「あー、やっぱり涼しいねー」
 せっかくの自由時間。
 ただ、宿に留まっているのはもったいないので、結局私たちは着替えてから外へ散歩に出た。
 冬瀬とは違う、過ごしやすさ。
 空気がさらっとしていて、すごく気持ちいい。
「わ、いい匂いー」
「あら、ホント。おいしそうね」
 今の時期は桃が即売されていて、通りに漂う甘い香りに思わず笑みがこぼれる。
 特にどこへ行くというわけではないものの、こうしていつもと違う場所を歩いているというのは、やっぱりいいもので。
 さっきの――……あの、実験のときに荒木先生から聞いた話がずっと頭から離れなかったからか、余計にさっぱりしたような気がした。
「ん? なになに?」
 しばらく歩くと、やけに人が集まっている場所に出た。
 何本か旗のような物が沿道に立っており、そこには『忍野八海』と記されている。
 おしの、だよね。
 ちゃんとした読み方を先生に教わったから、さすがに覚えた。
 ……でも、その後ろは……はっかい? でいいのかな。
 それとも、別の言い方があるんだろうか。
「こんなところに海があるの?」
「違うでしょ」
「……だよね」
「まったく」
 絵里を見ながら首を傾げると、呆れたようにくすくす笑われてしまった。
 じゃあ、どうして海なんだろう。
 人の流れに沿って同じ方向へ歩いていくと、右手に池が見えてきた。
「っ……すごい……!」
 透き通る、蒼の色が見えた。
 きれいとしか言えない、青い水。
 魚が泳いでいて、深さもかなりあるのに……まったく濁らない透明な青の水をその池はたたえていた。
「すご! うわ、すごい! 何? なんで?」
「すごいねー!! こんなにきれいな水……初めて見た」
 思わず鳥肌が立った。
 こんなにきれいな色の水、日本じゃ見られないと思ってた。
 まるで海外の海の色さながらの景色に感動していると、すぐ隣にもうひとつ別の池があるのがわかる。
「ねぇ、行ってみよ?」
「うんっ!」
 小走りでぐるりと回ってから、お土産屋さんを通って真ん中の丸い池へ。
 そこは――……。
「……っ」
「すご!」
 深さ10数メートルあるだろうか。
 まるで、大きな井戸のような造りの池にもまた、同じように深く澄んだ水が満ちており、1番底まではっきりと見て取れた。
 きらきらと輝くはずの光が、差し込むという表現そのもののように真っ直ぐ伸びている。
 深青。
 底を泳ぐ魚まで、はっきりと見えている。
 ……すごい。
 単純だけどそんな言葉しか出てこない。
「すごい……」
「……すごいわね」
 しばらく、ふたりともここから動けなかった。
 こんなに……水ってきれいなんだ。
 きっと、富士山からの水だよね?
 日本の山と称される、あの、富士の雪解け水。
 なんだか、圧倒される。
「こういうとき、日本人に生まれてよかったって思うね」
「あはは。羽織ってば、ちょっとおばさんクサくない?」
「だってー! すごくきれいなんだもん!」
「まぁ、それはわかるけどねー」
 思いきり絵里に笑われたものの、やっぱりすごいと思う。
 きっと、四季それぞれで違った表情なんだろうな。
 ……あー。
 ここって、すごい。
 最上級の癒しに違いない。
「…………」
 ……先生にも、見せてあげたかったなぁ。
 ふとそんなことを思うも、ふるふると首を振って実現させるべく気合を入れる。
 まだ日にちはある。時間もある。
 だから……できることならば、一緒に来たい。
 ……もちろんその前に、例のあの話の真偽を確かめてみなきゃいけないけれど。
「さーて、そろそろ帰ろっか」
「うんっ」
 のんびりと時間を半ば忘れるほど堪能してから、道沿いにあったお店で巨峰ソフトクリームを買って宿への道を戻り始める。
 道中、溶けてくるそれを舐めながらも、話は自然と荒木先生に聞いたことになっていた。
「でもさ。先生って、そんな人じゃないと思うんだよねー」
「……うん」
「だから、ほらっ! 元気出しなさい!」
「わっ!? う、うんっ」
 背中を叩かれて危うくアイスを落としそうになりながら笑うと、絵里もうなずいてから笑った。
 ……直接本人に聞いたほうがいいんだよね。
 だって、きっと笑いながら『違う』って言ってくれると思うし。
 ……はぁ。
 そうは思うんだけれど、でもやっぱり気が重い。
 だって、先生にどう聞けばいいんだろう。
『学生時代、お金で女の人を――』
「っ……」
 言えない。そんなこと、とてもじゃないけれど。
 ふるふると首を振り、今の考えをなかったことにするべくソフトクリームを舐める。
 ほどなくして、宿が見えてきたころには、絵里も私もアイスを食べ終わっていて、結局部屋に戻ってからは夕食までのんびり過ごしていた。
 夕食の指定をされた時間になったところで部屋から出て、階段を下り始める。
 今日の夕飯はなんだろう? この匂いはなんのおかずだろう? と、絵里と話しながら1段ずつ下り――……ていたものの、ふいに聞こえてきた声で足が止まった。
「お願いできませんか?」
「いや、でも……」
 ……?
 すぐ、そこから聞こえてくる声は、先生に違いない。
 吹き抜けになっているため、下を覗き込むようにすると、困ったように眉を寄せる彼と先ほどの弓道部の顧問の先生が見えた。
「お手本になると思うんです! ですから、ぜひ!」
「……ですが、自分は弓道部の顧問ではないので」
「でも、あの『(かい)』のバランスのよさは、生徒たちにも見習わせるべきだと思うんです」
「……手本にはならないと思いますよ」
「とんでもない!」
 苦笑しながら首を振った彼の手を、いきなりあの先生がしっかりと両手で包み込んだ。
途端、声が出てしまいそうになって慌てて両手で押さえる。
「お願いします!!」
 まじまじと見つめた彼女を見ていた祐恭先生が、しばらくしてから諦めたかのようにため息をついてうなずいた。
「わかりました。それでは……本当に少しでよければ」
「ありがとうございます! では、明日の練習のときに。ぜひお願いしますね」
「はい」
 彼がうなずくと、慌てたように木野先生が手を離して頬を染めた。
 ……なんだろう。
 今、ほんのちょっとだけ自分が嫌な気持ちになった気がする。
「っ……す、みません。私、弓道のことになるとつい……」
「いえ。いいんですよ」
 そんな彼女に小さく笑うと、ほどなくして木野先生は頭を何度か下げてから廊下を進んでいった。
 彼はというと、そんな彼女を見送ってからロビーで誰かと話しているらしく、笑みを浮かべている。
 ……会?
 って……あれだよね。弓道の。
 ……?
 でも、どうして?
「え?」
「ほーら、行くわよ」
「あ、うん」
 ぽんぽん、と絵里に背中を叩かれ、笑みを見せてから改めて階段を下りていく。
 先生が優しいのは、誰に対してもそうだし、いつだってそうなのも知ってる。
 わかってる。
 だけど、やっぱり実際に目にしてしまうと、つい……不安になる。
 相手が自分よりも大人の女の人ならば、余計に。
 …………でも、忘れよう。
 見なかったことにしよう。
 って言ってそうできたら、どれほど楽なんだろうか。
「……ふぅ」
 ぐるぐる渦巻く嫌な感情を少しでも中和させるかのように、重ためのため息が漏れた。

 今夜の夕食はハンバーグと温野菜のプレート。
 いかにも手作りというそれが、おいしかった。
 今夜もプチトマトはやっぱり添えてあったけれど……先生、食べないんだろうなぁ。
 などと彼のことを考えるたび、なんともいえない感情が心に溢れる。
「ごちそうさまでした」
「はーい」
 絵里とともに食器を返してから食堂を出ると、何やらロビーがわいわいと盛り上がってるのに気付いた。
 ……あれって……。
「あっ。紹介するねー。うちの部長と副部長っ」
「……?」
「絵里、羽織っ! 早くー」
 そちらへまだ近づいていないにもかかわらず、椅子に座っている部員の子に手招かれた。
 不思議に思って絵里と顔を合わせていると、同じように何人かの子たちもひょっこりと顔を覗かせる。
「……何?」
 みんな揃って、浮かべているのは満面といってもいいほどの笑顔。
 眉を寄せながら絵里が近づくと、そこには弓道部の男の子たちの姿があった。
 え。な……んでここに?
 あまりにも多くの男の子がいて、思わず足が止まる。
 ……う。
 一斉に見つめられると、ものすごく緊張感があるんだけど。
 普段の生活の中でこんなにたくさんの男の子と直接関わることがないからか、思わず身体に力が入るのもわかった。
「彼女が部長の絵里で、こっちが副部長の羽織」
「こんばんは」
「……あ、こ、こんばんは」
 男の子たちに挨拶をされ、思わず頭を下げる。
 すると、絵里が先ほど声をあげていた子の服を掴んで、こそこそと話し始めた。
「ちょっと、何してんのよ!」
「え? やー、仲良くなろうかなって」
「余計なお世話!」
「……うぅ、だってぇ」
「ねぇ。どうしたの?」
「え? ううん、なんでもないー」
 男の子に声をかけられてその子が振り返ると、今までとはまったく違ってにっこりとした笑みがあった。
 もーー!
 こんなところ、先生に見つかったら……うぅ。
 何よりもそれが1番怖い。
「絵里は今、彼氏いないんだー。でも、羽織は残念ながら彼氏もち」
「あー、そうなんだー」
「えっ!?」
 突然出たとんでもない話に思わず声をあげると、にやりとした顔をした彼女がつんつん、とわき腹をつついた。
「知ってるわよー? 瀬尋先生の弟なんでしょ?」
「っ……!?」
 とんでもなさすぎる情報を持ち出され、びっくりして口をぱくぱくしていると、男の子たちも声をあげた。
 ど……どこからそんな噂が立ち始めたんだろう。
 その……うん、まぁ、『先生の弟』だからいいけど……。
 …………って、もしかしなくてもやっぱり、あのショッピングモールでの件があったせいだよね。
 噂って、ホントに広まるのが早すぎる。
 などとひやひやしていたら、しばらく黙っていた男の子がこちらに視線を向けた。
「瀬尋先生って……顧問の先生?」
「そうそう! あのねー、ほら! あそこにいる、眼鏡かけてる先生」
 食堂から歩いてこようとしている彼を部員の子が指差すと、ふぅんと小さく呟いてから視線をそちらに向けた。
 ……え。
 今、一瞬睨んでた……?
「…………」
 ぱっと振り返ったときにはもうそんな顔じゃなかったけれど、今見せている顔とはまるで違う表情だっただけに、思わず喉が鳴った。
 まさか、ね。
 気のせいだよね。
 などと考えていると、にっこり笑った彼が自己紹介をしてくれた。
「俺は、部長の北原慶介。よろしくね、羽織ちゃん」
「え? あ、よろしく……」
 うなずいて小さく笑みを見せると、そんな様子を見た部員の子が間に割り込んできた。
「もぉー。だからぁ、羽織は彼氏がいるのっ! ねえねえ、それよりもさー。慶介君ってどんな子が好き?」
「え? そうだなぁ……」
「こら」
「っ……」
 そのとき、後ろから声がかかった。
 見るまでもなく、声でわかる。
 ……祐恭先生その人だ。
「こんなところで何を集まってるんだ。早く部屋に戻れ」
「あ」
「ほら。他校の生徒に絡むんじゃない」
「もー。絡んでないってばー」
 先生にしっしと追いやられた子が眉を寄せると、そんな様子を眺めていた慶介君が――……なぜか私を指さした。

「俺、羽織ちゃんみたいな子好きだよ」

「……え……?」
「な……」
 目を見張っている私の手を、彼がぎゅっと握った。
 突然のことすぎていったい何が起きているのかわからなかったけれど、自分の手が確かに握られているのを目にしてすぐ、頬が赤くなる。
 それから慌てて慶介君を見るものの、にっこりと微笑んでいて。
 ……え……。
 えぇっ!?
「ほら、君らも部屋に戻りなさい!」
「はーい」
 ぱっ、と先生が手を振り解かせてくれると、こちらを一瞥してから部屋に戻るように視線を送ってきた。
 ……う。そんな顔しなくてもいいじゃないですか。
 今のは、私だってとても驚いたんだもん。
 それに――……。
「…………」
 さっきは、先生だって手を握られてたのに。
 ……私、知ってるんだから。
 なんともいえない気持ちになって思わず眉を寄せると、祐恭先生と視線が合った。
 わざとそれを避けるようにしてから、絵里の手を引いて階段を駆け上がる。
 何か、声をかけられそうだったからつい……反射的にそうしてしまった。
 ……やだな。
 こんな楽しくない気持ちになるなんて、すごく嫌だ。
 じくじくと自分自身が嫌な子に傾き始めているような気がして、なんだかすごく気が重かった。
「…………」
 ……それにしても、慶介君……だっけ。
 なんであんなことしたんだろう。
 その意味がまったくわからず、ぐるぐると頭の中を『?』が巡る。
 ……はぁ。
 いきなりあんなふうにされたのが初めてだったからか、まだ鼓動が早いままで。
 先生以外の人に手を握られるなんて。
「……ふぅ」
 部屋に戻って畳んであったお布団にもたれると、深い深いため息が漏れた。


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