「じゃ、またね」
「はぁい。それじゃ、いってらっしゃい」
「……いってくるよ」
 いつものように学校の裏道で彼女を先に降ろす。
 が、今日は冬女ではなく、そのまま冬瀬高まで車を走らせる。
 冬女とはそんなに離れていないので、すぐに校舎が見えてきた。
 現在、俺は非常勤という扱い。
 なので、今回のこの授業だけで解放されるのは正直嬉しくもあった。
 ……なぜ? と理由を聞かれれば、こう答えるしかない。

『この学校には、俺が一生頭の上がらない人がいるからだ』

 ――……と。
 いつものように教員用の玄関から職員室に向かうと、冬女とは多少違う景色が見られる。
 とはいえ、教員の男女の比率が違うくらいで、ほかは変わらないんだけれど。
 今朝は、職員会議の代わりにそれぞれの机の上へ申し送りというかたちで書類が置かれていた。
 座りながらそれに目を通すと、生徒の長期休業中の風紀の乱れに関することがつらつらと書かれている。
 さすがにダイレクトなことまでは書かれていないが、やはり男子校ということもあってか、細かく記されてはいた。
 ……不純異性交遊ねぇ。
 最近こんな言葉耳にすることもなくなったな……などと考えていると、大学時代からの友人が肩を叩いてきた。
「よっ」
「あれ? 今日って補習あるのか?」
「ああ。谷川先生の代わりに入ることになったんだよ」
「……なるほどね。大変だな」
「まぁなー」
 彼は、菊池優人(きくち ゆうと)
 彼もまた、非常勤講師として冬女でも見かけることがある。
 ……だが。
 コイツは、例のコンパのときに欠席した張本人。
 ――……で。
 実は、羽織ちゃんの従兄であることを最近知った。
 まさか、こいつと彼女の血が繋がっているとは……。
 とてもじゃないが、そうは見えない。
 ……まぁ、優人がコンパに出席していたら、彼女とは今のようになっていないかもしれないと思うと、勝手に恩を感じてもいるのだが。
「祐恭、次どこ?」
「4組」
「じゃあ、一緒に行こうぜ」
 教材を手にして立ち上がると、笑みを浮かべて彼もあとをついてきた。
 廊下を進みながら交わす、久々の話。
 ただ、やけに笑みを浮かべているのが、少し気になるんだが。
「最近、どうよ?」
「どうって……別に変わってない」
「でも、彼女できたんだろ?」
「っ……よく知ってるな、お前。相変わらず、情報網広いよな」
「まぁな。で? どんな子?」
 ……なるほど、そこまでは知らないのか。
 などと若干安心しながらため息をつき、ならば、とばかりにニヤっとした笑みを浮かべる。
「かわいいよ」
「えー、なんだよそれー。なんか、いっつもお前って得してるよなー」
「……ま、行いの差ってヤツだろうな」
「ちぇー。あ、じゃあさー。今度お前の彼女も含めて、コンパしねぇ?」
「……無理」
「なんで? いいじゃんかよー、彼女の友達紹介してー」
「あーもう、うるさいな。無理なんだよ、それは」
 理由を知らない優人が眉を寄せて文句を言うが、こっちだって困る。
 口が裂けても『羽織ちゃんが実は彼女』、なんて言うに言えなくて、首を横へ振るに徹する。
 すると、優人がぶーぶー唇を尖らせた。
「お前だけ幸せになるなんて、ずりーぞー」
「だから。そういうのは、孝之に頼めばいいだろ?」
「えー。あいつー? だって、あいつとコンパするとさぁ、なんか俺いつも損してる気がするんだよなぁ」
 しっしと手で追い払うと、ようやく諦めたらしくため息をついた。
 ……ったく。
 俺の場合は『しない』んじゃなくて、『できない』んだよ。
 女子高生相手に、飲み会なんてできるワケないだろうが。
「んじゃ。またな」
「おー。コンパの件、考えておいてくれよー」
「……だから、無理だって」
 優人と別れて教室に入ると、教室の隅のほうで何やら数人の生徒が集まっていた。
 俺が入ってきたことにもまったく気付いてないので、うしろから近づいて覗きこむ――……と。
「……あのな。こういう本を学校に持ってくるんじゃない」
「うわ!? ……なんだ。瀬尋先生か」
「なんだ、とはなんだ。没収されてもいいのか?」
「うわっ!? ちょ、勘弁してよー」
 手を伸ばして本を取り上げようとすると、慌てたように生徒が苦笑を浮べた。
 ……ったく。
 俺じゃなかったら即没収だぞ。
 つーか、エロ本を持ってくるなよ。堂々と。
 ……とはいえ。
 自分の過去に記憶がないといえば嘘になるので、あえて口を挟まないでおくが。
「おおー。俺、この子がいいなー」
「え? マジでー? こっちのほうがいいってー」
「うわー、さいこー」
 ……まったく馬鹿ばっかりだな。
 それでも、男なんて所詮こんなモンだ。
「先生、どの子がいい?」
「……何?」
 教卓に向かおうとすると、不意に声がかかった。
 ……どの子って……。
 雑誌を目の前に広げられ、思わずあれこれと視線が移る。
 …………しょうがないだろ?
 こればっかりは、男のサガってヤツなんだから。
「んー……微妙だけど、しいて言うならこの子」
「あー、先生らしー。お姉系ってやつ?」
「あ、わかるかもー」
「え、じゃあさ、じゃあさぁー。この子は?」
「いや、俺の趣味じゃない」
「なんでー!? めっちゃかわいいじゃん!」
「そうか? だったら、こっちの子のほうが純情そうで……」
「先生、何求めてるわけー?」
「やっぱ、こういう子よりも、この子のほうが甘えてくれそうだろ?」
「あ、先生そういう子がいいんだー」
「……んー、人による」
「あ、じゃあさー!」
 ――……結局。
 生徒の馬鹿な談義に、すっかり交ざりきってしまった。
 あの子はどうだとか、この子はこうだとか。
 結局、俺もまだまだ学生気分が抜けてないのかもしれない。
「この子はどうかね?」
「……あー。でも、俺はこっちの――」

 ぴた。

 にゅ、と背後から伸びてきた手――……を見た瞬間、動きが止まった。
 つ、と嫌な汗が背中を流れる。
 この声。
 この、言い回し。
 ……遠い昔に同じ経験をした覚えが――……。
「うわっ! せ、瀬那先生!?」
「っ……!!」
 生徒の声に慌てて振り返ると、にっこりと微笑んでいる彼がいた。
 この笑みがまた、威圧感あるんだよ……。
 ……う。胃が痛い。
「そういう本に興味を持つななどとは言わないが、今はもう授業が始まっているぞ?」
「す、すみませんっ」
「ミイラ取りがミイラになってどうする」
「っ……すみません」
 慌てて生徒から雑誌を取り上げ、背中に隠す。
 ……ていうか、マズイだろ。これは。
「頼んだよ、瀬尋先生。……一応、授業が終わったら話をしようか」
「ッ……はい」
 ぽん、と肩を叩いた彼が、最後まで笑みを崩さないまま教室から出て行った。
 その背中を見送ってから、大きなため息が漏れる。
「……あーあ、先生怒られるんじゃねぇ?」
「俺、しーらねー」
「あーもう、うるさいっ! ほらっ、授業始めるぞ!!」
「えっ!? あ、先生本返してよっ!」
「そのうちっ!」
「えぇーーー!!?」
 ブーイングを一喝し、教卓に戻ってプリントを配り始める。
 ……あぁもう、最悪だ。
 タイミング悪すぎ。
 まさか、彼にこんな場所を見られるとは。
 昔と今では立場が違うだけに、言い訳はもちろん通用しないワケで。
 ――……そう。
 彼というのはほかでもなく、俺が一生頭が上がらないであろう人物。
 友人の父であり、高校時代の恩師であり、そして――……最愛の彼女のお父様でもある、瀬那雄介(せな ゆうすけ)教諭その人だ。
「……はー」
 とんでもないところを見られた。
 ……授業後の話が、非常に恐い。
 ちくちくと痛み出した胃を押さえながら、よろけるように空いていた椅子を引き寄せて座る。
 だが、こちらの気も知らない生徒のひとりが、思い出したように声をあげた。
「あ、そういえばさー。瀬那先生の娘が、冬女にいるらしいぜ?」
「マジで!?」
「うん。……あ、先生なら知ってんじゃん?」
 ふいにこちらへ向いた、幾つもの顔。
 ……知らないワケないだろ。
 俺が付き合っるてんだから。
「瀬那先生のお嬢さんなら、知ってるけど」
 頬杖をつきながら呟くと、身を乗り出してそれぞれが反応を見せた。
「どんな子? かわいい?」
「かなりかわいい」
「マジでー!? うわー、見てぇーー」
 ……こいつら反応が面白いな。
 ついつい、からかってやりたくなる。
「そんなにかわいいの?」
「かわいいね。ヤバい。それに、こー……なんつーか、男を放っておかないっていうか……」
 いつのまにか、まんざらでもない顔をしていたらしい。
 顎に手を置きながら続けていると、にやにやした顔で生徒たちが視線を向けてきた。
「えぇー? 先生、駄目じゃねー? 生徒に手ぇだしちゃ」
「そうそう。それにさー、年下に興味ないんじゃなかったの?」
「いいだろ、別に。かわいいもんは、かわいい。そう言って何が悪い」
 口々に好き勝手なことを言い出す彼らに肩をすくめるも、まだあれこれ言う始末。
 ……いーだろ、別に。
 自分の彼女を褒めて、何が悪い。
「ほら。話はそこまで。プリント始めー」
 軽く手を叩いて促すと、暫くしてから静かに問題を解き始めた。
 そんな姿を見ながらも、やはり出るのはため息ばかり。
 ……瀬那先生に見られたのは、マズいよな。
 もし俺が自分の娘の彼氏の失態を見つけたりしたら、叱り飛ばしてるどころじゃ済まないかも……。
「…………」
 はー。ピンチだ。
 さて、どうやって難を逃れるか。
 結局、そればかりが授業中ずっと頭の中を巡っていた。


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