「ありがとうございます」
もう1度頭を下げてから、身体ごとそちらへ向き直る。
黒い車。
その運転席の窓が開き、お父さまが屈託ない笑顔を見せた。
「……世話のかかるセガレだが、よろしく頼むよ」
「大丈夫です。お互いさまですから」
にっこり。
笑みを見せて首をわずかにかしげると、一瞬だけ瞳を丸くしてから『そりゃあいい』と大きく笑った。
彼は、家の前までと言ったんだけれど、私が敢えてここで下ろしてもらった。
どうせ、家はこのバイパスから歩いて3分もかからないし、建物自体はすでに見えている。
外灯もあれば、人通りもまだ十分にあって。
……それに。
「……お母さま。お先に失礼します」
「え? ……ええ、それじゃあ……」
やっぱり、車内の雰囲気があんまり芳しくなかったから。
お父さまは一生懸命に話してくれていたけれど、彼女はそんな素振りもなかった。
押し黙るように俯いたまま、ひとことも言葉を発しなかったし。
……まぁ、それは当然と言ってもいいかとは思うけれど……ね。
こっちだって気まずい以上、向こうはもっと気まずいんだろう。
一応あいさつをしてはみたものの、ちらりと一瞬私を見ただけで、視線は合わなかった。
「ありがとうございました」
「気をつけてな」
「お父さまも」
ハザードを消して緩やかに走り出した車に向かって、手を振る。
にっと笑ってくれた彼の顔が、すぐにスモークの張られた窓で見えなくなった。
「…………」
さぁ。
今度は、本当の意味でのケジメの戦い。
味方がなければ、フォローを入れてくれる助太刀役だってない。
……どんな顔してるのかしら。
っていうか家にいるの……?
ヤケ酒とかに走るような人間じゃないことは十分わかっていたけれど、誰だって『万が一』ってことがある。
もしかしたら祐恭先生と飲みに行ってるかもしれないし、もしかしたら大学時代の友達と会ってるかもしれない。
……もしくは……。
「…………」
そこで、嫌でも浮かんでくる人の顔があって無性に腹が立った。
……どうして、ここで彼女が浮かぶの?
そんなハズないじゃない。
だって――……あの人と一緒だってわかったら、絶対に『これから』はないんだから。
「……ったく」
どうしようもなくイライラしたまま足を進め、マンションの入り口へ回る。
――……と。
「おかえり」
「……っな……」
エントランスのまん前。
スロープの隣にある階段のところに、普段着の純也が腰を下ろしていた。
「……な……にしてるの、こんな所で」
「別に。そろそろ来るんじゃないかと思ってな」
呆然とはまさにこのこと。
両手に下げたバッグを握り締めながら、食い入るように彼を見つめる。
だけど、純也はと言うとそんな私とは正反対で、身軽な格好のまま立ち上がってすぐこちらへ歩いて来た。
「さすがに、もうメシは食っただろ?」
「え? ……ええ……まぁ……」
「んじゃ、風呂湧いてるから入れ」
「……へ?」
「…………なんだよ」
「何って……それしか、言わないの?」
「は? 何が?」
「だって……だって、私……」
「いーから、来いよ。明日も学校なんだし、時間だって早いほうじゃないんだから」
先に階段を上がりきった純也を、1段も上がらずに見上げる。
だけど、彼はまったく表情を変えることなく、声を荒げるでもなく……ただただ静かにそう告げてから『行くぞ』とまた背中を向けた。
……怒ってるって感じじゃない。
かと言って、呆れてるでも……見放してる、でもないみたいで。
「…………」
なん、だろう。
この不安っていうか、ちょっと……気持ち悪い感じは。
だって、いつもだったら『何してんだよ』とか『人の迷惑顧みろ』とかって怒声が真っ先に飛んでくるはずなのに。
……向けられたのは、落ち着いた声と、落ち着いた表情だけ。
それがかえって私の心を落ち着かなくしているとも知らないで。
「……どんな責任の取り方よ……」
見えなくなった純也を追うように足早でエレベーターホールまで向かうと、ドアを片手で押さえたまま私を待っている姿が目に入った。
「…………」
「…………」
家に戻ってからも、そんな純也の態度は変わらなかった。
荷物をリビングに下ろすや否や、彼はまたお風呂をすすめてきて。
確かに、明日だってまだ学校があるし時間もう遅い。
だから、本当だったら従うのが正当だったんだけど……。
「…………」
結局、出たときの気まずさが耐えられなくて、頑として入らなかった。
……でも、相変わらずの沈黙。
これはなんとかしてもらえないのかしら。
同じソファに座っているのに、まったく会話すら交わさない時間。
これを拷問と言わずして、なんと言えば?
テレビだけがニュースを流し続けるけれど、それを見ている人間は誰もいない。
新聞を広げて読んでいるらしい純也をちらりと横目で捉えるものの、やっぱり視線が噛み合うことはなかった。
「……ねぇ」
ぽつり、と呟いた声がやけに大きく聞こえた。
……しかも、それだけじゃ純也はこちらをやっぱり見てくれない。
新聞から視線を離さず、曖昧な表情を浮かべているだけ。
…………だけど、それでもよかった。
きっと、耳に届いてはいるはずだと思ったから、さらに続けてやる。
「どうして何も言わないの?」
そのとき初めて、彼へと身体ごと向いてやる。
こうすれば、無視することはできないはず。
そうしようったって、私がそっちを向いてるんだからさすがに無視してまで、何も言わずにはいられないだろう。
「……別に」
「っ…何よ、それ。そんな答えはな――」
「俺が悪かった、って思ったから」
「……え……?」
「嫌な思いさせて、悪かったな」
「な……っ」
……何よ。
何よ何よそれっ……何よ……!!
ザワつくみたいに心が冷静さを失い、どくどくと脈が速くなる。
これまでと違い、新聞から視線を上げた純也がまっすぐに私を見つめた。
その瞳。
それは、まったく冗談めいたものなんかじゃ当然なくて。
「……っ……やめてよ」
ぎゅうっと右手で左腕を抱くように掴むと、思いのほか力がこもった。
「やめてよそんなっ……! 何よ……っ……急に!」
なんだかわからないけれど、無性に嫌な気持ちになった。
落ち着かない、ざわつく。
これまでと何も変わらないはずなのに、まるで何もかもが違ってしまっているような気がして。
部屋の風景も、置き場所すら変わっていない小物も、なんだか全部作り変えられたかのように思えた。
目の前の純也も、そう。
……こんなの、知らないっ……。
こんな純也、見たこともない。
知らない、知らないっ……! 何もかも、違う!!
「純也らしくないわよ!! それにいったい、これのどこが責任の取り方なワケ……!?」
落ち着かない自身を、なんとか守ってやるために。
いつしか声を荒げてバシンとソファを叩くと、表情も何もかも微動だにさせないまま、純也が新聞を畳んでから――……ゆっくりと目を伏せた。
「……あのな」
「何よっ……!」
「そもそも、お前が言ったんだろうが」
「何を!?」
「『私にも優しくして』って」
「…………は……?」
思い切り顔が歪む。
………優しくして……?
「…………」
そういえば、確かにそんなことを言った気もする。
だけど………。
え?
フツー、このタイミングでいきなりソレ?
まじまじと見つめられて何も言えずに口を開けていると、ものすごく居心地悪そうに、純也がため息をついた。
「……ったく。人がそうすりゃ、結局文句垂れるクセに」
「な……」
「いい加減にしろっつーの」
ぶちぶちぶち。
ちょっぴり頬が染まっているのは、気のせいだろうか。
……いや、違う。
ひどく不機嫌そうにため息を多くつきながらも、再び新聞へ向き直ったその横顔は……やっぱり赤くて。
「…………」
「いっ……!? なっ……何すんだお前は!!」
「……馬鹿?」
「はぁ……?」
まじまじと見つめていたその頬を、右手で思い切り引っ張ってやる。
ぎゅむ。
そんな音が聞こえるくらい、まったく“容赦”というモノを感じさせずに。
「……ったく、馬鹿ね。馬鹿。大馬鹿よ」
「ッ……あのなぁ! おまっ……人が一生懸命考えて結論出してやったのに、そんな言い方はないだろうが!」
「だって仕方ないじゃない。馬鹿だなって思っちゃったんだから」
「だからっ! 人のことを馬鹿馬鹿言うなっつってんだろう!」
「だって、馬鹿なんだもん」
「ッ……絵里!!」
「ホントに……心配して損したじゃない」
「な……っ」
「……今度こそ、終わりになるのかと思った」
いつしか、きゅ……と握り締めていた物。
それは、無意識に手を伸ばしたらしく――……純也のシャツで。
……子どもと一緒ね。
おいてきぼりは1番嫌なくせに、それでも、自分の意見を曲げたりしない。
納得しなければ、納得するまで。
だけど、嘘で塗り固められたりしたら……もう二度と、相手を信じなくなる。
「……ごめんね、純也」
「…………絵里……?」
「私、今回はちょっと……やりすぎたと思う」
ぽつりぽつりと、瞳をまっすぐに見つめて口にする。
……こうして真っ向から謝罪するなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
純也に対して『ごめん』なんて言葉を抱くのすら久々のような気がして、ちょっとだけ胸が痛んだ。
「……なんだよ、急に」
「別に……」
「……お前らしくないぞ」
ほんの少し、もしかしたら動揺してくれてるのかしら。
……でも、だとしたら残念。
ちょっとだけ、今の私には通用しない言葉ね。それは。
だって、腹が立つでも納得するでもなく――……純也をまっすぐに見たまま、表情は動かなかったから。
「それじゃあ、何?」
「……は?」
「私らしい、って何よ」
笑ったりもせずに純也を見つめると、一瞬瞳を丸くしてから、何か言いかけた言葉を飲み込むみたいに唇を結んだ。
……ちょっとは……わかってくれてるのね。
って、違うか。
やっぱり、なんだかんだ言っても、私をわかってくれてるのは……きっと、純也しかいない。
そう思えたから、喧嘩しながらだって、こうして一緒にいることを望んできたんだから。
「私だって、悩んだり不安になったりするわよ」
「……絵里……」
「完璧な人間じゃないのよ? 寂しいって思ったり、つらいって感じたり……そういうときだって、あるんだから」
静かな声で囁きながらも、彼のシャツを掴む手だけは離れなかった。
……これは、本音だ。
ああ。なんか、久しぶりに余計なモノを一切纏わず自分の言葉を言えた気がする。
私だって、誰も知らないような“素面”っていうのがちゃんとあるんだから。
両親も、羽織も……そして、純也も知らないような、一面ってヤツが。
「…………」
……でも、それでもほかの人間より私を知ってくれてることに、変わりはない。
大切な人。
そう、思えた。
だから、自分からあえてそばにいるんだから。
「……何よ」
「別に」
頭に感じた、温もり。
そこで初めて眉が寄る。
「……なるほどな、って思って」
「…………何が」
「別に」
相変わらず繰り返されている、愛撫とも言える――……って、言いたくないけど。
でも、純也にこんなことされるのは、初めてかもしれない。
……ったく。
結局子ども扱いするのね、コイツは。
私が言ってる意味、本当にわかってるのかしら。
どうしても位置的に私が下にいて、それもやっぱり腑に落ちない。
「お前もやっぱ……まだまだ、18の小娘なんだなって思って」
「……小娘って……その言い方はものすごくシャクなんだけど」
「気にすんな」
ほらね?
やっぱり、子ども扱いしてる。
……ま、そう言うだろうなとは思ったけど。
純也にとって私は、きっと『一生俺に敵わない女』とでも位置づけられてるんだろうし。
とはいえ、今回はちょっと違ったかな。
いろんな意味で一矢報いることができたような気もするから、いいとしよう。
「でも……頼むから、あんまり人のことを悪く言うなよ」
「え?」
「平野先生のことだけじゃないからな。……言っとくけど」
「…………別に何も言ってない」
「わかってるっつーの」
だったら、どうしてそこで彼女の名前が真っ先に出てくるのよ。
そう思ったら、やっぱりシャクで。
いい加減“頭撫で撫で”をやめさせるべく、下げてた頭を元に戻して、背中をまっすぐに伸ばしてやった。
――……途端。
「……何よ」
「別に」
睨みつけてやったのに、純也はおかしそうに笑った。
……腹立つわね。
けたけたではなく、一瞬だけの笑い。
それが、ますます自分のしたことが子どもじみてると言われてるようで、腹の虫はおさまらない。
……んだけど。
「っ………」
次に見せた、柔らかな表情。
それはいかにも私好み――……じゃなかった。
何も言えなくなるような……それこそ、『有無を言わさない』ってヤツ。
そんな、大人の男って感じの色気ある笑みだったから……何も言えなくなってしまった。
……悔しい。
でも………………やっぱ、好きなのよね。その顔。
口をつぐんで視線をわずかに逸らすと、頬がなんだか熱くなっているような気がして、少しだけ照れくさかった。
「そりゃ、言いたくなるのはわかるし、俺だって不平不満を口にしないできたヤツじゃないから……偉そうなことは言えないけどな」
「でしょうね」
皮肉と言うよりはやっぱり、照れ隠しだろう。
何も言わずにいると、すべてを受け入れたような……そんなことを思わせる気がして。
「……何よ」
だけど。
そっぽを向きながら肩をすくめたとき、純也がまた小さく笑った。
「ただ」
「っ……」
「たとえどんなに悪いヤツでも、お前の口からそいつを罵る言葉が出ると……やっぱ、いい気はしない。お前が言ってるってのが、何よりもつらいんだよ」
いつもと違う、少しだけ強い……ハッキリとした声。
その声で弾かれるように顔を見てしまったから……もう、駄目。
……ズルいじゃない。
だいたい、何よその笑顔は。
いつもと違うクセに、いつもと同じようなこと考えてるんでしょ。
口には出してないけれど、言うなればこうだ。
『やっぱりお前は、俺に勝てないな』
…………わかってるわよ。
っていうか、今回はちょっと…………嬉しかった。
まさか、そんなふうに思ってくれてるなんて微塵も考えなかったし、いつも純也が怒ってるのは、自分の体裁を繕うためだけだとばかり思っていたから。
……つらい、か。
そんなふうに言われたのも初めてならば、こんな、いつもと違った静かなお説教も初めてね。
「…………わかった」
だから、だったのかしら。
こくんと静かにうなずけた上に、私らしからぬ大人しい表情が浮かんだのは。
「……ね、純也」
「なんだ?」
「私のこと好き?」
「……は?」
崩れた。
そこでようやく、これまで1度も崩れることのなかった純也が、表情を崩した。
……情けないわね。
でも……ちょっと、ほっとしたわ。
だってその顔はまさに、普段の純也と一緒だったから。
「私は、純也のこと好きよ」
にっと笑ってから、唇を結ぶ。
心の中だけで、『大好き』と小さく呟いてやるために。
……今日くらいは、こうであってもいいかもね。
だって、こんなふうに純也も予測できないような私を見せてやると――……ほら。
「……かわいいヤツめ」
「ッ……うるせぇよ馬鹿」
そっぽ向きながら口元を押さえて、思いっきり照れてる純也を見ることができるから。
……耳まで赤くしちゃって。
かーわいーんだー。
うりうりとつついてやりたいところだけど――……まぁ、我慢しましょう。
今、このときだけは……このままでいよう。
……ううん。
いたい、って思ったから。
だって、たまには悪くないでしょ?
こんなふうに、甘くしたまま夜をすごしてみるのも。
「…………」
……でも。
羽織と祐恭先生って、いっつもこんななのかしら。
それはそれでやっぱ……私は、無理だけどね。
つ……と引いていたシャツを離してから、手を伸ばして抱きつくように背中へ腕を回す。
その瞬間ふとあのふたりが頭に浮かんで、一瞬おかしくなった。
だって、言えた義理ないんだもん。
同じようなこと、まんまやってる今の私には……ね。
でも、このこと孝之さんが知ったら、こう言われるかしら。
『どっちもどっち』
って。
……あ、いや。
もしかしたら、それを言うのは葉月ちゃんかもしれないわね。
孝之さんは、『同じ穴のなんとやら』とか言いそうだし。
…………ま。私に言わせてもらえば、結局みんな一緒だと思うけど。
なぜかそこで今度は、葉月ちゃんにどストレートな愛を表現されて照れまくってる孝之さんが浮かんで、また小さく笑っていた。
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