「すまんな、急に」
「いえ、それは別に構いませんけど……」
玄関の外。
階段を下ったその下に止められていた車のところまで降りると、申し訳なさそうに笑った彼が、私に向き直った。
今はもう、20時をとうに回っている。
だけど、彼はついさっきまで仕事だったのか、いつも通りの作業服姿。
……本当に、よく働く人だ。
社を守る人間だからとはいえ、ここまで休みなく働く人も珍しい。
純也に聞いたら、幼いころからそうだったらしいから、それこそ何十年もその体制を続けているんだろう。
「でも、どうしたんですか? いったい。……何かあったんですか?」
一瞬、嫌な考えがよぎりそうになり、思わず喉を鳴らしていた。
だけど、彼は柔和な顔つきを変えることなく『そうじゃないんだ』と笑って首を横に振る。
「実はな。ちょっと……会わせたいヤツがいるんだよ」
「……私に、ですか?」
「ああ」
……もしかしたら、純也だろうか。
そう思うと、顔が不機嫌モードへ突入してしまう。
だって、いくら今回珍しく大喧嘩したからと言って、何も親を盾にすることないじゃないの。
大の大人がそんなことするなんて、ちゃんちゃらおかしいわ。
そんなに私が怖いのかっつーの。
「ほら、降りて来なさい」
コンコン、と運転席の窓を叩いた彼を見たまま、やっぱり不機嫌な顔は直らない。
いったい、どんな顔して降りてくるのよ。
すごすご?
それとも、おどおど?
人の顔色を伺いながら降りてくる顔なんてまったく想像できなくて、助手席のドアが開いた瞬間、思わず笑いそうになった。
――……だけど。
また、だ。
また、私の予想は大きく外れることになった。
なぜならば、立ち上がったその人は――……純也のお母さんだったから。
「っ……な……」
ごくっと喉が鳴り、一気に脈が速くなる。
普段と違って、蔑むようなモノでもなければ、射るような視線でもない。
それどころか、私を見るようなこともしなかった。
……だけど、彼女であることに変わりはなくて。
苦手意識と、先日純也にぶちまけてしまった罪悪感のようなモノからか、一歩後ろに足が下がった。
「絵里」
「…………お父さま…」
この人だけ。
彼だけは、私と初めて会ったときから『絵里』と呼び捨てしてくれた。
これまで、両親と祖母以外には、まずなかった行為。
だけど、何も躊躇なくそうしてくれたことで、まるで本当の娘のように扱ってもらえている気がして、彼だけは私の特別だった。
「……ほら。絵里に、言うことがあるんじゃないのか?」
一歩、一歩。
ゆっくりとこちらへ歩んできた彼女が、そこで初めて私と目線を合わせた。
「っ……」
気のせい……じゃ、ないはず。
その目元が、まるで泣いていたみたいに、ほんの少し赤くなっていたのは。
「……ごめんなさい……」
「…………え……」
「ごめんなさい。……本当に……。……信じてもらえないかもしれないけれど、そんなつもりじゃなかったの」
小さな小さな声。
だけど、そんな語勢も初めてならば、そんな言葉を貰ったのも初めてで。
目の前の彼女は確かに『お母さま』で間違いないのに、まるで別人みたいだ。
いつもみたいに怒鳴るでもなければ、ビシバシと言葉をぶつけるでもない。
ただただ、まるで私の反応を逐一伺っているかのように、視線を合わせたり外したり、そんな繰り返しだ。
「……あなただけなの」
「…………え……?」
「これまで、私がいくらつついたとしても……噛み付くくらいに言い返してきたのは」
きゅ、とハンドバッグを持っていた両手へ、わずかに力が込められた。
「だから、大丈夫なんだって思っていたのかもしれないわ。……過信と言うよりは、平気だろうって勝手に思い込んで、なんでも口にしていた。へこたれないってわかっていたから。きっと貴女ならば、どんなことをしたとしても、一層強く立ち上がってくるだろう……って」
そう、思い込んでいたの。
あなたをあえて傷付けてやろうなんて、本当に思ってなかったのよ。
ごめんなさい。
再び心底申し訳なさそうな顔で言われ、頭がついていけない。
……なんで?
どうして、急にこんな……。
正直言って、彼女がこんなふうに弁解するのはこれが初めて。
目の前で起きてることなのにまったく信じられず、どうしていいか自分でもよくわからないまま。
頭を下げたお母さまと、そんな彼女をここに連れてきたお父さま。
このふたりの行動は、やっぱり――……。
「……許してくれ、なんて言うことはできん。コイツのしたことは、謝って済む問題じゃない」
「……それは……」
「――……が、だからと言って絵里と純也の関係に支障が出るのは、本望じゃない。我々のせいならば、断ち切ってくれたって構わなんのだからな」
「っ……そんな!」
「いや、当然だろう? 親のせいで子どもが理不尽な思いをするなんて、そんなのはあっちゃならん話だ」
このときばかりは、彼も笑ったりしなかった。
表情も言葉も決して崩さず、まっすぐな表情を浮かべたまま。
……こんなの、初めて。
こんなに紳士的で、真面目に対されて……視線を逸らさずにいられなくなる。
「……っ……」
そのせいだろうか。
直面したことのなかった状況にぶつかって、反射的に『いつもと変わらない物』を見つけ出そうと、身体が動いたのは。
「ここに、アイツはおらんよ」
「……え……?」
――……だけど。
彼は、まるでそんな私の思いを見透かしていたかのように、緩く首を振って静かに呟いた。
「責任を取れ、と言われたよ」
「……責任?」
「ああ。いい年の大人なんだから、自分のしたことは自分で償え……ってな。……はは。アイツに言っていたことを言い返されるなんて、思いもしなかったよ」
ははは、と笑いながら少しだけ宙を見つめた眼差しは、もしかしたら少し昔のことを思い出していたのかもしれない。
……当時の純也のこと、を。
“昔”はそれこそやりたい放題で、反発しまくって……迷惑かけたに違いない。
ま、今では教師なんていう体裁上はしっかりした身分にあるからこそ、ふたりも安心してるかもしれないけど。
「アイツはアイツで、自分の責任を取るそうだ」
「え?」
「……なんせ、言いだしっぺだからな。俺たちにそう言った以上は、ヤツだって自分の尻拭いは自分でしなきゃ、話にならんだろう?」
ほんの少しだけいたずらっぽい顔をして、彼は車のドアを開けた。
それを見てから、お母さまも助手席へ回る。
……そういえば、もうすでに21時を目前にしてたんだっけ。
こんなふうにご両親と会うなんてことは休日以外になかったせいか、一瞬、曜日と時間の感覚が酷く薄れた。
「……それじゃ」
「……あ……」
「嫌な思いさせて、本当に済まなかったな」
「そんな……! ……むしろ、こんなふうにお気遣いいただいて……申し訳ないです」
運転席に乗り込んだ彼を見ながら首を振り、開けられたままのドアへ近づく。
そのとき、彼越しにお母様と目が合ったけれど、いつもみたいにすぐ逸らされるわけではなく、しばらく見つめられてから……ゆっくりと伏せられた。
「そういや、絵里」
「……はい?」
「帰りは家の前を通るんだが……どうする?」
「……え……」
「乗ってくか?」
彼はまるで私の反応を見ているというよりも……むしろ、試しているような。
そんな感じが伝わって来た。
……家の前。
それはもちろん、あの、家の前だ。
今日は平日。
この時間ともなれば、さすがに純也は家に帰っているだろう。
「…………」
一昨日、昨日。……そして、本日。
彼はひとり、あの広い部屋で何を思って何を考えていたんだろう。
……少しは、私のこと……考えてくれた時間、あるのかしら。
なんだかんだ言って自分は彼のことを考える時間がやけに多かったせいか、相手にも自然とそう求めていた。
…………でも……。
逸らしてしまった視線を、言葉を待っているであろう彼へもう1度合わせる。
すると、自然に首が横へ振れた。
「……お気持ちは、本当に嬉しいです。……でも……」
1度合わせた視線を、ふっと瞬間的にまた外していた。
ぎゅっと手を握ると、少しだけの沈黙。
……でも、やはり考えるまでもなく、すぐに顔が上がった。
「少し待っていただけますか? ……荷物を取ってくるので」
笑みとともに、彼へ告げる。
と、一瞬驚いた顔を見せてから『いいだろう』と豪快に笑ってうなずいた。
……決まってる、よね。
っていうか、そうしなければそれこそ……こうまでして責任を取りにきてくれた彼らに、顔向けができなくなる。
次は、私。
今度は、私が自分で自分の責任をまっとうしなきゃいけない番だから。
……そうしなきゃ、羽織と葉月ちゃんにも……怒られちゃうかもしれないしね。
外階段を駆け上がりながらふたりの顔が目に浮かび、ちょっとだけおかしくなった。
――……ちなみに。
一緒に浮かんだ孝之さんだけは、なぜかものすごくほっとしたような……解放されたー! みたいな。
そんな、安堵の表情を浮かべていた。
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