「うっ……ん、んんっ……?」
 今はいったい、何時頃だろう。
 ふと、寝苦しさで意識が戻った。
 ……苦しい。
 いつもの朝には、感じられない圧迫感。
 …………え、何?
 も、もしかして金縛りとか……!?
 身体が動かないせいで不安になり、目をぎゅうっと閉じたまま、ばくばくと速まる鼓動を抑えるべく静かに息をする。
 それから、恐る恐る目を開けると……目の前に腕があった。
「っ……!?」
 声をあげそうになった口元をひっしで一文字に結び、腕の先を辿るようにしてゆっくりと視線を移す――……と。
「……もぉ……絵里」
 そう。
 寝相の悪い彼女が、腕を人の上に乗せていたのだ。
 どうりで重いと思った。
 大きくため息をついてから、もぞもぞと身体を動かして腕を外す。
 ゆっくりと彼女を起こしてしまわないようにお布団から出ると、あたりが明るくなり始めていた。
 今って、何時ごろなんだろう。
 そっと近づいて窓から外を見ると、冬瀬とは違った朝の情景があった。
 ……なんか、やっぱりいいかも。
「………?」
 思わず微笑んで眺めていたものの、どこからか小さな音が響いているのに気付いた。
 朝の澄んだ空気によく響く、パーンという何かが当たるような音。
 …………あ。
 何の音なのか、やっとわかった。
 そう。
 自分も覚えのある、的に当たる矢の音だ。
 でも、こんな早くから誰が……?
「…………」
 とはいえ、やっぱり気になるというか……つくづく、自分は弓道風景を見るのが好きで。
 自分にはできないことだからこそ、上手な人のを見てると本当にうっとりするんだもん。
「…………」
 まだ、同室の子が誰も起きていないのを確認してから、そっと部屋を抜け出し、戸を閉めて階段を下りる。
 それから、シンと静まり返った道場への廊下を進んでいくと、徐々に音が大きくなっていった。
「…………」
 昨日きたから覚えている、弓道場。
 その扉にある小さなガラス窓から、中をうかがうように覗き込んでみる……と、案の定ひとりで矢を射ている人がいた。
 ……もしかして、昨日の……えっと、慶介君とかかな?
「――ッ……!!」
 覗きながら、そんなことを思った次の瞬間。
 我が目を疑った。
「せ、んせ……!?」
 慌てて口元を押さえ、そのまま彼の姿を追う。
 呼吸を整えてから矢をかけ、的を見たままゆっくりと弓に宛てがい、息を整える。
 そして、的を見定めたままで弦を引き――……。

 タンッ!

 矢が離れると同時に、音が響いた。
 朝の空気が震えたのも、わかる。
 見定めていた彼が、姿勢を正して息を吐く――……のを見て、自分も息が漏れた。
 ……なんか、こっちまで緊張しちゃう。
「…………」
 スーツじゃなければ、私服でもない。
 でも、ジャージでもなくって……そう。袴姿の、彼。
 今まで見たこともなかったし、想像もしなかった。
 ……そして、あの真剣な眼差し。
「…………カッコいい」
 どうしよう。なんでこんなにカッコいいの? ってくらい、鼓動が速まって落ち着かない。
 だって、全然違うんだもん。
 真剣な顔をしているのは見たことがあるけれど、それとこれとはまるで違う。
 雰囲気がまったく異なるからこそ、独特の張り詰めた緊張感があって、まるで別人に思えた。
 ……先生、弓道やってたんだ。
 魅せられるとはまさにこのこと。
 息を呑むようにしばらく彼を見つめていると、床に置いていた矢をゆっくり拾ってからもう1度一連の動作を続けた。
「…………」
 その姿を、どれくらい見続けただろう。
 今さら出て行くのも気恥ずかしいというか、雰囲気を壊してしまいそうで、考えはしたもののこのままここで見ていることにした。
 ……もう少しだけ、彼の姿を見ていたい。
 あと少し。
 できることなら、彼がここから出るまでは。
「…………」
 いつしか、そんな思いが強くなっていった。

 しばらく経ったころ、彼が背を向けてあちらへ歩いていった。
 ここからでは角度的に見えなくなり、その姿を追おうと身体をずらすものの、やっぱり見つからなくて。
 ……もしかして、矢を取りに行ったのかな。

 ガラ

「わぁっ!?」
「うっわ!?」
 いきなり、なんの前触れもなく引き戸が開いた。
 でも、彼が驚くのも無理はない。
 まさかこの時間、こんな場所に私が――……というか、人がいるとは思っていないだろうから。
 目を丸くした彼に慌てて頭を下げると、怪訝そうに眉を寄せた。
「……何してんの、こんなトコで」
「ご……ごめんなさい」
「あー、びっくりした。……ったく。勘弁してくれよ」
 寿命が縮まったじゃないか、なんて付け足した彼は言葉とは裏腹に、大きなため息をついてから、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
 ……いつもと同じ、先生だ。
 これまで私が見ていた姿は、やっぱり彼に違いなかった。
「で。何してたの?」
「……え、と……見てたんです」
「何を?」
「先生が射るところ」
「なんだ。じゃあ、中入れば良かったのに」
「だって! ……邪魔になりそうだから」
 眉を寄せて彼に呟くと、小さく笑ってからふんわりと抱きしめてくれた。
 いつもと違う、匂い。
 見慣れない弓道衣が目の前に広がって、ちょっぴりどきりとする。
「俺が邪魔なんて思うわけないだろ」
「……うん」
 いつもの服の感触とは違うそれが、なんとなく気恥ずかしかった。
 ……なんか、先生じゃないみたい。
「いつから見てた?」
「えっと、結構前からですよ。12本打ったのは見たんですけれど」
「……そんなに前から? どんどん入ってくればいいのに」
「だってぇ……」
 苦笑を浮かべてから手を引いてくれた彼が、そのまま道場へと連れていってくれた。
 ひんやりした空気と、冷たい床の感触。
 誰もいない場所のせいか、なんだか妙に緊張してしまう。
「いいんですか? 私が入っても……」
「当たり前だろ? 道場なんだから」
 先ほどまで彼が立っていた場所に立つと、的まで結構距離があることがわかった。
 だけど、遠くからでも矢がしっかりと命中している跡が見える。
「先生、弓道やってたんですか?」
「んー……正確には『やってる』かな」
「え? そうなんですか?」
「うん。個人的にだけど」
 ……知らなかった。
 そんな話聞いたことがなかったので、すごく新鮮に感じる。
「一応、高校のときは弓道部だったんだよ?」
「えっ!?」
「だから、瀬那先生によくしごかれた」
 苦笑を浮かべて彼が呟くと、的を眺めていた私をそっと後ろから抱きしめてくれた。
 弓道衣から伝わってくる、彼の温もり。
 少し涼しい朝にはそれがとても心地よくて、自然と笑みが浮かぶ。
「うちのじーちゃんが弓道やってたからさ、小さいころからやってたんだ。一応、俺だって有段者なんだよ?」
「そうなんですか!?」
「うん。大会にもときどき出るし」
「……知らなかった」
「まぁ、言わなかったからね」
 と、このときになってあることを思い出した。
「ん?」
 彼の手を取り、親指の付け根を触れながら見上げる。
 すると、不思議そうに彼もまたそこへ手をやった。
「じゃあ、ここって……」
「ああ、これね。ほら、こうやって構えるだろ? だから、ここの筋肉が鍛えられるっていうのかな」
 ――……そう。
 あれは、夏休みのあの日。
 初めて彼と結ばれた日の翌朝に見つけた、手のひらの硬い部分だ。
 これは、やっぱり筋肉だったんだ。
 まさかこんな場所につくとは思っていなかっただけに不思議だったんだけど、やっと謎が解けた。
「でも、どうしてこんな朝早くに?」
 くるりと首だけで彼を振り返りながら訊ねると、苦笑を浮かべてうなずいた。
「実は今日、例の弓道部の前で射ることになってさ」
「えっ!」
「だから、練習」
 目を見張った私を見て、彼はこれまでの経緯を話してくれた。
 先日の自由時間の間に遠的をしていたところを、木野先生に見られてお願いされたらしい。
 ……恐らく、あの手を握られてたときだろう。
 やっと合点がいった。
 でも――……。
「……手、握られてたんですよね?」
 眉を寄せて呟くと、一瞬目を丸くした彼が小さくため息をついてから髪を撫でてくれた。
「握ってたんじゃなくて、握られてたんだからな? ……それに、羽織ちゃんだってあのとき――」
「……それは私も一緒だもん」
「わかってるよ」
 ふっと瞳を細めた彼が、頬に口づけをくれた。
 涼しい朝に、温もりが広がる。
 ……私だって、一緒なんだから。
 誰よりも、当然だけど先生がいい。
 身体ごと向き直ってからおずおずと彼に腕を回すと、そのまま静かに抱きしめてくれた。


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