いつもなら、絶対にしないこと。
 そればかりを、今日はあえて自分からしていた。
「…………」
 パチ、という小さな音を最後に、キーボードから手を離す。
 普段なら、こんなこと絶対にしない。
 こんな――……論文を書くためにひとり、書斎に篭るなんてことは。
「……はー」
 頭の後ろで両手を組んでから、漏れたため息。
 それが、今の俺の心境を何よりも表していた。
 ……何してんだか。
 別に、切羽詰ってやらなきゃいけない仕事があるわけでもない。
 ……そう。
 少なくとも、こんなふうにワザと自分から進んで彼女を隔離するようなことをしなくても、十分過ぎる時間は確保できているのに。
 ただでさえ、ともに過ごせる時間が少ない現在。
 ……それなのに、どうしてわざわざ?
「…………」
 すっかりやる気のなくなった論文の画面を眺めてからファイルを保存し、電源を落とす。
 すると、途端に手狭な部屋は見事なほどに静寂を取り戻した。
 リビングにいるであろう、彼女の音。
 それが聞こえないものかと、いつの間にやら意識は飛んでしまっていて。
 ……こんなふうに思うなら、最初から彼女と離れたりしなきゃいいのに。
 我ながら、本当に何してるんだかわからない。
「…………」
 こう思ってしまえば、あとの行動はハナっから決まってる。
とっとと、足を向けるだけ。
 ……愛しい彼女が待っているであろう、場所へ。

「……あ……」
 閉められていた戸を開けてリビングに入ると、暖かな空気とともに彼女の小さな声が聞こえた。
「お仕事、終わったんですか?」
「ん。まぁね」
 ぱっと顔を上げた彼女と、ばっちり合った瞳。
 その瞳が、心なしか明るさを取り戻したように見えた。
 ……自惚れもイイトコか?
「……え……?」
 自分を少し情けなく思いながら彼女の隣へ腰かけ――……た、とき。
 それまでは“自惚れ”と自嘲していたことが、そうじゃなかったんだと一瞬で把握した。
「……もう、お仕事いいんですか?」
 まるで、すがりつくかのように、ひたり、と向けられた視線。
 わずかに下の位置から見上げた彼女の表情は、どこか儚げで、不安そうで。
 ……だけど、それだけじゃない。
 彼女にしては珍しく、腕を取るように両手を絡めてきたのだ。
 まさに、字の如く。
「……あー……うん。もう、平気だと……思う」
 情けなくも、一瞬言葉が出てこなかった。
 嘘とまではいかなくとも、彼女に対してそれっぽいことをしたのは事実。
 だから、信じてくれている彼女には、ひどく申し訳ない。
 ……騙してるワケじゃない。
 そうじゃないが――……なぁ?
 やっぱり……後ろめたいわけで。
「……よかった」
「え?」
「あ。……う、ううん。なんでもないです」
 本当に小さく聞こえた、安堵にも似た響きの言葉。
 それでつい聞き返してしまったのだが、彼女は慌てて首を振ってから、すぐに笑みを浮かべた。
 ……まるで、真意をこれ以上問いただされないよう、誤魔化すかのように。
「寒くなかったですか? あの部屋」
「え? あー……まぁ、うん。少し」
「……やっぱり。ほら、こんなに冷たくなってますよ?」
「っ……え……」
 どうしても、先ほどから情けない声しか出てこない。
 ……不思議というよりも、驚き。
 そんな言葉のほうが、しっくり来る。
 彼女は先ほど、まるで甘えるかのように、自分から腕を絡めてきた。
 そして、今。
 さりげなく触れる口実を作るようにしてから、自ら……手を握ってくれた。
 少し冷たくなっていた手先に突然感じた、温もり。
 それは穏やかなハズなのに、どうしてか衝撃が大きく感じられる。
 …………ガキみたいに、鼓動も早い。
「風邪引いちゃいますよ?」
「それは……まぁ……」
「だめですよ、引いちゃ!」
「あー……そうだな」
「……もぅ。どうしたんですか?先生」
 いつものような反応ができない俺がおかしいのか、くすくすと彼女が柔らかく笑った。
 ……言葉が、出てこない。
 というよりは、頭がうまく働かない。
 普段も、確かにいい意味で俺の期待を裏切る彼女ではある。
 だが……まさか、こんな方向にコトが向かうとは思いもしなかった。
 ……逆だったんだけどな。
 彼女じゃなくて、俺が彼女に……こうして何かをする立場だったんだが。
 当初とまったく違ってきた、予定。
 それをひしひしと感じて、少しだけ……焦ってもいる。
 ……落ち着け。
 彼女が主導権を握っていたあの夢のようなことには、きっとならない。
 ここにいるのは、俺がよく知っている彼女自身に違いないんだから。
 ……だけど。
「…………」
「? なんですか?」
「……いや……別に」
 不思議そうな顔をして軽く首を傾げた彼女から、視線が外せなくなる。
 ……このままで、いいんだろうか。
 この状況に甘んじても、俺の予定は狂いはしないんだろうか。
 この先には――……予想通りの、オイシイ展開が待っているんだろうか。
 ……どうする、俺。
 誰に突きつけられたワケでもない選択に対して、勝手な答えを今ここでくだそうか迷っている……俺はどうするんだ。
 先ほどまでと変わらない彼女の顔を見ながらも、この先のビジョンが頭に浮かばなかった。


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