「――……以上。答え合わせは各自で次の時間までに終わらせておくように」
チャイムが鳴ったところでガタガタと生徒たちが席を立ち始め、自分も余ったプリントを束ねて持ちながら職員室に向かう――……と。
「瀬尋先生」
「はいっ!?」
「ちょっと、いいかな?」
「……もちろんです」
廊下に出てすぐ背後から声がかかり、振り返りながら乾いた笑みとともに瀬那先生のあとへ続くことにした。
……何を言われるのか。
とんでもない何かを告げられそうで、心臓が今にも破裂しそうなほど音を立てている。
職員室に向かう廊下の一本道。
ここは、学生時代とは違う景色に若干見えた
「っ……」
びくびくしながら言葉を待っていると、不意に彼がこちらを向いた。
「……相変わらず、変わらんな。君は」
その顔は、いたずらをした生徒を叱るときの、あの、彼の表情だった。
呆れたような、困ったような……そんな笑顔だ。
「すみません」
だからこそ、こちらにも苦笑が浮かんだ。
6年前。
進路の相談をしたときも、孝之とあのテの雑誌を見ていてバレたときも、彼はこんな顔をしてくれた。
『しょうがないヤツだな』
まるで、そう言いたげな笑みで。
相変わらず、先生は何も変わっていないらしい。
「あ。今週末、山梨の忍野村に合宿で行ってきます」
やはり泊りがけだし、報告はしておいたほうがいいだろうと思い、彼に伝えた。
すると、足を止めて瞳を丸くする。
「忍野村に? ……ほお。じゃあ、宿は――」
「もちろん、あそこですよ」
彼に笑みを浮かべてうなずくと、ふっと表情を和らげてからうなずいた。
「そうか。分野が違うとはいえ、いよいよ君も顧問として同じ道を歩んでくれるか」
「ええ。人は経験からしか学びませんから」
「なるほど。では、今度はくれぐれも、立たされるようなことをしないようにな」
「う。……大丈夫だと思います」
「頼むぞ?」
「はい」
そういえば、昔そんなこともあったな。
宿で立たされたのなんて、正直アレが最初で最後だ。
「そういえば、昔。1度だけ家族で行ったことがあるんだよ。あそこに」
「へぇ。そうなんですか?」
「ああ。孝之が小学生で、羽織はまだ幼稚園だったか。……覚えてるかね? あそこに、富士の水が湧いているところがあっただろう。とても冷たい水なんだが……」
「……あー。そういえば、ありましたね。早朝、みんなで出向いた覚えがあります」
「はは。そういえば、そんなこともあったな。……なら、あの冷たさはわかるだろう?」
「ええ。手を入れても、30秒もたなかったですね」
苦笑を浮かべてうなずくと、彼も笑みを浮かべた。
今から、6年も前のこと。
顧問の彼に黙ってこっそり部員だけで出向いたんだよな。
ほんの少しだけのつもりが結構な時間の抜け出しになってしまい、朝食までに戻らなかったこともあって、彼が迎えにきてくれたものの――……えらく怒られたんだよな。
……ああ。
なんか、昔から俺は彼にとっていい印象がないんじゃないかと、今さらだがものすごく心配になる。
「あの挑戦をふたりにやらせてみたら、案の定孝之はすぐに手を出してしまってね。……だが、羽織は……」
ふっと苦笑を浮かべた彼の顔は、いかにも父親らしい優しさがあった。
……そうか。
彼はいつも、彼女のことを話すとき、こんなに優しい顔だったんだな。
改めて、彼にとっての“大切な宝物”だと実感し、気持ちが引き締まる。
「泣きそうになりながら、ずっと手を入れてたんだよ」
「……え……彼女が、ですか?」
「ああ。まだ幼稚園生の子が、だよ? 思わず私たちも驚いてしまってね、1分近く経ってから慌てて手を出させたんだ」
思わず目が丸くなった。
あの、彼女が?
……だが、泣きそうになるのを懸命にこらえる姿は、容易に想像がつく。
だからこそ、なんとも驚いたのだ。
「小さな手が真っ赤になってしまってね。本当にかわいそうだった。……でも、そのとき。あの子、なんて言ったと思う?」
「……彼女が、ですか?」
「ああ。手を撫でてやっていたら、小さい声でこう言ったんだよ。『お父さん。私、強いでしょう?』って」
彼の顔があまりにもいい表情で、何も言えなかった。
昔を懐かしむ顔、とはまた違う。
娘を想う父、そのものとでも言えばいいだろうか。
自分にはまだ経験がないからわからないが、そういえば、実家の父も妹に対してはこんな顔をしていたこともあったように思う。
思わず、目が細まる。
実感したから、だ。
彼女が、本当に両親に愛されていることを。
「ちょうどその前日に、幼稚園で男の子に泣かされたらしいんだ。それで、孝之のヤツが泣き虫弱虫扱いしたんだが、幼心に残るものがあったんだろうね。……思わず、こっちが泣きそうになったよ」
苦笑を浮かべた瀬那先生が、『今は覚えてないだろうがね』と付け加えた。
「……彼女らしいですね」
「そうだな。ああ見えて割と頑固なところがあるから………大変だろう? 祐恭君」
「え!? ……あ、いえ。とんでもないです」
「そうかね? 迷惑かけていないならいいんだが」
……むしろこっちのほうが迷惑かけているんじゃ……などとは、口が裂けても言えない。
頑固。
……まあ、確かにそれは否定しないが。
「忍野はいいところだからね。思い出を作ってくるといい」
「ありがとうございます」
にっと笑いながらうなずいてもらえ、思わずこちらも緊張がほぐれた。
――……が。
「あー、そうそう。今の時期は桃がうまいかな」
「え?」
「さっきのこと。羽織には黙っておいたほうがいいかな?」
「っ……喜んでお土産にさせていただきます」
足を揃えて深くお辞儀をすると、彼がおかしそうに笑った。
……相変わらず、敵わない人だ。
「英語は、役に立ってるかね?」
「もちろんですよ。あのとき先生に会ってなかったら、きっと日本国内で終わる化学者だったと思います」
「はは、大げさだな」
「とんでもない! 先生のお陰ですから、本当に!!」
ぶんぶんと首を振って真面目な顔をすると、彼が嬉しそうにうなずいてくれた。
「そう言ってもらえれば、教師冥利に尽きるね」
「本当のことです」
そう。
彼のお陰で、今の俺があると言っても過言じゃない。
それほどまでに、彼の力が大きかった。
少し照れたように笑って『褒め過ぎだ』と手を振る彼に、あのとき言ってもらえた言葉があったから。
「研究者?」
「はい」
高校3年のあの日。
進路のことで職員室にいる彼の元に行くと、そんな言葉が返ってきた。
とはいえ、怪訝そうな顔をするわけでもなく、どちらかというと驚いたような……そんな感じだった。
「……研究者か。うん、瀬尋ならいいんじゃないか?」
「本当ですか?」
「ああ。化学、好きなんだろう?」
「はい」
真顔でうなずいた俺を見てから、彼は少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべた。
彼のこの顔は、普段の恐いイメージからかけ離れていて、結構好きだった。
「なら、俺が反対することは何もないな」
「え……終わり、ですか?」
「ん? 不満か?」
「いや、そういうワケじゃないんですけど……。もっと、いろいろ言われるんだとばかり思ってたんで」
頭をかいて呟くと、苦笑を浮かべた彼が首を振った。
「これは本人が決めることだろう? 俺が反対するようなことじゃないしな。……やりたいことがある、それに向かっていく、それでいいじゃないか」
「っ……」
そう言われたとき、気持ちがすごく楽になったのを今でも覚えている。
きっと、ほかの教師だったら『そんなことで将来職に就けるのか』とか、いろいろと嫌味を言われたに違いないから。
「だけどな、瀬尋」
「……はい?」
「英語だけはやっておいたほうがいいぞ」
机に進路希望の用紙を置いた彼が、ふっと真面目な顔をしてこちらに向き直る。
このギャップは、やっぱり――……彼らしいと思った。
そういえば、孝之もこんなふうにころころと表情を変えるんだよな。
……どうやら、遺伝らしい。
「英語ですか?」
「ああ。……これは何も、俺が英語教師だから言うんじゃない。いいか? 研究者になれば、論文を書くだろう?」
「そう……でしょうね」
「そうなったとき、英語で論文を書けないと日本だけで終わる学者にしかなれないんだぞ」
この言葉によって、一気に正気に戻された気分だった。
今まで英語は好きなほうだができは芳しくなかったため、割と敬遠しがちになっていたのだ。
「英語を書けない、話せないお偉いさんはたくさんいる。だけどな、それじゃ駄目なんだ」
切々と話してくれる彼の瞳はとても真剣で、まるで父親のようだった。
ほかの教師とは違う。
本気で俺のことを考えてくれている。
そう思える眼差しがあったから、俺は彼を慕ったんだと思う。
「お前は、日本だけで終わるような人間になるな。世界を相手にする学者になれ」
言い切ったあと、にっと笑ったその顔はあまりにも理知的で、野心的で。
俺が知っている彼の顔とはまるで違っていたからこそ、少しだけ驚いた。
だが、その日以来、俺は英語に興味を持つようになった。
……というよりは、懸命に勉強を始めたといったほうが正しいだろう。
わからなければ彼の元に行き、たくさんの質問をした。
そのたびに嫌な顔ひとつせず、丁寧に教えてくれたのだ。
大学に行ってからもそれは変わらず、孝之の家に行くという名目で帰宅後の時間にお邪魔しては、彼に質問することもあった。
――……それ以来。
俺にとって彼は恩師であるだけでなく、どちらかというと父親のような存在になっていた。
そして、現在。
俺にとっての彼は――……というと。
「ん?」
「あ、いえ。何も」
事実、付き合っている、彼女の父親という存在になったわけで。
……手ごわいライバル。
いや、ライバル以前の問題だな。
俺、先生に勝てないし。
思わず苦笑をもらすと、彼が笑ってこちらを見つめた。
「まぁ、娘のことはよろしく頼むよ」
「もちろんです!」
慌てて大きくうなずき、背を正す。
が、途端に表情を変えて彼がいたずらっぽく笑った。
「……しかし」
「え?」
「さっきの雑誌の子に比べると、なんだな……羽織じゃいろいろ不満があるんじゃないか?」
「え!? な、なんでそうなるんですか!! とんでもないですよ! むしろ――」
「……むしろ?」
「っ……俺にはもったいないくらいで」
「はは。いいよ、そんな気を遣わないでくれ」
……相変わらず、敵わない。
ばしばしと肩を叩いてから、にやっと笑って席へ戻って行った彼。
そんなうしろ姿を見送ってから、思わずため息をつく。
……さすがに、昔の自分をよく知っている人物だけあって、崩しようがない。
とりあえず、桃だけは忘れずに買ってこようと、そう深く心に誓ったのだった。
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