「……?」
 カタン、という小さな物音。
 振り返ると、そこには少し不安げな顔をした彼女が立っていた。
「……どうした?」
 ジャケットを羽織ってから隣へ向かい、顔を覗き込むように少しかがむ。
 ――……途端。
「っ……え」
 彼女がすがるように両腕を首に絡めてきた。
「……ど……した?」
 突然のことで、わずかに鼓動が早くなる。
 だが、それだけが理由なんかじゃもちろんない。
 ちょうど首筋に彼女の吐息が当たり、情けなくも……肌が粟立つ。
 ……さっきまで、彼女を求めることばかり考えていたんだ。
 当然と言えば、これこそ当然の反応だろう。

「キス……してほしいって思ったら……ダメですか?」

「っ……」
 微かな響きを伴った言葉が、すぐ耳元で聞こえた。
「……どうして、してくれないの……? 私のこと……嫌い?」
「は!? な、ちょっ……なんでそうなる!? そんなこと言ってないだろ!」
「けど、だって……!」
 驚いて彼女の肩を掴み、顔を覗く。
 すると彼女はじんわりと瞳を潤ませて、今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。
「なんでそんなふうに思うんだ? 俺が何かした?」
 彼女の両肩に手を置いたまま、語調を極力穏やかに努めながらたずねる。  ……が。
 彼女は俯いたまま緩く首を振るだけで、口を開こうとはしない。
 …………参った。
 これはもう、俺にとって“誤算”でしかない。
 彼女にこんな顔をさせるために、今回のことを思いついたワケじゃないのに。
 確かに、彼女がとても甘えてくれたことも、ある意味では計算外だった。
 だけど、まさか。
 ……まさか、こんな……ことになるとは。
「っ……せん、せ……」
「ごめん、違うんだ。ホント……ごめんな」
 彼女を強く抱きしめ、その肩口でしっかりと呟く。
「……我侭がすぎた」
「え……?」
「悪いのは羽織ちゃんなんかじゃなくて、俺のほうなんだよ」
 不意に腕へ感じた彼女の手のひら。
 それで顔を真正面から見ると、先ほどよりかは若干和らいだ表情をしていた。
「……夢、見たんだ」
「夢……?」
「そう。初夢」
 思い出すまでもなく、すぐに頭に浮かぶ――……あの光景。
 真実かどうか迷って、心底悩んだ。
 ……だけど、そのあとに取った行動が馬鹿だった。
 ありえないのに。
 あれは夢で、実際の彼女はそんなことないって誰よりも自分が1番わかってるはずなのに。
 なのに俺は、彼女に対して……彼女を試すようなことをした。
 これは、ある種の裏切りと言われても違いない。
 ……裏切り、だよな。きっと。
 あんな夢を見て不安になって、これまでの彼女の真偽を見極めようとしたんだから。
 馬鹿にもほどがある。
 絶対に違うってわかっていたのに。
 そんなことしなくたって、彼女は彼女でしかないのに。
「……先生……」
 ――……しかも、どうだ?
 挙句の果てにはこのザマだ。
 1番傷ついてほしくない人を傷つけて、不安にさせて。
 ……エゴもいいとこ。
 最悪だ。
「……ごめん」
 まっすぐに彼女を見れず、そのまま抱きしめる。
 華奢な身体も、しっかりと伝わってくる温もりも、やっぱり何ひとつ変わるはずはなくて。
 …………あんなことした自分が、心底情けなくなった。
「……どうしても、俺を欲しがってもらいたかったんだ」
「え……?」
「馬鹿だろ? 考えが」
 はぁ、と大きなため息をついてから彼女の頬を撫でると、緩く首を振って、いつものように笑みを見せてくれた。
 ……それで、心底穏やかになる。
 これまでずっと何かを恐れていた自分が、丸ごと救われた感じだ。
「…………」
 ふ、と彼女を見つめると、1度唇を閉じてからもの言いたげに薄っすらと開いた。
 ……相変わらず、キスしたくなるような唇で。
 だからこそ――……ねだってほしかった。
 彼女から、彼女の言葉で……俺を。
「……今みたいに、『キスして』って言ってほしかった」
 きゅ、と彼女の手がシャツを握った。
 わずかに揺れる、彼女の濡れた瞳。
 ……だけど、だからこそ逸らすことなんてできない。
 今日1日、どれだけこの瞳で迷ったことか。
 彼女からねだってもらうよりも先に、自分から拝み倒して許してもらおうかと。

「……キスしていい?」

 揺れる彼女の瞳を見つめたまま顔を近づけ、唇が触れるか触れないかの距離で囁く。
 吐息だって、当然かかる距離。
 だからこそ、彼女がわずかにでも動けばその振動だって伝わる。
 ……鼓動の音も、すべてが。
「…………して……」
「っ……」
 微かな空気の振動とともに、小さな彼女の了承が耳に届いた。
 わずかにうなずいて一層潤ませた瞳も。
 若干紅潮した頬も。
 ……今日1日、どれもこれも全部ずっと待っていたんだ。
 彼女の返事を得た以上、もう――……待つだけの理由はない。
「……よかった」
 口づけを落とすその瞬間に漏れた笑みは、安堵からか普段の俺らしくないモノだったと思う。


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