「だろ? だから、ここはこうして――……」
「あー、なるほどね」
 絵里と田代先生が実験を進めている中、私はテーブルに広げたレポート用紙に何を書くでもなく、ふたりを見つめてただただぼーっと過ごしていた。
 ひっかかっているのは、なんといっても朝のこと。
 言わないでいてくれるとは思う。
 ……多分。
 だけど……。
「……はぁ……。え?」
 思わずため息をついたら、後ろから軽く頭を触られた。
 振り返ると、そこには眉を寄せた彼が。
「先生……」
「ため息つくと、幸せが逃げるって知ってる?」
「え? そうなんですか?」
「うん。だから、そんなふうにため息をつかない」
「……でも、私の幸せはそんなことで逃げるようなものじゃないですよ?」
「っ……」
 んー、と小さく考えてから笑うと、一瞬驚いた顔をしてから頬を染めてきびすを返してしまった。
 ……私、変なこと言ったかな?
 でも、本当ですよ?
 いつも先生がどきっとするようなことを言うから、今日は私がお返し。
 だって、嘘なんかじゃない自分の素直な気持ちだから。
「…………」
 ふと、絵里を見ると、実験のことではない話を田代先生としているようで、それはそれは楽しそうだった。
 ……よかった。
 絵里が幸せそうに笑っているのを見ると、自分も本当に幸せな気持ちになる。
 だからこそ、余計な心配はかけたくないわけで。
 ……はぁ。
 …………あ、また言われそう。
 慌てて口を押さえてからそんなことを考えてひとり笑うと、田代先生が声をあげた。
「よーし。それじゃあ、そろそろ切り上げて昼飯行くよー」
 その声にそれぞれが反応を見せ、ぞろぞろと教室を出て行く。
 今日の午後は、このまま自由行動になる。
 明日はチェックアウトと同時にこっちを出発だし……あー、お土産とか買ったほうがいいのかなぁ。
 などと考えながら自分も荷物をまとめて、絵里と宿に足を向ける。
「今日のお昼、なんだろうね」
「ねー、楽しみだね」
 たわいない話をしながら歩いていくと、すぐに宿が見えてきた。
 玄関から入ってすぐ鼻につく、匂い。
 ……この匂いは……。
 いったん、荷物を部屋に置いてから食堂に向かうと、案の定今日はカレーだった。
「…………」
 ふと祐恭先生を見てみると、何やら女将さんと話しこんでいた。
 きっと、カレー以外はないかどうか聞いているんだろう。
 ……だけどやっぱりほかにはないらしく、彼もまたカレーを乗せたトレイを持って席へついていた。
 少しだけ困ったように眉を寄せて席に着き、ルーとご飯をスプーンで弄ってから……しばらくそのままで水だけを飲む。
 ……本当に嫌いなんだ。
 まるで、給食に嫌いな物が出たときの子どもみたいに、彼はいつまでもお皿を見つめていた。
 ――……でも、意を決したようにスプーンを口へ運ぶ。
『うわ、辛!』
 そう言い出しそうな表情で口元を押さえると、水を飲んでからまたひと口。
 そして、また水を含む……。
 ……あーあぁ。
 そんな姿に苦笑を浮べてから、自分もカレーに口をつける。
 でも、そんなに辛くないんだけどなぁ。
「…………」
 ちらりと彼を見ると、やっぱり悪戦苦闘。
 先生には、お子様カレーとかがいいのかもしれない。
 なんてことを言ったら怒られるだろうけど。
 絵里に不思議そうな顔をされながら首を横に振りつつ、自分のカレーを片付けてしまうことにした。
「ごちそうさまでしたー」
「はーい」
 女将さんに食器を返すと、続いて先生もトレーを運んできた。
「……ごちそうさまです」
「あら。瀬尋君、全然食べてないじゃない」
「ルーだけですよ? 残したの」
「そうだけど……カレー嫌いだったかしら?」
「いや、嫌いっていうか……まぁ……」
 苦笑を浮かべつつ頭を下げた彼が、口元を押さえながら食堂をあとにした。
 その足取りがいつもと違ってとても重たそうで、つい声をかけずにはいられなくて。
「……大丈夫ですか?」
「駄目」
 ぱたぱたと駆けて彼に追いつくも、ちらりとこちらを見ただけで、嫌そうに首を横に振った。
 そんな姿に苦笑を浮べると、眉を寄せて睨まれる。
「……口がヒリヒリする。あー、こんなんじゃ集中できないな」
「あ。飴ありますよ。食べます?」
「……飴か。んー、いいよ」
「そうですか?」
「うん。それより、今から練習するけど……くる?」
「行くっ!」
「じゃ、小さいほうの道場においで」
「はぁい」
 ちらりと向けられた目線をしっかり受け取った瞬間、ぱぁっと自分でも驚くほどの笑顔になった。
 その顔を見てくすくす笑った彼に口を尖らせるものの、軽く頭に触れてから階段を先に上がって行ったのを見て、また頬が緩む。
 ……えへへ。
 やっぱり、彼の袴姿を見られるのは嬉しい。
 それに、何よりもふたりきりでいられるというのが、ものすごく特別なんだよね。
「……えへへ」
 にやけた顔を両手で押さえるようにしながら先に道場に向かうと、弓道部の人たちが使っている道場とは違って若干小さめの道場だった。
 朝行ったのは、隣の道場。
 この道場は低めの塀を隔てた隣にあるみたいで、時おり楽しそうな声や拍手が聞こえてきた。
 でも、今この道場にいるのは私だけ。
 ぺたん、と正座してみると、風が気持ちよく吹き抜けていく。
 そのまま遠くにある的を眺めていると、つい目が閉じてしまいそうになった。
「わっ!?」
「……あー落ち着く」
「せ、んせ……っ」
 いきなり後ろから抱きしめられ、身体が一瞬強張った。
 だけど、ほんの一瞬。
 顔をあげると、そこには弓道衣に着替えた彼がいたから、自然と笑みになる。
「さて、と」
 ぐりぐり、と強めに頭を撫でてくれてから、ぽんと私の両肩を叩いたかと思うと、改めて支度を始めた。
 まず弓を張ってから、正座して矢を揃える。
 そして、ゆがけを指にさす。
 それだけなのに、なんだかカッコよく見えて、つい見とれてしまう。
「……おもしろい?」
「え?」
 まじまじと見ていると、彼が苦笑を浮かべて私を見た。
「おもしろいっていうか……なんか、いいなぁ、って」
「そう?」
「うんっ」
 笑顔でうなずくと、彼が立ち上がって弓と矢を構えた。
 ――……でも、なぜかすぐにその動作を解いてしまう。
「え?」
「これから四射するんだけどさ。……皆中(かいちゅう)したら何かしてくれるとか、ない?」
「……皆中したら、ですか?」
「うん。どう?」
「うーん……いいですよ、別に」
「そう? じゃあ、四射皆中の際は拍手よろしく」
「はぁい」
 皆中というのは、的に矢がすべて当たることを指す。
 でも、これって簡単そうに見えて実はとても難しくて。
 だから――……どこかでは『できるかなぁ』と思っていた自分がいるのも否めない。
「っ……」
 でも、にっこり笑ってうなずいた途端に見せた真剣な表情に、ぞくりと鳥肌が立つ。
 ……すごい。
 一瞬にして変わった、顔つき。
 彼らしいといえばそうなんだけれど、ぞくぞくする。
「…………」
 弓を構えて、的をまっすぐ見る。
 そして――……。
「……っ!」
 キュっと小さく音が鳴ったかと思うと、自然に矢が離れていった。
 そう見えたんだよね。
 彼が意図的に離したのではなく、手から離れる……そういう感じだった。
 矢が離れた瞬間、的を射る音が響く。
 ターン、と空気を震わせる音。
 張りのある、強い振動。
 ……速い。
 彼から目を逸らせなくて、ゆっくりと矢を拾ってもう1度構えた姿を見てから、喉が鳴る。
 先ほどと同じ動作。
 だけど――……。
「……ふぅ」
「…………」
 四射すべて終わったあとも、言葉が出なかった。
 なんていうんだろう。
 余韻が……すごくいい感じ。
 ううん、こんな気持ち、それこそ初めて。
 どきどきして、すごく気分が昂ぶってるのがわかる。
「……こら。瀬尋先生四射皆中です、の言葉と拍手は?」
「あっ。ええと、四射皆中ですっ」
 慌ててそう言ってから拍手をすると、うなずきながら頭を軽く下げた。
「どうも」
「今のお気持ちはいかがですか?」
 にっこり笑ってから立ち上がって彼のそばに行くと、弓を下ろしてゆがけを外し、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「羽織ちゃんに何をやらせようかなってことで、頭がいっぱいです」
「……えぇ?」
「約束でしょ? 四射皆中したら、なんでもいうこと聞いてくれる、って」
「そ、そんな約束じゃ――……」
「同じようなモノだよ。そうだな……何がいいかな」
 顎に手を当ててニヤニヤと私を見下ろした彼が、ゆっくりと私のあごに手を当てた。
 眼差しが、先ほどまでとはまるで違う。
 ……このギャップ、くらくらしちゃうんですけれど。
 赤くなった頬をごまかすように視線を逸らすも、鼓動の速まりは抑えられそうにない。
「……その前に」
「え? ――……っ」
 小さく呟いたかと思うと、不意に口づけをされた。
 そして、舌を絡めるようにしてから、ゆっくり顔が離れる。
「……うん。直った」
「な……にが……?」
「カレーの痺れ」
「っ……もぅ」
「ほら。辛いもの食べたあとは甘いのが欲しくなるだろ?」
「……私、甘くないですよ?」
「甘いんだよ」
 ものすごく。
 ふっと瞳を細めた彼が、小さく囁いてからもう1度唇を重ねた。
 舌で唇をなぞられ、そのたびに力が抜ける。
 軽く舌を吸われ、何度も絡められ。
 くり返されるごとに小さな音が響き、より一層強まった快感に背中が粟立った。


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