「よろしくお願いしまーす」
「あー、なんかいいねぇ。女子高生なんて久しぶりに見たよ」
絵里ちゃんが代表で頭を下げると、それに続いてみんなが挨拶をする。
それに対し、どこか嬉しそうな笑みを浮べているのが、この中学校で理科を担当している教師だった。
「器材は準備してあるから、もしほかに使いたい薬品があったら言ってください」
「はぁーい」
彼の話を聞いた生徒たちが、懐かしいーなどと言いながら実験台に集まり始めた。
まぁ、確かに高校と中学では実験の内容とかもちょっと違うしな。
少しだけ、台の高さも低いし。
「お世話になります」
「いえいえ、とんでもない。……いやー、瀬尋君の頼みを断ったりしたら大変なことになりますからね」
「あはは。そんなに昔悪かったんですか?」
「ええ! そりゃあもう!」
「……おい。変なことを言いふらすのは、よせ」
ぐい、と首根っこを掴んでやると、くすくす笑いながら手を挙げた。
お前はいったいいつになったら学生気分が抜けるんだ――……と、少し前まで自分が言われていたセリフを吐いておくのも忘れない。
「ったく。純也さんも純也さんですよ。俺、そんなに悪くなかったですよ?」
「あはは、わかってるよ」
眉を寄せて彼を見ると、ひらひらと手を振ってから呼ばれたテーブルへと歩いていった。
……ったく。
いろんな想像をされるのは、正直困る職業だというのに。
「しっかし、いいよなー。やっぱ女子高生って、違うねぇ」
「そうか?」
「ああ。さすがに中学生には手を出せないっていうか……こー、女子高生見ちゃうと幼いって感じだしなぁ」
「つーか、生徒相手に手を出そうとか考えるなよ」
「わーってるって」
あはは、と笑う彼は、大学時代の友人の荒木真治。
昔からこんな感じで結構軽いノリだったため、彼が中学教師になったときは結構驚いた。
まぁ、実家が山梨ってこともあるし、天職なんじゃないか? 彼にとっては。
意外と真面目にやってるようだしな。
……とはいえ、俺は生徒に手を出した分際だから、深くは言わないけど。
「えーと、荒木先生。ちょっといいですか?」
「うん。なに?」
絵里ちゃんがこちらに歩いてくると、俺ではなく真治を連れ立ってテーブルへ戻っていった。
……アイツ、真面目に教えるだろうな……?
早くも打ち解けたかのように爆笑している姿を見ながら眉が寄り、そんな疑念が晴れはしない……が、教師の端くれとしてちゃんと指導してくれることを祈るしかないけどな。
「あー、これはね。ここにゴム管を繋げて……」
「なるほど。ありがとうございます」
「いいえー」
絵里が呼んできた、荒木先生。
どうして祐恭先生も一緒にいたのに荒木先生を呼んだのかはわからなかったけれど、絵里が訊ねたことに対して彼もまたきちんとした態度で教えてくれた。
さすがに理科の先生だけあって、手際がいい。
などと思っていたら、あたりを見回してから口元に手を当てる。
「……瀬尋先生ってさ、学校でどんな教師?」
「え?」
不意に絵里がこちらを向いた。
……わ……私に振られても、ちょっとだけ困るんだけど。
でも、それはほんの一瞬で、にやっと笑った彼女は笑顔で彼に向き直った。
「普通の先生ですよ。口が悪いときもあるけど、授業面白いし」
「へぇ、そうなんだ。……あいつがねー」
ほかのテーブルで話し込んでいる祐恭先生を見ながら、楽しそうに彼が笑った。
かと思うと、今度はニヤリとしながら小さな声で呟く。
「アイツね、大学時代は相当悪かったんだよー?」
「えぇっ!? そ……そうなんですか?」
「うん。アイツって結構ボンボンなんだよなー。だから、こー、札束チラつかせて女はべらせて……派手にやってたらしいよー?」
「……え……」
「ま、今となっちゃあそんな面影無いけどなー」
「やだー、まっさかー! 祐恭先生は、そんなことするような人じゃないですよ?」
「あはは。ま、その辺は本人に聞いてみてよ」
さらりと落とされた、大きな爆弾。
その後処理もせずに、彼は楽しそうに笑ってからほかのテーブルへと移動していった。
……思わず、背中をまじまじと見てから――……隣のテーブルで笑う祐恭先生へと視線が移る。
「……っと、ちょっと羽織! 聞いてる?」
「……え?」
「んもー、冗談に決まってるじゃない! 冗談よ!! あんなの」
「でも……確かに先生の家は、名家っていうか……」
「だけど、お金で女の人動かすようなタイプじゃないことくらい、羽織が1番よく知ってるでしょ?」
「……そうだけど」
わかってる。
わかってるけれど……でも、なんだか少しだけひっかかった。
彼がそんなことをする人じゃないのは、わかってる。十分過ぎるほどに。
むしろ、そんなことできるような人じゃない。
だけど――……。
「実験進んだ?」
「っ!? ……せんせ……」
「何?」
突然肩を叩かれ、思わず手を払うように身を翻していた。
驚いた彼の顔をまじまじと見つめる自分の顔は、もしかしたらかなり酷いのかもしれない。
以外そうというよりも目を見張るように見られ、いつしか俯いていた。
先生は、そんなことしないですよね? って、聞けばいいのかな。
……だけど、もし彼の表情が少しでも変わったらと思うと、とてもじゃないけれどできるわけがない。
「あー、なんでもないない。ほら、先生呼ばれてるよ?」
「あ? ……あぁ」
絵里が助けに入ってくれたおかげで、彼がほかのテーブルへと移って行った。
その後ろ姿を見ながらも、先ほどの言葉が頭の中に響く。
……彼が笑って『違うよ』と言ってくれる姿が浮かばない自分は、酷い彼女だろう。
…………でもね。
私は、学生時代の彼を何も知らない。
だから私には、根拠がない。
否定したいのに、それをできない無力さに、つい小さく唇を噛んでいた。
「ありがとうございました」
「いいえー。どういたしまして。また寄ってね」
「はぁーい」
真治に挨拶をしてから、約束通り15時で実験を終えて宿に戻ると、ちょうどジャージを着た男子数名とすれ違った。
その方向にあるのは、宿の弓道場。
……なるほど。
大方、これから練習ってわけか。
軽く頭を下げて挨拶され、こちらもそれに習う。
――……が。
同じように会釈したウチの学校の生徒らが振り返ったかと思うと、ものすごい勢いで食いついてきた。
「先生! あの子たちの練習見たい!!」
「何を言い出すんだよ。見なくてもいいだろ? 別に。だいたい、弓道部だったら冬女にもあるじゃないか」
「そうじゃないのっ! やっぱ、男の子との交流も大事だと思うのよねー。だからぁ、邪魔したりしないから、見るだけ見せてほしいのっ!」
「……あのな。弓道ってのはそんな簡単なモンじゃなくて――」
「だーけーどっ! 先生お願いっ! ちょこっとだけ! ひと目だけでいいからぁ!」
……ったく。
どうしてそこまで固執するんだ。
だいたい、君らは弓道部じゃないだろうに。
…………でもま、どうしてそこまで食いついてるかなんて聞かなくてもわかるんだけど。
「はー……わかったよ。とりあえず聞いてみるだけ聞いてくるけど……あんまり期待しないでいるように。いいね?」
「うわぁーい!!」
「静かに待つ!」
「あ。はぁーい」
まだ見られると決まったわけではないのに、嬉しそうにほかの生徒にまで情報を広め始めた彼女を見ながら、思わずため息が漏れた。
……あ。
その中には羽織ちゃんもいた――……のだが、話を聞いた途端なぜか嬉しそうな笑みを浮かべた。
……なんだ、その顔は。
そんなにヨソの男が見たいのか?
合わない視線を半ば恨めしく思いながら彼女を小さく睨み、視線を逸らして弓道場へ足を向けると、ため息が漏れた。
「…………」
……懐かしい匂いだ。
同上が近づくにつれ、木のイイ香りが漂い始める。
昔から変わらない、濃い色の板目。
しっくりと手にも建物にも馴染む、扉。
どれもこれも、俺が知っているままの宿。
彼女らと同じまだ高校生だったころに、何度となくお世話になった場所だ。
「……失礼します」
静かにドアを開けて入ると、13人の生徒がそれぞれ矢を射っていた。
しばらく、そんな姿を静観してしまう。
打起し。
……あー、この学校は斜面なのか。
うちは正面だったから、なんだか新鮮だ。
会。
――……お。
きれいに矢が離れたな。
ターン、といい音で矢が鋭く離れたのを見て、つい笑みが浮かぶ。
ふと、射た本人を見ると、やはり嬉しそうだった。
あんなふうにきれいに離れると、気持ちイイもんな。
「あの……何か?」
腕を組んで彼らを見ていたら、不意に声がかかった。
見ると、どうやら顧問らしい女性。
少し癖のある長い髪が、おっとりとした雰囲気に合っている。
「すみません、突然お邪魔してしまって……」
「いいえ、いいんですよ」
慌てて頭を下げると、にこやかに首を振ってくれた。
そんな彼女に向き直り、改めて言葉を続ける。
「神奈川県立冬瀬女子高等学校で教師をしてます、瀬尋です」
「ご丁寧にありがとうございます。長野県立達平高校の、木野みどりです」
「あの、実はお願いがありまして……」
「はい?」
「うちの学校の生徒……といっても弓道部ではないんですが、どうしても練習風景を見たいと言い出しまして……。もしお邪魔でなければ、お願いできませんでしょうか?」
申し訳なさを前面に押し出して彼女に告げると、おっとりとした笑みを浮かべてから意外にもすんなりうなずいてくれた。
「構いませんよ。もうすぐ大会もありますし、大勢の方の前で射るというのは大事ですから」
「……いいんですか?」
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます。それでは、都合のよろしい時間に……」
「いえ、いついらしていただいても構いませんので。どうぞ、ご自由にとお伝えください」
緩く首を振った彼女が、相変わらず人のよさそうな笑みを浮かべて手を振ってくれた。
本来なら、そう簡単に『どうぞ』と言われるようなことでないだけに、非常に有難く思う。
「すみません、こんな無理なお願いをしてしまって……」
「いいえ、お気になさらないでくださいね」
だからこそ、ゆったりとした物腰で話されると、かえって恐縮だ。
何度か頭を下げてから道場をあとにし、静かに廊下を進んでロビーまで戻る――……と、そこにはまだ生徒たちだけでなく、純也さんまでもが残っていた。
……意外だ。
「あ、先生! どうだった?」
「いつでもどうぞ、だってさ」
「いやったぁーー!!」
嬉しそうにはしゃぎだす彼女らに苦笑を浮べてから、ただし、と付け加える。
最低限のマナーをわきまえるのは、見学者として当然のことだ。
「弓道場ではお喋り禁止。みんな真剣にやってるんだから、邪魔になるようなことはしないように」
「はぁーい」
……ったく。
わかったんだか、わかってないんだか……。
小さくため息をつくも、彼女らは早速道場へ行きたいと言い出した。
まぁ……いいか。
先に立って歩いていくと、先ほどの数名だけではなく、結局部員総出というかたちになった。
もちろん、純也さんも1番後ろからついてくる。
……社会科見学みたいだな。
なんてことを思いながら苦笑を浮かべると、すぐに道場の扉に着いた。
「木野先生」
「はい? あ、どうぞこちらへ」
入ってすぐのところにいた彼女へ声をかけると、微笑んでから場所を空けてくれた。
静かに入って道場の後方へ正座し、早速見学の体勢に入る。
すると、手を叩いてから木野先生が生徒たちに声をかけた。
「冬瀬女子高等学校の生徒さんたちが、みなさんの練習風景を見学したいとのことです。かわいらしいお嬢さんたちの前で、カッコ悪いところは見せないようにね」
喋り方は相変わらずのんびりとした調子なのだが、その声は広く場内に響いた。
顔を見合わせる者や、好奇心からかちらちらとこちらをうかがう者など、いかにも高校生らしい反応を見せる彼ら。
だが、きちんと姿勢を正してから揃った挨拶をくれた。
「よろしくお願いします」
慌ててこちらも頭を下げ、挨拶を返す。
――……ほどなくして、道場に静けさが戻った。
弓構えから打起し。
そして――……。
タンッ
先ほど俺が見たのと同じ子が、きれいな射形を披露した。
……さすがにしっかりしてるな。
彼だけでなく、ほかの部員も的を正確に射ており、かなり優れた学校だとわかる。
ひととおり見せてもらったところで木野先生が『休憩』と声をかけると、それに反応してか、ふっと高校生らしい砕けた表情で弓をおろした。
「すごーい!」
「カッコよかったです!」
途端に、拍手が沸いた。
木野先生が嬉しそうに笑い、部員たちもどこか恥ずかしそうに笑みを浮かべている。
確かに、バランスがいい。
つられるように自分も拍手し、目が合った木野先生に改めて頭を下げる。
久しぶりに人の射形見たな。
……やっぱり、人と射なきゃ駄目か。
などと考えていると、後ろから絵里ちゃんの声が聞こえてきた。
「かっこよかったねー」
「そうだね。なんか、こー……あー、やっぱり弓道好きかなぁ」
「羽織らしいわね。弓道部入れば良かったのに」
「……んー。でも、私は向いてないってお父さんに言われたから」
「そうなの?」
……あー、わかる気がする。
彼女が真剣な顔つきで弓に向き合っているところがまったく想像できずに苦笑を浮かべると、そんなこと想像されてるとは知らない彼女がさらに続けた。
「でも、やっぱりいいね」
「あ、羽織も思った?」
「うん。袴とかも好きだけど、なんていうか……凛としてる感じが、好きかな」
「あはは。羽織らしいー」
「だって、やっぱりお父さんと違うっていうか。みんなカッコよかったね」
……ぴく。
思わず聞こえた小さな声に、予想以上に反応していた。
みんな……?
ということはなんだ。この学校の生徒がカッコよかったってことか?
……つまり、そういう目で見てた、と。
「…………」
……あー、なんか腹立ってきた。
彼氏がそばにいるのに、平気でそういうことを言うモンじゃないぞ。
俺が聞いてないとでも思ってるんだろうが、実際聞こえてしまっているわけで。
今さらどんなふうに取り繕われても、あとの祭り。
その言葉、身を持って体験したいのか? もしかして。
「木野先生、ありがとうございました」
「あ、いえ。とんでもないです」
「ありがとうございましたー」
「いいえ」
すっ、と率先して立ち上がり、頭を下げてから道場をあとにする。
それに続いて、生徒たちもぞろぞろと出てきた。
このあとは、各自夕食まで自由時間となる。
……はー。
何しよう。
おおっぴらに彼女と出かけるなんてことは当然できないので単独行動ありきなんだが、ひとりでぶらつくというのも……なんだな。
「瀬尋君」
「え?」
仕方なく部屋に戻ろうとしたとき、後ろから声がかかった。
声の主は女将。
何やら、意味ありげな笑みを浮かべている。
「最近、弓道やってる?」
「……ええ、まぁ。一応、去年は教員大会に出ましたよ」
「あらぁ、すごいじゃない!」
「はは。ありがとうございます」
軽く頭を下げると、つつっと彼女が寄ってきた。
相変わらず、その人懐っこさというか、すべてをとっぱらうような笑みは、強いと思う。
「遠的なら空いてるんだけど。久しぶりにどう?」
「いや、でも、道具とか何ももってきてませんし」
「んもー。うちをどこだと思ってるの?」
……そりゃそうだ。
ぺちん、といい音を立てて肩を叩いた彼女に思わず苦笑を浮かべると、にっこり笑ってうなずいた。
……遠的、ね。
まぁ確かに……ほかにこれといってすることもなかったし。
「…………」
カッコいいよね。
ふと、先ほどの彼女の言葉が頭に響き、考えがまとまる。
「やらせてください」
「お。やる気になったわね」
「ええ」
顔を上げ、女将にうなずく。
すると、彼女もまた嬉しそうな顔をしてうなずいた。
妙なライバル心に火がついたといえばそうなのだが、まぁ、少なくともみっともない嫉妬の部類に入るんだろうと思えるから、ついついため息が漏れた。
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