『忍野村』
 と、スマフォで打って彼女に差し出す。
「…………しの、の……?」
「はい、ざーんねーん」
「わぁっ!?」
 間違った拍子にぐっとアクセルを踏みこむと、加速に耐えられなかったらしい彼女がシートへもたれた。
「……っと」
 途端、少し先の信号が変わったのでゆっくり減速すると、彼女がスマフォを差し出してこちらを睨む。
「いきなり何するんですかっ!」
「羽織ちゃんが読めないからだろ? これから行く先のことくらい、きちんと把握しておくように」
 ハンドルを握ったまま彼女を見ると、眉を寄せて再びスマフォと睨めっこを始めた。
 さて。
 冬瀬女子高等学校の化学部の面々は、この週末に山梨県の忍野村へ合宿という名目で小旅行にやってきた。
 まぁ、旅行とはいえ一応は高校化学グランプリの二次問題を解くという名目ではあるのだが。
 今回は、うちの学校から絵里ちゃんが一次選考を突破して二次を受ける予定でいた。
 うまくいけば、最終的にはドイツで行われる国際化学オリンピックの日本代表として行くことになる。
 ……懐かしいもんだ。
 ちょうど、俺が高校3年のときに第1回が行われ、うまい具合にタダで連れて行ってもらった記憶があった。
 ドイツビール、うまかったな。
 父への土産と称して買い込み、家族で飲んだ覚えが……あるような、ないような。
 ……俺、やっぱ教師に向いてないかも。
 ふとそんなことが浮かぶ。
 ――……さて。
 せっかくの小旅行の朝にも関わらず、なぜ、こうして俺が車を走らせているかというと――……それは、今朝まで遡ることになるわけだ。

 ずいぶん、朝日がまぶしい気がする。
 こんなに、朝から光が入ったか……?
「っ……」
 まぶたをぎゅっと閉じて寝返りを打つと、鼻先に甘い匂いが広がった。
 ……何か、うまそうだな。
 とはいえ、くすぐったくもある。
 うっすらと瞳を開けると、そこには行儀よく眠る彼女の姿があった。
 ……あー、髪の毛か。
 さらりと指通りのいい彼女の髪からそっと顔を離して、ベッドの棚へ置いていた時計を探り当てる。
 今日は、合宿に行かなければならない。
 えーと……集合何時だったかな。
 あー、あれだ。
 多分、9時。
 目をこすってから時計を見ると、まだ7時10分だった。
 ……なんだ。
 つい、いつもの癖で起きてしまったらしい。
 もう少し寝るか。
 欠伸を噛み殺しながら半ばまだ眠っている頭でそんなことを考え、再び瞳を閉じた。
 ――……のだが。
 どれくらい経っただろうか。
 多分、あれからあまり経ってないはず。
 朝から脳にダイレクトに響いてくる電子音を放っている、それに手を伸ばすと、反射で顔がゆがんだ。
 枕元にスマフォを置くもんじゃないな。
 などと考えながら電話に出ると、困ったような純也さんの声が聞こえた。
『あ、祐恭君? 今どこ?』
「……え? 家……ですけど」
『家!? もう、バス出ちゃうよ?』
「…………は?」
 状況が飲み込めない。
 ……あれ?
 集合って7時?
 ゆっくりと上半身を起こすと同時に、彼の声で目が覚めた。
『もう9時回ってるし、これ以上待たせられないから……申し訳ないけど、車できてもらえるかな?』
「…………は……っ!?」
 “9時”の言葉で頭が冴え、慌てて時計を手に取る。
 だが、やはり針は7時10分を示したまま。
 ……おかしい。
 リビングに向かって腕時計を――……。
「うっわ!!?」
 電話を持ったまま叫ぶと、向こうからおかしそうな声が響いてきた。
『まぁ、そういうわけだから。生徒への言いわけは考えておいてあげるよ。じゃあね』
「すみません!! すぐ行きます!」
 慌てて電話を切り、寝室まで駆けて彼女を起こしにいく。
 マズい。
 ある意味、非常事態だ。
「羽織ちゃん、起きて!!」
「……んー……まだ、ねむ……」
 ……くそ。
 かわいいじゃないか。
 ……って、そうじゃなくて!
「ほら、起きて! もう9時回ってるんだってば!!」
「……んー……んんー?」
 うっすらと瞳を開けた彼女に腕時計をずいっと近づけてやると、しばらく経ってから瞳が丸くなった。
「っわ!!? 何? なんで!?」
 慌てて起き上がったせいで、危うくベッドから落ちそうになったところを支えると、それはそれは困ったように……どころか、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめた。
「……どうしよう……」
「…………車でこい、って」
 眉を寄せた彼女に苦笑を浮べると、小さくうなずいてから立ち上がった。
 そう。
 今日に限ってスマフォでアラームを設定せずかつ、目覚まし時計の電池が切れて止まっていたのがすべての発端だった。

 ――……というわけで。
 今、俺たちは車で山梨まで向かっている最中で。
 高速を飛ばしながら、あれこれ考えついたことを口にしながら遊んでもいる。
 ……すみません、純也さん。
 遅れた挙句、ものすごくのんきな対応をしていて。
 手始めに、彼女へ渡したスマフォ。
 これから行く先について散々口で何度も言っていたにも関わらず、漢字に直した途端読めなかった。
 しかし、『しのの』はないだろ、『しのの』は。
 先ほどの彼女の言葉に苦笑しながら、続いての質問。
「さて。アルコールの水溶液は何性でしょう?」
「……はい?」
「だから、アルコールは何性かって聞いてるの」
 車線変更で走行車線へ戻ってから、少しスピードを緩めて彼女に訊ねる。
 わかるよな、これくらい。
 化学教師の彼女だったら、すぱーんと答えてもらいたい。
 むしろ、受験生だしな。
 というより、化学部員だし。
「アルコール……ぅ?」
「悩んでる?」
「っち、違いますよ。考え中」
「……ふぅん」
 ……絶対わかってないな。
 丸わかりの彼女の態度に笑いそうになりながら、CDのボリュームを少し上げる。
 曲名は、これから答えを出そうとしている彼女にぴったりだ。
 ……嘘つき、だもんな。
「えーと、えーと……ぉ」
 おー、悩んでる悩んでる。
 まぁ、選択肢も何も3つしかないんだから、確立としては3分の1なんだけど。
 酸性、中性、アルカリ性。
 さすがに当たるよな、これくらい。
「答え、出た?」
「……えっと、アルカ――ッ!?」
 ウィンカーを出して、すばやく追い越し車線に切り替える。
「せ、先生!」
「いや、ずいぶん早いシルビアがいたから、ちょっと」
「駄目ですってば! 先生が煽ったりしていいの!?」
「煽ってないよ? ……まだ」
「駄目ですっ!」
 ぼそ、と呟いてやると慌てて彼女が首を振った。
 ……ったく。
 せっかく助けてやったのに。
「で? 答えは?」
「だから、アルカリ――」
「つっこんじゃうぞ、アクセルべったり踏んでー」
 曲を口ずさみながらアクセルをぐっと踏み込むと、みるみるうちに前の車との車間距離が縮まっていった。
 それを見て、彼女が声をあげる。
「もーー!! 踏んじゃ駄目!」
「いやー、でもさ。アクセル1度でいいからべったり踏んでみたいじゃない?」
「駄目なのっ! ぶつかっちゃいます!」
「だから、つっこんじゃうぞ、って――」
「先生の声は好きだけどっ、今のは嫌っ!」
 ……それはそれは、ツレないことで。
 しょうがないな。
 車線変更をしてベンツのうしろへつけ、アクセルから足を少し離す。
 途端に、制服のリボンがふわっと揺れた。
 ……この状況。
 ほかの車の連中が見たら、絶対怪しいと思われるよな。
 片や、制服を着ているかわいらしい女子高生。
 片や、意地悪そうな顔してそんな彼女に喋りかけている、男。
 拉致……とか思われてたりして。
 いや、それよりは援助交際だろうな。どう見ても。
 そんな世間の目を振り払うように首を軽く振って、再度彼女に訊ねる。
 ファイナルアンサー? と。
「で?」
「……アルカリ性」
 ……あーあ。
 言っちゃったよこの子は。
 しばらく黙ったままでいると、彼女がそっとこちらをうかがってきた。
「違います……?」
「アルカリ性、ね」
「……じゃあ、酸性?」
「じゃあ?」
 露骨に表情に出してやると、困ったように眉を寄せたのが目の端に見えた。
「え? ……じゃ、じゃあ……えーと。……えぇ?」
「中性だよ、中性!」
「あ、なるほどー」
「なるほど、じゃないだろ! ……ったく。1ペナルティね」
「えぇ!?」
「あー、じゃあアレだ。化学のペナルティを設けようか。10個たまったら罰ゲームね」
「……なっ! ……うぅ、もぅやだぁ……」
「ちゃんと勉強しないから悪いんだろ?」
「だって、アルコールのこと……先生の授業でやってないもん……」
「それでも、化学に変わりないだろ? ……あーあ。がっかり」
 大げさにため息をついてやると、彼女がうつむいた。
 ……俺がいじめたからか?
 いや、ここで甘い顔をするわけにはいかない。
 なんといっても、答えられなかった彼女が悪いんだし。
 だいたい――……。
「じゃあ、先生もペナルティですよ?」
「何?」
「スピード出しすぎで、1個。車煽ったから1個。あとは、えっと……」
「こら。ペナルティは現行犯じゃないと駄目」
「えぇ!? そんなの聞いてないですよ!」
「そういうものなの。……っと。もうすぐ着くよ」
「え?」
 御殿場インターで降りたあとは、国道ですぐ。
 あのきれいな水を見たら、きっと彼女は嬉しそうに笑うだろう。
 などと想像していると、少し嬉しくもあった。
 ……もちろん、例の30秒体験もやらせるつもりだ。
 すっかりペナルティ作成の話を忘れたようなので、内心ほっとしながら一路忍野(おしの)村に向けて車を走らせることにした。


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