「弓の重さ、それでいい?」
「……あ。平気です」
「そう? ならいいけど」
集中し始めたところで声をかけるのはどうしようかと悩んだのだが、これもやはり大切なことなのでつい口に出た。
『弓の重さ』と言っても、別に重量の話をしているわけじゃない。
これは、弓に張られている弦の強さを示す言葉だ。
下はおよそ8キロから、上は20キロを越えるものまでと、幅広くある弓。
俺は大抵20キロ前後を引くようになってはいたが、それでも俺よりずっと重い弓を引く人間は当然いる。
彼女に聞いてみたところ、3月までは11キロのものを引いていたとか。
それはそれでまぁ、妥当ではないかと思う。
……が。
なんせ、10ヶ月という大きなブランクがある彼女のこと。
はいそうですか、とばかりに現役と同じ11キロの弓を渡すことはできない。
――……そう思って、事前に彼女には弓を引かせてみた……のだが。
当然俺が普段使ってる弓は、引くことはできなかった。
まぁ、それはそうだろう。
彼女の引ける弓の倍以上の強さなんだから。
……だが。
10キロの物を渡して引かせたところ、彼女は俺に自分から『11キロがいい』と言ってきたワケで。
「……ホントに、平気?」
「ん。大丈夫です」
「……わかった」
腕を組んだまま彼女にもう1度訊ねると、笑みを見せてうなずいた。
……それなら、いい。
彼女が引くと言うのだから、引けるんだろう。
…………。
……当然、心配ではある。
だが、彼女を信じていないわけじゃない。
…………だからそれ以上は何も言うことはしなかった。
「…………」
深く深呼吸をした彼女が、拾った矢を1本手に挟んだ。
通常、弓道の試合などではこうして1本を握ったまま弓をつがえて射る形を取る。
練習のときとかは、当然1本だけ持って射るんだけど。
……でも、この形を見ているとまさに“弓道”という感じがして。
弓道衣に着替えて足袋も履くというきちんとした正装をし、普段下ろしている髪を縛っている彼女。
だからこそ、なんともいえない雰囲気が漂っている。
「…………」
矢をつがえ、正面に顔だけを向けて的をまっすぐに見つめる。
……へぇ。
その横顔からは、普段の彼女の甘い感じがほとんど感じられなかった。
……そういう顔もするのか。
そう思えるほどの、凛とした表情。
真剣そのものの彼女は、素直に“きれい”だと思った。
……俺の我侭で連れてきたんだが――……惚れ直しそうだ。
あまりにも予想を上回る彼女の雰囲気に、たまらず笑みが漏れた。
「…………」
こちらを見ることはなく、彼女の視線の先には遠くはなれた的。
……打起こし。
これがいわゆる、弦を引く状態。
矢を平行に保ったままで頭の少し上あたりにまで上げ、高い位置から引いて――……最終的には、矢の高さが肩とほぼ同じくらいになる。
この状態が、引分け。
――……そして。
まっすぐに的を見つめたままで、この状態を保つ姿勢。
それが“会”という、状態。
最近テレビでもよく見かけるようになったが、“満を持す”という言葉はこれが語源。
この“会”の状態から自然に矢が離れて的に向かうのが、もっとも理想的で。
十分にときが満ちて自然にそうなることが“満を持す”の意味になった。
……のだが……。
「…………」
「…………」
今、目の前にいる彼女。
……はもちろん“会”の状態を保っていて、きれいな形だからこそ申し分ない。
――……が。
「……っ……」
乱れ。
それが、遠目でもしっかりと見て取れた。
……やっぱり。
彼女を見つめたまま、自然と瞳が細くなる。
強要なんてしなかった。
何度も確かめた。
……それで、これ?
どうして。
なぜ?
…………なんで言わないんだ。
彼女を見つめたまま、そんななんともいえない気持ちが湧き始めていた、とき。
「ッ……!」
まるで、『あっ』とでも言わんばかりの表情の彼女が、手を離した。
――……そう。
今のは完璧に、“離した”格好。
お世辞にも、“自然に矢が離れた”とは言いがたい。
カシャーン……という痛々しい音だけが、無残にも場内に響き渡った。
「…………」
「…………」
訪れるのは、静寂だけ。
俺はもちろん、彼女自身も言葉は発しなかった。
……まぁ、当然だろう。
本来、見つめている的へ向かっていくはずの矢が、地に落ちて滑って行ったのだから。
……滑走、ね。
まさかそんなモノを見せられるとは思わなかっただけに、つい、ため息が漏れた。
「っ……あ、ごっ……ごめんなさい……! 私……っ……」
「いいよ、もう」
「……先生……」
「ダメだ」
「っ……!」
「着替えておいで。……もういい。わかったから、帰ろう」
驚いた顔の彼女とは対照的な表情だっただろう。
……わかってたこと、だからかもな。
最初の時点で止めておけば、俺だって彼女だってこんな思いをしなくて済んだはず。
でも、それは俺の“押し付け”でしかない。
そんなことをして何になる?
――……だが今思えば、そうしていたほうがよかったのかもしれない。
「せ……んせっ……! ごめんなさいっ……! あの、私……っ……こんなはずじゃ……」
俯いたまま弓を握る彼女に近づき、その弓を掴んで――……取り上げる。
弾かれたように彼女が俺を見上げたが、俺自身は何も言ってやることはなかった。
「どうして無理をした」
「……っ……無理、なんかじゃ……」
「聞いたよな? この弓でいいのか、って。……あのとき、なんて言った? 『大丈夫』だって言ったんじゃないのか?」
「……それは……」
静かな声、だとは思う。
だが、目の前にいる彼女は俯いてしまったまま、いつもよりもずっと小さく見えた。
……怒るつもりはなかった。
こんなふうに、彼女を責めることなんて考えてもなかった。
――……だが。
仮にも弓道経験者ならば、あるまじき行為ともいえよう。
『自分の力量以上の弓を引くこと』
それがどれだけ危ないことかは、彼女だって知らないはずないんだから。
「……滑走で済んで、よかったな」
「…………」
地に落ちたままの矢を見つめ、ぽつりと言葉が漏れた。
……無理して強い弓を引いて、もしもどこか違う方向へ飛んで行ったら。
ただでさえ制御できないんだから、予想もしないような場所へ突き刺さっただろう。
「……っ……!」
「こことか、こことか。……擦ってたらどうした?」
「……せ……んせ……」
ぐいっと頬を手のひらで包んでから顔を上げさせ、同時に腕の内側にも触れる。
……ここ。
この2箇所と女性ならば、胸。
そこは大抵、弦で怪我をする場所。
……今みたいに無理をして弓を引いたり、きちんと射法ができてなかったりするときは、誰でもありうる怪我だ。
「……危ないって知ってるよな?」
「…………それは……っ……」
「人を殺せる道具だってことも、自分はもちろん、周りにいる人間だって一歩間違えれば怪我をするってことも知ってるよな?」
まっすぐに瞳を見つめたまま呟いてから、ゆっくりと手のひらを離す。
……目に入ったんだ。
彼女の瞳が、じわりと涙で潤むのが。
「……ごめ……なさい……」
「……俺に謝ることじゃないだろ?」
「ごめ……なさ……っ……」
別に、責めるつもりで言ったわけじゃない。
……ただ、少しだけ悔しかったというのもあった。
俺だって弓道をやっている人間だから、気持ちはわかる。
少しでも強い弓を引きたいとか、少しでもいいところを見せたいとか。
……だけど、相手は俺なんだ。
少なくとも、彼女が本音をぶつけられる“彼氏”という立場にいる、俺。
なのに、彼女は言わなかった。
『弓が引けない』ということを隠してまで、無理をして引いた。
…………なんで言わなかったんだよ。
別に、弓が引けなかったからどうこうしようとか、考えてすらいない。
だったらもっと弦の弱い弓を渡せば、それで済むことなのに。
「……怪我をしたら、どうするんだ」
「……」
「俺が心配したのは、それだけだよ」
改めて息をついてから静かに呟き、彼女の頭を撫でる。
……だが、何も言わずにうなずくだけで――……彼女は言葉を続けなかった。
「着替えておいで」
「…………ん……」
背中を叩いてやってから促すと、小さくうなずいて更衣室へ身体を向けた。
……そのとき目に入る、わずかに震える肩。
それがあまりにも痛々しくて、眉を寄せたまま視線が逸れる。
「……何してんだよ……」
心底、自分の不甲斐なさが悔しい。
……もっと、言い方があっただろ?
別に、彼女を責めるつもりもなかったし、ましてや………泣かせるつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。
「…………」
最低。
きっと、彼女にとって俺は最低の彼氏でしかなかったろう。
なんの気持ちも汲んでやれてない、ただの冷たい……ヤツ。
「……はぁ」
微かに嗚咽が聞こえているような気がして、たまらず大きくため息が漏れる。
……最悪。
こんなことになるなら、変な気を起こさなければよかった。
ただただ、彼女の姿を見たかっただけなのに。
もっと……いい時間を過ごせると思ったから、ここに連れてきたのに。
…………俺のせいだ。
彼女が今泣いているのも、こんなに後味の悪いものになってしまったのも。
……何してんだよ。
やるせない気持ちがモヤモヤと漂っていて、何もしてやれない自分が情けなくなった。
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