「つぉりゃぁーー!」
「なんのぉ!」
ガコガコという激しいラケットの音が、館内に響く。
真剣な表情のふたりに、始めはどんちゃん騒ぎよろしく応援合戦を繰り広げていた両組の生徒も、いつしか大人しくなってしまった。
どちらも負けてほしくないという顔で、ぐっと拳を握り締めての観戦。
あまりうるさくないほうがいい。
担任ふたりにそんな顔をされたからか、応援は次第に小さくなった。
「きぇーっ!」
「っくぅ……!!」
日永が鋭くスマッシュを返すと、逆だと読んでいた伊藤は悔しそうにラケットを握り締める。
「20−19」
「っさぁ!」
まるで某卓球少女のように日永がガッツポーズを作ると、それを見て2組の生徒が嬉しそうに声をあげた。
「ま……まだまだ! あと1点あるでしょう!」
「そうですけれどね。ふふふ……負けるわけにはいかないんですよ!」
悔しそうに呟く伊藤にびしっとラケットを向け、再び構える。
そして、オレンジの丸い球を握り締めると、カットサーブで伊藤に向かった。
「体育教師としてっ、負けるわけにはっ!」
「私だって、古典教師としてのっ、プライドがあるんですよっ!」
どちらもまるで教師生命を賭けての試合をしているかのように、気合がこもっている。
そんな様子を、思わず祐恭と純也は並んで見守るしかできなかった。
「……なんか、すごいな」
「ですね。……っつーか、どっちもなんか……怖い……」
ぼそぼそと話しながら壁にもたれながらも、真剣なふたりからは決して目が離せない。
お互いに鋭いスマッシュを決めているものの、すんでで打ち返す。
そして、また鋭くカットが入ったりして……という試合展開が、先ほどから延々と繰り返されており、一瞬たりとも気がぬけそうになかった。
時計を見ると、16時を少し回ったところで。
現在、伊藤と日永のどちらも1ポイントを取ってのラストゲーム。
若干日永が押してはいるものの、どちらも譲ろうとしない試合展開になっている。
……焼肉って、今日これから食い行くとかじゃないよな。
ふたりの気迫をよそに祐恭がそんなことを考えていると、日永の痛切な声が響き渡った。
「……悔しいっ……!」
「ほほほほほほ! 追いつきましたよ。これでデュースですね」
「ま……まだまだっ!」
悔しそうに日永が奥歯を噛み締めると、さも嬉しそうに伊藤が声をあげた。
ここからは、2点連続で取らないと、いつまでもこのデュースは終わることはない。
いわゆる、終わりのない延長戦に突入してしまったのだ。
「っ……先生、勝って!!」
「がんばれぇ!」
「京子ー!!」
弾かれるように絵里が声をあげると、2組の生徒があとに続いた。
それを見て日永が眉を寄せ、うんうんと何度もうなずいてから大きくガッツポーズを見せる。
「大丈夫よ! あんたたちはまとめて、私が安食亭に連れてってあげる!!」
びしっと焼肉屋の名前を告げ、再び伊藤に向き直った彼女。
どうしてそこまで焼肉屋にこだわるのかはわからないが、恐らく彼女自身が食べたいのだろう……と、祐恭は推測する。
「いきますわよっ!」
「くっ……いつでもきなさい!!」
サーブ権は伊藤へ。
彼女のカットサーブは日永よりも強力で、ぐんっと曲がりを見せるために日永としてはなんとか避けたかったのだが……。
「いつでもどうぞ!!」
「そうさせてもらいますわ……ねっ!!」
腰を落としてラケットを構えると、伊藤が構えて――……サーブが放たれた。
「っくぅ!」
翻弄される前に日永がサーブを返し、伊藤もそれに応える。
さすがにここからはお互い厳しい戦いになることがわかっているらしく、表情は先ほどまでよりずっと引き締まっていた。
ガコガコと目の前で繰り広げられる、激しい攻防戦。
――……だが、幕切れは意外すぎるかたちであっさり訪れた。
伊藤が放った鋭いスマッシュを、日永がテーブルから身を引いてラケットを構え――……。
「! アウ――」
コキッ
「先生!?」
「日永先生ー!!」
アウトだと誰もが思った瞬間。
無情にも、ボールはテーブルのエッジに当たり、そのまま日永の顔面へと方向を変えた。
当然、避けきれずにモロ顔面で受けた日永はそのまま崩れこみ、慌てて生徒たち及び周りにいた教師が駆けつける。
「日永先生! 大丈夫で――」
ごてっ
「わぁ!? い、伊藤先生!」
「誰か、保健室に!!」
慌てふためいた伊藤が、日永に走りよろうとしたとき。
足元に転がってきたボールに乗ってしまった彼女は、派手に床へと突っ伏してしまった。
いきなりの出来事に、全員がパニック状態。
怒声と叫び声が響く館内が静寂を取り戻すのは、それからしばらく経ってからのことだった。
結局。
首位はどうなったのかというと……。
「……やっぱり、こうなるのよね」
「でもまぁ、いいんじゃない? ほら、貰えたんだし」
同じビニール袋を手にしながら帰り支度を整え、おもむろに椅子から立ち上がる。
その袋には、くっきりと某チェーンの弁当屋の文字。
焼肉がこれになってしまったのは仕方ないが、一応5組とのW優勝ということになったので、図書券も配られた。
伊藤と日永のふたりは保健室で手当てを受けたが、幸いにも……というか、もちろん怪我らしい怪我はなく。
今では手に手を取り、職員室で互いの勇姿を称え合っているほど落ち着いたらしい。
「……はー……。あ」
ぶんぶんと弁当の入った袋を振り回す絵里とともに教員用駐車場へ向かうと、いかにも疲れ果てた姿でふたりが立っていた。
「……どこのジジイよ」
「…………うるさい」
車のボンネットへもたれるようにしていた純也に瞳を細めるが、珍しく語気がさほど荒くなかった。
絵里に減らず口を叩くほどの元気も残ってないらしい。
「じゃあ、またね」
「うん。……でも焼肉食べ放題が、焼肉弁当ってどーなの」
「まあまあ」
そもそも食べ放題ではなかった気がするのだが、そこはつっこまないでおく。
相変わらず渋い顔を見せる絵里に苦笑を見せると、襟裳また諦めたように小さく笑った。
かったるそうに純也が乗り込むのを見てから、羽織も祐恭の助手席へと乗り込――……んだのだが。
「先生?」
「……ん?」
声をかけると、いかにも『寝てました』という瞳でこちらを向いた。
まだコンタクトでいるらしく眼鏡をしていないせいか、随分と幼いような印象を受ける。
「大丈夫ですか?」
「ダメ。寝そう。……つーか、肩が痛い」
軽く右肩を揉んでからエンジンをかけ、大きくため息をついてからアクセルを踏み込む。
いつもは楽しそうに運転するのだが、今日ばかりはシートにもたれたままでだるそうにハンドルを握っていた。
心なしか、少し機嫌が悪い…そんな雰囲気もあった。
珍しくほとんど何も話さずにマンションの駐車場へ降りると、スポーツバッグを掴んで少し乱暴にドアを閉める。
そんな彼の顔を覗きこむように隣に並んだ途端、彼の腕が絡んできた。
「っ! せ、んせっ……」
「……疲れた」
ぼそっと一言それだけ呟き、こちらにもたれるようにしながら自宅へと向かう。
途中で管理人の山寺に会ったが、いつもは差し障りない程度の話をしてくる彼も今日ばかりは祐恭の様子に苦笑を浮かべる程度にしてくれた。
軽く頭を下げてその場をあとにし、なだれこむようにエレベーターへ乗り込む。
「……先生?」
エレベーターのドアが閉まると同時に、祐恭がぎゅっと羽織を抱きしめた。
……いつもと違う彼。
機嫌が悪いのか、お腹が空いているのか、疲れているのか。
ほかの理由があるのかもしれないが、羽織の問いかけに答えず瞳を閉じている横顔を眺めながら、うっかり頬が緩んだ。
こんなところ、ほかの誰もきっと知らない。
言いようのない優越感に浸りながらエレベーターを降りて、長い廊下を進む。
だが、玄関にたどり着いたにも関わらず、彼は一向に腕を緩めてくれそうになかった。
「……もぉ……」
眉を寄せて祐恭を引きずるようにドアの前へ向かい、鍵を開ける。
そのとき、一応ドアに手をかけてくれたから、まだ意識はあるらしいとわかった。
まぁもっとも、わかったところでどうしようもないことに変わりはないようだが。
「……先生、重いです」
「…………疲れた」
「もぅ。それしか言ってないじゃないですか」
「……それしか出てこないんだよ」
いつもと声のトーンが違うあたり、どうやら本音らしい。
そういえば、寝起きの彼もこんなふうに声が低かった。
きっと、疲労と空腹のピークで機嫌もよくないのだろう。
ずるずると祐恭にもたれられたまま羽織がリビングのソファに向かうと、やっとのことで彼が離れた。
――……が。
「っわ!」
後ろ向きのまま手を引っ張られ、彼の足の間へ座らされた。
もがこうとするものの、結局抱きしめるように両肩へ腕を置かれ、身動きが取れなくなる。
軽い軟禁だと思うのだが、口にするとよからぬ方向にコトが進みそうだからこそ、何も言わないで置く。
「……せんせぇ……」
「……ここにいて」
「だって……」
「……眠い」
「うぅ。私は眠くないのに」
「いいから。……ここにいてよ」
「っ……」
「……ね……?」
「ん……、や、くすぐった……」
一際強く力が入ったかと思うと、耳元で囁くように懇願された。
いつもとはまるで違う声音に、心の奥がじんわりと震える。
……ずるいなぁ、もう。
「……もぉ……」
こうされてしまうと、何も言うことなんてできない。
……しょうがないなぁ。
小さくため息をついた彼女にはもう、為されるままになるほかなかった。
「…………ん」
――……どれ位、時間が経っただろうか。
祐恭にもたれたまま瞳を開けると、すでに部屋の中は暗くなっていた。
窓を開けずにいたお陰でさほど寒くはなっていないが、やはり若干足元が冷える。
何よりも、まだ制服のまま。
祐恭にくっついている部分は温かいのだが、さすがに足は寒いわけで。
「……うー」
ぼんやりと見える目であたりを探ると、黒い塊がすぐそこに落ちていた。
手を伸ばすと、柔らかい布の感触。
どうやら、彼が放ったままだったジャージの上着らしい。
「……わ」
広げてみると、やたら大きかった。
自分の着る物とは随分違う……などと思いながら足元に掛けると、すぐに暖さを感じた。
身体の向きを変えると、目に入るのはソファにもたれたまま穏やかな寝息を立てる彼。
そんな彼と同じ匂いのするジャージもそうだが、やはり――……詰襟は嬉しかった。
中学という、自分が知らなかったときの彼。
そのときの話を聞けたこともあって、ついつい顔が緩む。
「…………」
すっかり力の抜けた彼の腕をそっとソファに下ろしてから、改めて手を伸ばす。
両脇に軽く触れるように背中へ手を回すと、やっぱり暖かくて……つい口元が緩んだ。
……大好きな人。
こうして誰のことを気にすることなく彼に触れられる時間は、幸せだった。
それでも、いつもは恥ずかしいという気持ちからか、つい戸惑う。
本当はもっと触れていたいのに。
本当はもっとそばにいたいのに。
本当はもっと――……甘えたいのに。
でも、甘えるってどうしたらいいんだろう。
ねだるのとは違う。求めるのとも違う。
『甘えていいよ』って言われるけれど、どうしていいか明確な答えがわからないから、実は『しない』んじゃなくて『できない』だったりするのだが、そのことを彼に言ったことはない。
こうして触れていることを祐恭が何も言わず許してくれるのは、どうしても眠っている間だけ。
勿論、普段とて何も言わずに許してくれるのはわかっているが、あとからいろいろと言われるわけで。
それは嬉しいのだが、少し恥ずかしい。
だから、こっそりと彼にべったり触れていたい。
……ああ、そうか。
こうして内緒でべたべたしている時間が、もしかしたら『甘える』なのかもしれない。
「……はぁ」
瞳を閉じ、彼に身体を預ける。
すると、耳に響く鼓動が心地良くて、そのままの格好で再びまどろんでしまった。
「…………」
――……しばらくしてから目を覚ましたのは、祐恭。
だが、こんなことを羽織が考えながら今の姿勢を取っているなど知る由もなく、うっすらと瞳を開けてぼんやりする頭を軽く振る程度でしかなかった。
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