やっぱり彼の態度は何も変わらなかった。
「あ。羽織、行くよ」
「う……うん……」
鳴り響いたチャイムで絵里が手を取り、準備室のドアから実験室へと向かう。
彼の横を通ったとき、小さく……微かに聞こえた言葉は、気のせいじゃなかったと思う。
思わず振り返ると、口元だけで楽しそうに笑っているのが見えたから。
『……今夜も楽しめそうだな』
そんなふうに聞こえたのは、やっぱり間違いじゃないと思う。
「……はぁ」
席にみんなが着き始めるころ、祐恭先生もまた準備室のドアから姿を現した。
スーツ姿のままで、白衣は着ずに。
だけど、授業はしないらしく、用意していたらしいプリントを配り終えると自習の声をかけた。
「……え……?」
そのとき。
ちょっとだけだけど……目が合った。
いつもならばすぐに逸らすのに、今日だけはいつもと違う。
じぃっと見てから、視線を外して小さく笑われた。
……何?
何よ、もぉー!
彼が何を考えているのかがなんとなく伝わってきて、ちょっと悔しい。
確かに、昨日会いに来てくれたのはすごく嬉しかったし、心底幸せだと思ったけれど。
でも、やっぱり……田代先生とは違っていたずらっぽいというか、意地悪というか……楽しそうというか。
………まぁ、そんな彼が私は好きだから……やっぱり仕方ないんだけど。
プリントに視線を落としながらシャーペンを取り出すと、苦笑にも似た笑みが漏れた。
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