「あ」
 唇が触れたか触れないか……のとき。
 いきなり、テーブルに置いたままだったスマフォがメッセージを知らせた。
「…………」
「…………」
 ……気まずい。
 それまで、キスを待つかのように瞳を閉じていた彼女が、ゆっくりとまぶたを開けた。
 ……心なしか、潤んでいる瞳。
 その顔はキスができなくて残念そうに……見える。
 って、ここまでくると俺は病気かもしれない。
「……誰だろな」
 別に口に出す必要はないのに、ついつい言いながらスマフォへ手を伸ばす。
 そのときふと視線をテレビへ向けると、すでに濡れ場は終わっていて。
 まるで何事もなかったかのように、再び激しい銃撃戦を映し出している。
「…………」
 わざとらしく咳払いなんて“いかにも”すぎるので、何もせずにソファへ深く座り直す。
 ……同じようにソファへもたれている彼女の目線は映画へ。
 どうやら、あんなふうに思ったのは俺の気のせい……だったんだろう。
「……なんだ」
 メッセージを開くと、そこにはなんてことない文章があった。
 ………だいたい、昨日も会っただろうが。
 差出人の名前にため息が漏れる。
 つーか、今どき『あけおめ』なんて遣うのか……?
 やっぱり、優人のことはよくわからないな。
 しかも、『ことよろ』って……。
「…………」
 あーもー。
 スマフォ開いて損した。
 ものすごくそんな気持ちでいっぱい。
 邪魔さえなければ、今ごろは――……。
「…………」
 ……と、そこで気付いた。
 そういえば……俺は今日、彼女に対してどうするつもりでいた?
 彼女のいつもと違う雰囲気に思わず忘れかけていたが、そういえば今日は、彼女に対して“我慢”するって決めたんだったな。
 ……理由?
 ンなモン、ハナっから決まってる。
 ただ単に『彼女から求めてほしかったから』というだけ。
「…………」
 夢で見たあの、彼女。
 普段とはまるで正反対の姿に、情けなくも若干動揺したんだ。
 彼女は彼女だってことくらい、ちゃんとわかってる。
 いつも見ている彼女こそが、ホンモノだっていうのは。
 だけど、あまりにも夢がリアルで、わずかながら不安になった自分がいたのも確か。
 情けないって笑われることは、百も承知だ。
 ……だけど。
 だけど、何かしら確証が欲しいとも思った。
 彼女らしい、何かを。
 俺自身の、この手で得られる何かを。
 ……我侭だと笑われるかもしれないけどな。
「……先生」
「ん?」
 考えごとをしていたらしく、彼女に声をかけられてようやく我に返った。
 ――……すると、先ほどまで映画を流していたテレビは、何かの宣伝に移り変わっている。
 ……そんなに、長い間考えごとでもしてたのか。
 少し心配そうな彼女を見て、思わず苦笑が浮かんだ。
「……あー。もう昼すぎたな。何か取る?」
「…………」
「……? 羽織ちゃん?」
 まっすぐに俺を見ているのに、声をかけても返事がなかった。
 表情も、もちろん動いていない。
 ……ただ、まるで甘えるかのように濡れた瞳で俺をまっすぐ見つめるだけ。
「せんせい……」
「っ……」
 少し掠れた声すらも、甘美なものに感じてしまう。
 彼女に触れるのをずっと我慢してきたから。
 あえて彼女と距離をはかって、彼女に……俺が思ったことをしてほしいなんて思ったから。
 我侭なことばかりした結果がそうさせるのかはわからないが、普段よりも強く彼女を求める自身の欲を感じた。
「……なに?」
 いつもよりずっと、彼女の動きひとつひとつに目がいって仕方がない。
 言葉を囁く唇も、濡れて俺を映している瞳も。
 ――……そして。
「……せんせ……ぇ」
 本当に素直に甘えてくる仕草も、何かをねだるような……その、声も。
 ……ヤバい。
 彼女からねだってもらうことだけを考えていたのに、むしろ、自分で自分を煽って追いやっていたようだ。
 思考がうまく働かない。
 ……ただ、心の底から彼女だけが欲しくて。
「…………」
 今すぐキスをして、抱きしめて、そのまま――……手を出すのは、イケナイことだろうか。
 ……どうだ?
 ものすごく彼女を欲しがってるのに、これ以上、彼女に俺を求めさせたいのか?
 そんなことして、何になる。
 壊してしまう位に、彼女を求めて、欲してしまうかもしれないのに。
「……私……ね? ずっと――」
「あ」
「え……?」
「腹減ったよな。何か食べ行く?」
「え? あっ……先生!」
 ぽん、と手を叩いて立ち上がり、彼女の顔が見えないように背を向ける。
 ……本当は、欲しくてたまらないのに。
 今すぐにでも否応なしにキスをして、そのまま――……と望んでいるのに。
 それなのに俺は、こうして……彼女にまだあえて自分の我侭を通そうとしていた。
「さて。どこ行こうか」
 わざとらしく明るい声を出して寝室に入り、クローゼットへ向かう。
 いつもと違って、あんなに彼女は甘えてくれたのに。
 それなのに、まだ、俺は欲しいなどと自分のどうしようもない我侭を貫くのか。
「……何してんだよ」
 何が不安なんだ?
 それとも、何かを恐れてる?
 ……だとしたら、いったい何を。
 これ以上自分のどうしようもない欲情で、彼女を傷つけるのはよせ。
 ――……そう、誰かの声が聞こえてくるような気がした。
 いや、『誰か』なんかじゃない。
 これは紛れもなく、俺自身なんだから。


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