「……せんせぇ……」
「ん? ……へぇ。これはこれは、なかなか様になってるよ?」
「……うぅ……」
出入り口から、心底困った顔を覗かせている彼女。
その表情もさることながら、現在はやはり――……何よりもその格好に瞳が細まった。
……ありがたいと言うか、感謝すべきと言うか。
ウチが弓の家柄であることを、このとき改めて幸いだと思った。
彼女が身にまとっているのは、弓道の試合などでよく目にする、弓道衣。
ここ平塚にある我が家の隣――……というかほぼ同じ敷地内というかには、小さいながらもしっかりとした造りの弓道場がある。
それは昔からあるもので、ここ何年かでできたような代物じゃない。
家紋にも弓をしつらえていることから、代々弓関係の家系であることはそうなのだが、祖父の突発的サービス精神が高じて、こんな建物を作ったといっても過言じゃない……かもしれない。
だが、その関係でときどき近所の人間に弓道を教える機会を設けてはいるので、まぁ、役には立ってはいるらしいが。
かくいう俺も、“教士”という位を授かって以来、ことあるごとにそれを引き合いに出されて、当然のように何度もここまで教えにこさせられた。
……だからこそ。
どうしても、1度彼女を連れてきたかった。
そう思っていたところに、今朝方彼女の父である先生から聞いた――……とびっきり情報。
それを得たというのに、どうして役に立たせない理由がある?
愚問だ。まさに。
「どうして弓道やってたこと俺に黙ってた?」
「……ぅ。……べ、別に……黙ってたわけじゃ……」
「ふぅん」
「……気のないお返事ですね」
「そりゃあね」
恐る恐る道場へと姿を現した彼女を見つめながら瞳を細めると、ひどく居心地悪そうに両腕を抱いた。
「…………」
「…………」
「…………」
「……先生……」
「何?」
「……見すぎですよぉ……」
「…………ごめん」
なんて、口ではしっかり謝ってるのだが、所詮は口。
……ごめん。
困ったように頬を染めて俯いた彼女を見ながら、ちゃんと……今度はしっかりと心の中で謝る。
でも、誰だってこうなると思うぞ?
自分の彼女がありえないと思っていた格好をしてるんだから。
「……でも」
「ん?」
「どうして、先生は袴じゃないんですか?」
「……見てたろ? 家で着替えたところ」
「それはそうですけど! でもっ……だって、こんなところに来るなんて聞いてなかったから……」
「言ってなかったからね」
「……もぅ……」
はぁ、とため息をついた彼女に苦笑すると、『なんか、ずるい』なんて言いながら俺を見つめた。
彼女が言うように、今の俺は普通の私服。
……ていうか、あんな紋付袴をどうして今日1日着てなければいけない?
午前中は確かに用事があって着てたけど……何も、彼女がこんな格好だからって、俺までそうじゃなくてもいいだろう。
……しかし。
弓道衣、ね。
これでも様々な大会などへ顔を出す機会はあったから、それなりに見てはいる。
言うまでもなく、男女ともに。
――……でも。
今、弓道衣を着て目の前に立っている彼女は……正真正銘『俺の』彼女なワケで。
当然、思い入れは特別。
……そして、見た目以上にこう……なんというか……。
「っ……先生っ……!」
「ん?」
「ち……近い、です……」
「……あー」
両手を胸の前で合わせている彼女が、なぜか自分のすぐ前にいて。
……前というより、腕の中というか……。
…………。
「っ……!」
「……なんかこう……惹きつけられるというか……」
「やっ、せ、せんせっ……!?」
「……はー……いい具合に色香漂う……」
「やぁっ……! 先生ってば!!」
こうしてまた、べたーっと身体を預ける格好になる。
……ヤバい。
ていうか、やっぱりこんな場所に連れてくるんじゃなかったかもしれない。
頭ではわかっていても、こう……いざ実際に目の前でコレを着られてしまうと……。
「……帰るか」
「えぇ!? ……なっ……まだ、何もしてないのに……」
「いや、十分。この格好見れただけで、収穫はかなり……」
「……もぉ……」
ぎゅっと肩を抱きしめるようにすると、腕の中でもぞもぞ動いた彼女がこちらを見上げた。
……あー。
その仕草とか、非常にヤバいんですけれど。
なんて思って見つめるものの、彼女がわかってくれるはずはない。
……まぁいい。
せっかくここまで来てこんな格好までさせたんだし、射てもらおうか。
最初からそのつもりではあったんだが、なんというか……見事に当初の目的を忘れかけたな。
恐るべし、羽織マジック。
違うとかいう突っ込みは、なしの方向で。
「……それじゃ」
「え?」
惜しいことは当然惜しいのだが、まぁ、いつまでもこんなことをしている暇はない。
……というわけで。
渋々彼女を解放しながら目の前に立つと、不思議そうにまばたきを見せた。
……あー。その仕草もかわい――……じゃなくて。
「…………」
「? なんですか?」
「……いや。なんでもないです」
気合を入れ直そうというときに、そうやって首を傾げて見せたりするのは反則じゃなかろうか。
……なんて、彼女に言っても理解してはいただけないだろうが。
「冬瀬女子高等学校、瀬那弐段」
「っ……」
「前へ」
腕を組んで彼女の少し後ろに立ち、にっこりと笑みを見せてやる。
だが、彼女はまるで『いじわる』とでも言わんばかりの表情を浮かべてから、両手を合わせたまままっすぐ下ろした。
「…………はい」
「もっとはっきりとした、いい返事」
「……はいっ」
「ま、いいだろ」
一瞬『ぅ』とか小さな呻きが聞こえた気がしないでもないが、あえて気にしないでおく。
「…………」
「…………」
「……え?」
「え、じゃない。……本当にそれで昇段試験やったのか?」
「やりましたよっ! こ、これでも……一応……」
何も言わずに見つめていたら、まじまじと俺を見つめたまま動こうとしなかった。
そんなふうに一生懸命否定されても、微妙に……信じがたいのはなぜだろう。
……弐段、本当に持ってるのか?
それとも、これまでのブランクがそうさせているのか。
って、ブランクってほどブランクでもないような気がしない……でもないが……。
まぁ、3月からこれまでの間は、いろいろあったからな。
――……当然、『俺と』だけど。
「……先生?」
「ん?」
「なんでそんな……嬉しそうなんですか……?」
「え? ………いや、気のせいだろ」
「……そうかなぁ……」
「そうだよ。……ったく。俺のことはいいから、自分のことは?」
「……だって」
「だってじゃない。……ほら。ちゃんと腕前見せて」
「……うぅ……」
どうやら考えていたことが顔に出ていたらしく、すぐに眉を寄せた彼女に指摘された。
……そんなにいろいろは考えてないんだけどな。
まぁ、いいとしよう。
「それじゃ瀬那弐段。……射形披露を」
「……はい」
腕を組んだまま彼女にうなずき、促す。
………。
……って、ちょっと待った。
「……え?」
「矢。渡してなかった」
「……ある……んですか?」
「当然だろ? 羽織ちゃんのヤツ、預かってきたよ」
何か足りないと思ったら、『何か』じゃないだろ。
肝心要の、矢がない。
弓道では、人それぞれによって“矢”の長さが違ってくる。
だから、これだけは人の物を借りるということは滅多にない。
かくいう俺自身も、たまたま彼女の父である瀬那先生からそれを借りられたからいいようなものの、手に入らなかったらこんな場所に連れてくることはなかった。
それほど大切な物で、絶対になくてはならない物。
だから、長さの合っていない矢を射るなんて、まずありえないことだ。
危ないというのも、当然理由のひとつではある。
「はい」
「……ありがとうございます……」
「いいえ」
矢筒から取り出した、彼女の4本の矢。
それを渡してやると、手のひらを上に向けて受け取った。
……これで、準備は万端。
すべては揃った。
ということは、あとはもう――……彼女が射るのを待つだけで。
「いつでもどうぞ?」
「……はい」
先ほどと同じ位置に戻って彼女を見ると、渋々といった顔を見せてから矢をいったんすべて床に置いた。
……それが、始まり。
これから彼女が魅せてくれるであろう、演舞すべての。
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