ちゅ、と音を立てて唇が離れると、目の前で彼が満足げに笑った。
「……私もカレー食べたのに」
「それでも、違うんだよ」
抱きしめてくれてから、耳元でくすくすと満足げに笑う。
それがくすぐったくて、でも嬉しくて。
ぎゅ、と彼へもたれるようにして抱きつくと、大きな手のひらが頭をゆっくり撫でた。
「うん。……新記録出せるかも」
「新記録?」
「そ。これまでの皆中記録はいくつだったかな……確か……78射?」
「え! そんなに当ててるんですか!?」
「まだまだだけど。目指すは百射皆中」
「……うわぁ、すご――……ん?」
そこで、ふと気付く。
ということは……!
「っじゃあ、四射皆中はすごく簡単ってことですか……!?」
「まさか。そんなこと、俺が言うわけないじゃない」
「うそっ! だって、その顔っ――……! それに、先生有段者なんですよね?」
「そうだけど。そんなひどいこと、俺はしないよ?」
「っ……」
くすくすと笑いながら首を振る彼に、眉を寄せる。
嘘だ。
絶対、嘘。
その笑い方には、多めに嘘が含まれてます。
「先生、嘘つくと顔に出るんですよ?」
「そう? んー、自覚ないけど……」
「もぅ! やっぱり嘘なんじゃないですかっ!」
「……あ」
「もぅっ!」
眉を寄せて抗議すると、楽しそうに笑いながら彼が額を合わせてきた。
……ずるい。
もぅ。
こんなふうにされたら、怒れなくなっちゃうのに。
「ごめん。……怒った?」
「……怒って、はないですけど……」
「ん。素直でよろしい」
眉を寄せながらもうなずいた途端、ちゅっと頬に口づけられた。
……もぅ。
なんか、いつもこうして騙されてる気分。
でも、嫌いじゃないって思ってる自分がいるから、これ以上は当然何も言えないんだけれど。
「じゃ、そろそろ行ってくるよ」
「あ……」
「くるよね?」
「えっ。いいんですか?」
見たいのは、もちろん。
……けど、邪魔じゃないだろうか。
しかも、今朝。慶介君に見られたばかりでもあるのに、ふたりでなんてなったら……。
「お守りがなくちゃ、四射皆中できないかも」
「……もぅ」
たとえ嘘であっても、社交辞令だとしても、私にとってはこれ以上ない褒め言葉であり嬉しいセリフ。
柔らかく頭を撫でられ、たまらず笑みが漏れた。
彼が私に向けてくれる優しさが、とても嬉しい。
こくん、と微笑んでからうなずくと、彼も微笑んでくれた。
……いよいよ、みんなの前で射るんだ。
なんだか、私までどきどきしちゃう。
私の、大切な人がすることだからこそ、誰よりも強くそう思った。
「それじゃ、行こうか」
「はいっ」
大きくうなずき、ともにドアへ足を向ける。
すぐ、隣の道場。
ぐるりと廊下を回ってからそこの戸を開けると、すでに部員は揃って着席していた。
……とはいえ。
さすがに一緒に入ることはためらわれて、こっそりドアの外から様子を伺う。
木野先生が彼を迎え、生徒たちに紹介を始めた。
……何を話してるんだろう。
なんて、大方の予想はつくものの、それでもやっぱり、どんなふうに紹介されているのかが気にならないわけじゃなくて。
聞きたいなぁ……でも、それはちょっと我慢。
扉に耳を当てたい気持ちを抑えながらこっそり覗いていると、ようやく彼が支度を始め、それとともに生徒たちがこちらの壁に背を向けて座り直した。
「……あの」
「はい?」
その様子を見てからそっと道場に入り、すぐそこにいた木野先生に声をかける。
「瀬尋先生の演武、見学させてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろんですよ。さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
にっこり笑ってうなずいてくれた彼女に安心すると、『どうぞ』と言って部員の人たちとは違う、もっと彼に近い場所へ案内してくれた。
……う。
途端、当然のように部員の人たちが私を見て、つい顔が赤くなった。
「……え?」
だけど。
そんな私に気付いた祐恭先生がこちらへ歩み寄ってくると、にっこり笑ってから――……。
「……なっ……!」
『俺だけを見てればいい』
ぼそりと耳元で聞こえた声に目を見張るものの、まったくそんなことを感じさせない顔で支度に戻った。
……もぅ。
先生しか見ないに、決まってるじゃないですか。
こんなときだからこそ、素直にそう思う。
「…………」
支度を終えた彼が、すぅ、と背を伸ばした。
目を閉じ、深く息をつく。
精神統一そのものの様子で、なぜか自分はどきどきしはじめた。
「っ……」
ほどなくして開かれた瞳は、先ほどまで笑っていた彼の物とはまるで違っていて、思わず喉が鳴った。
……鋭い。
射る、まさにそれ。
弓を手に足踏みをし、矢を確認してから弓につがえる。
的心を見つめたまま両手をゆっくり上にあげて、静かに弓を引く。
……満を持す。
いわゆる、この言葉の語源の姿が、今の彼。
弓を引き絞り、的をいつでも射ることができる、この体勢のことだ。
――……刹那。
パァンッ
小気味いい音が、静かな場内に響いた。
的中。
途端に、小さくではあるが部員達がざわめく。
ほとんどの人たちの口元が緩んでいて、『すげぇ』なんて声も聞こえた。
きれい。
本当に、きれいだった。
息を呑む、ということを今、身をもって体験した。
……先生、すごい。
たったひとことで表してしまうのが、とてももったいなく思う。
だけど、その言葉以外にはない。
その後、彼は今と同じ動作を繰り返して――……三射皆中を披露。
残る矢はあと1本ということもあり、当然のように部員たちから矢声が飛んできた。
「次で四射皆中です」
ひときわ大きく聞こえた声の主へ顔が向かい……身体が強張った。
……慶介君。
励みというよりは、まるでプレッシャーをかけるかのような言い方と笑みに、思わず眉が寄る。
だって、まるで睨みつけるようにしてるんだもん。
「…………」
「っ……」
ちらりと慶介君を一瞥してから視線を戻した彼と、不意に目が合った。
一瞬浮かべたのは、いつものあの笑み。
いいから、俺だけ見てなさい。
もう1度、そう言われたような気がした。
繰り返される、動作。
弓を大きく引き、しばらくその状態を保って――……。
タァンッ
四射皆中した途端、場内に拍手が沸いた。
当然ながら、私も大きく拍手を送る。
やっぱり、先生はすごい。
……カッコいい。
彼が頭を下げると、大きな拍手と声があがった。
「先生、本当に素晴らしいものを見せていただいて、ありがとうございます」
「とんでもない」
さらりと木野先生に答えた彼が、あとを追うように集まり始めた部員に背を向けて、まっすぐ私のところへと歩いてきた。
「っあ……」
「では、失礼します」
「あ、あの――」
「約束がありますので」
肩に手を当てて促してくれながら、彼はにっこり笑うと私を隠すように立った。
木野先生だけじゃない。
慌てたのは、たくさんの部員の子たち。
みんな、先生に話を聞きたがってる。
アドバイスしてもらいたがってる。
それがわかるだけに、笑顔で切り抜けてようとしている彼を間近で見ながら、『ごめんなさい』と思うしかできなかった。
一礼して、一緒に道場をあとにする。
でも、ピシャリ、と音を立てて閉まったドアを一瞥したところで、つい眉が寄った。
「……先生、よかったんですか?」
「何が?」
「だって、せっかく話を聞きたがってた子もいたのに……」
「アイツと一緒にいるのは御免だね」
さらり。
まったく迷うことなく、彼は前を向いたまま呟いた。
その顔に、一瞬機嫌があまりよくないときの彼が見え、続けようと思った言葉を飲み込む。
「で? 羽織ちゃんはどんなふうに見てたの?」
「え?」
「なんだか、途中からやたら熱のこもった眼差しだったけど」
「っ……!」
う、気付いてたんですか。
ニヤ、とそれはそれは人の悪そうな顔で見られ、思わず口を一文字につぐむ。
……何も言えない。
そんな簡単に、言えるわけない。
私だって、彼らとまったく同じ羨望の眼差しで彼を見てしまっていたから。
「……だって」
「だって?」
「…………カッコよかったんですもん」
ぽつり、と小さな小さな声で呟いてからおずおず彼を見上げると、目が合ってすぐやっぱり顔が赤くなった。
だけど、彼はそんな私を満足げに見下ろしてから、わしわしと頭を撫でる。
「ん。素直でよろしい」
「……もぅ」
そうは言いながらも、彼の声にはどこか嬉しそうな音があって。
……えへへ。
理由はどうあれ、彼に少しでも喜んでもらえれば、これ以上の喜びは自分にない。
「それじゃ、着替えてくるから待ってて」
「あ、えっと……」
「ん?」
ぽん、と頭に手を置いた彼が階段をテンポよく駆け上がったのを見て、つい声が漏れる。
そんな私を振り返った彼は、一瞬目を丸くしたものの、すぐに眉を寄せていたずらっぽい顔を見せた。
「俺と一緒に出かけるのは、予定になかった?」
「えっ! いいんですか?」
「まぁね。羽織ちゃんの返事次第で、考えてあげなくもないけど」
「っ……」
もぅ。またそうやって、意地悪な言い方をするんだから。
もしかしてコレって、先生自身は気付いてないのかな?
……いじわる。
でも、好き。
だから、慌てて首を横に振っていた。
「行きたいですっ」
「ん。それじゃ、少し待ってなさい」
「……はぁい」
まるでお父さんのように『そこ』を指差した彼に笑みを浮かべると、小さく笑ってから2階へと消えて行った。
やっと……なのかな?
一応、顧問と生徒というかたちだけど、それでも一緒に出かけることができる。
それは、もちろんだけど何よりも嬉しくて。
……なんだか、一緒に出かけるのはずいぶん久しぶりな感じだ。
一緒にいられるのに特別な時間を過ごせるのがわずかだったせいか、思わず苦笑が漏れた。
「ご馳走様でしたー」
「はあい。いやー、みんなホントいい食べっぷりだったわ」
「そうですか?」
「そりゃあもう! ほら、最近の女の子ってやたら小食を掲げて出された物食べきらない子が多いのよね。だから、みんなみたいにきれーーに食べ切ってもらえるのはね、やっぱり作り手としてすごく嬉しいのよ」
あはは、と大きく笑った女将さんに、トレーを返しながら思わず絵里と顔を見合わせて笑う。
ここでいただく最後の夕食は、から揚げメインの揚げ物だった。
しっかりおいしく完食しただけじゃなくて、トレーを返すときに、残っていた先生のお皿のカットトマトももらって、もう本当にお腹いっぱい。
絵里と一緒に部屋へ戻ると、早速お風呂に行こうという話になった。
みんなで入るのも、今日でおしまい。
家では絶対にできない、きゃいきゃい言いながらのお風呂はすごく楽しかった。
最後の夜とあってか、みんないつもより長めの時間を過ごしてから、ようやく上がる。
地元とは違う、さっぱりした空気が気持ちよくて、髪を乾かしながらつい顔が緩んだ。
「みんなー、ちょっと聞いてー」
ドライヤーで髪を乾かし、着替えを入れたバッグを持ってドアへ向かおうとしたとき。
ひとりの子が声を上げた。
「さー、もうすぐコンパだからね! みんな、気合入れてよー」
……はた。
絵里と顔を見合わせ、眉を寄せる。
……コンパって聞こえたけれど、それは何……?
部長である絵里も知らなかったようで、ちょっと、と声を上げて彼女のほうへ歩いて行った。
「どういうこと? 打ち上げしたい、って話は聞いてたけど……コンパなんて聞いてないわよ」
「そうだよ。みんなで食堂借りてするんじゃなかったの?」
絵里の隣に歩いていくと、その子がちちちと指を振っていたずらっぽく笑った。
その顔はまるで『甘い』と言っているかのようで、また眉が寄る。
「もー、羽織ってば。そんなわけないでしょ? せっかく夏休みなんだよ?」
「え、でもコンパなら、私行かないよ?」
「駄目っ! ちゃんと8対8でセッティングしたんだから!」
「だけど、私……」
「いいの! 彼氏がいてもいいのっ! ねぇ、お願いっ! 人数あわせでいてよぉー」
「……もぅ」
コンパだなんて、先生の耳に入りでもしたら怒られるに決まってる。絶対。
……はぁ。
まさか最終日にこんなことになるなんて、思いもしなかった。
「……絵里はどうするの?」
「仕方ないから出るけど……興味もないし途中で部屋に戻るわよ」
「……そっか」
「だから、一緒に戻りましょ」
「うん。そうする」
困ったように眉を寄せてため息をついた絵里にうなずき、自分も小さく息をつく。
……はぁ。なんだか大変なことになっちゃった。
先生にバレたりしたら、ペナルティが一気に加算されたりするのかな。
…………ううん。むしろ、その程度じゃ許されないんじゃ……。
「…………」
……気が重たい。
でも、『ありがとう、ふたりとも!』と提案した子にしがみつかれ、それ以上強くは言えなかった。
「かんぱぁーい」
食堂に幹事役の子の明るい声が響くと、すぐに騒がしくなり始めた。
なんでも、弓道部の顧問の先生は木野先生のほかにもうひとりいるらしく、祐恭先生と田代先生を含めた4人で近所に飲みに行っているらしい。
……そんな話聞いてなかったけどなぁ。
ちょっぴり複雑な思いを抱きつつ、だけど自分も彼に言えないことをしているので、内心では彼の不在に安堵してもいた。
8対8、って言ったけれど、テーブルを挟んだ向こう側に座っている弓道部の子たちは、8人以上。
……なんだかなぁ。
複雑な思いを抱えたままウーロン茶を飲んでいると、幹事役の子が目の前にグラスを差し出した。
「え? これは?」
「オレンジジュース」
「……ありがと」
お茶なんかじゃ味気ないわよ。
そう言った彼女に、同じくグラスを受け取った絵里と顔を見合わせてから苦笑を浮かべ、乾杯、とグラスを合わせる。
……ん。
口に含んだ途端、甘さよりも苦味がきた。
なんだか、飲みなれない味っていうか、ずいぶん苦い気がする。
「ねぇ、なんだかこのジュース、苦くない?」
「んー、果汁100%だからかな」
「……ふぅん」
グラスをくれた彼女に絵里がたずねると、くすくす笑いながら首を横に振った。
……100%って、こんなに苦いんだっけ。
普段、めっきり果汁ジュースを飲まなくなったからか、舌の感覚が鈍ったのかもしれない。
「…………」
こくん、と飲み込むと、渇いた喉に心地よく沁み込んでいくようだった。
あー、慣れると意外においしいかもしれない。
はぁ、と小さく息をつくと、絵里がくすくすと笑い出した。
「え?」
「なんか、羽織ってばお酒飲んだみたいよ?」
「……そう?」
「うん。顔赤いし」
くすくす笑った彼女が、指で頬をつついた。
鏡がないからわからないけれど、確かになんとなく頬が熱い気もする。
……んー。
オレンジジュースで酔っ払うなんて聞いたことないんだけれどなぁ。
もしかしたら、この雰囲気に酔わされているのかもしれない。
「……あ」
「こんばんは」
おつまみ代わりのお菓子をつまんで食べていると、隣に慶介君がやってきた。
にっこり笑ったのを見て、反射的に表情が曇る。
それを見た彼もまた、そんな顔しないでよ、と苦笑を浮かべた。
「羽織ちゃんの彼氏ってさ、どういう人?」
「え?」
ストレートに聞かれ、何も言えなかった。
それって……先生のことだよね。
真剣な瞳の彼から、視線が逸らせなくなる。
「どうって……。普通、だよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
苦笑を浮かべて椅子に座った彼が、まるで何かを疑っているかのような顔をして私を見た。
その顔に、一瞬どきりとする。
……何を言われるんだろう。
私と先生のことを知っているだけに、やっぱり恐かった。
「……女遊びとか、してない?」
「え……?」
「まさかー。彼氏、結構堅い人よ?」
目を丸くして彼を見ると、絵里が笑いながら助けてくれた。
ぎゅ、と私の腕を掴んで引き寄せ、顔を覗き込みながら笑みを見せてくれる。
『大丈夫』
その顔は、そう言っているかのようだった。
「何より、羽織だけしか見てないって感じだし」
「……ふーん」
ぽんぽんと頭を撫でられ、思わず苦笑が漏れる。
……そう、だよね。
昔からきっと……そう。
先生は、遊んでなんかいない。
絵里の手の温かさを感じながら小さくうなずくと、改めてそう思えてきた。
「今夜さ、うちの顧問ふたりも飲みに行ってるんだけど」
「え?」
「ウチの木野先生と……あの、瀬尋先生だっけ? なんか、そのふたりが怪しいらしいんだよね」
「っ……」
さらりと目を見て言われた言葉に、思わず心臓が大きく鳴った。
……怪しいって……何?
そもそも、慶介君はどうしてこんなことを言い出すんだろう。
……私に。
目の前にいる、彼の彼女だと知っているはずの私に。
「この前も、手ぇ握って見つめ合ってたしさ。……今夜なんて酒入るじゃん? 結構ヤバいんじゃないかなーって思って」
「……な……っ」
そんなこと、彼はしない。
そもそも、手を握ってたのだって、アレは……握りたくてとかじゃなくて、勢い余ってっていうかなんだから。
「ないない! ウチの顧問、そんなチャラくないし。だいたい、そんなことしたら私が殴るっての」
眉を寄せて彼を見ていたら、絵里がぶんぶんと首を振りながら髪を撫でてくれた。
確かに感じる、力強さ。
彼女がいてくれるから、私はコレくらいの動揺で済んだんだと思う。
もし、ここに絵里が居なかったら……きっと、早々に泣いてこの場から立ち去っていただろう。
「あはは、マジで? 絵里ちゃん強いんだ」
「まぁねー。ていうか、顧問には強く出れるっていうか?」
にやにやと笑いながら絵里がジュースを飲み、『ねぇ?』と顔を覗き込んでくる。
……だけど。
「……うん」
彼女の目を見ることができなかった。
彼はそんなことするはずない。
だけど、もし……もし、木野先生が彼に……もっと、近づきたいと思っていたら……?
だとしたら――……。
「っ……」
……なんだか……苦しい。
うまく、息が吸えてない気がする。
「羽織?」
「っ……ごめん。先、戻るね」
「あっ!?」
がたん、と椅子から音を立てて立ち上がり、そのままロビーに向かう。
……なんで……っ……なんで慶介君は、あんなこと言うんだろう。
だって、知ってるんだよ?
私と彼が、付き合ってるってこと。
……なのに。
なのに、どうしてあんなこと……っ……。
『昔、札束チラつかせて、女はべらせて――』
「っ……!」
違う。
先生は、そんなことしない。
だって、だって先生は――……。
「羽織ちゃん!」
「っ!」
大きな声で、一瞬肩が震えた。
両手を胸の前で握り合わせたままゆっくり振り返ると――……そこには、慶介君。
少しだけ息を切らせていて、眉を寄せている。
……だけど。
彼の顔を見た途端、涙が滲んだ。
「……ごめん、そういうつもりじゃなかったっていうか……」
「どうして……?」
思わず、壁にもたれる。
なんか……ちゃんと立ってられない。
苦しくて、息があがって。
足元が心もとなくて、身体がふらつく。
「………でも。俺はそう思ったんだ。木野先生と……瀬尋先生を見てて」
「そんなこと……っ、先生、しないよ……?」
「だけど、言い切れる? 絶対しない、って」
「言い切れる」
「……っ」
これだけは、絶対。
信じてるから。
彼のことは、私が誰よりも信頼してる。
だから、今回ばかりはまっすぐに慶介君を見つめてすぐ答えていた。
「……本気で、彼が相手してると思ってるの?」
「っ……」
私を見返した彼が、ふっと口を開いてから眉を寄せた。
哀れ。
まるでそう言っているかのような顔で見られ、悔しくて唇を噛む。
「なんで……」
視線を落としたとき、何よりもまず悔しさが1番大きいのに気付いた。
酷いとか、傷ついたとか、そんなこと言わない。
ただ、悔しかった。
……だって、そんなこと言われたくない。
彼に言われる筋合いなんて、ない。
私と先生のことを、よく知りもしないのに。
「……どうしてそんなこと言うの?」
「え……」
「慶介君、どうして? なんで?」
悔しくて悔しくて、目にいっぱい涙が浮かんだ。
私のせいで、彼がそう思われている。
遊んでる、って。本気じゃない、って。
そういう対象にしか見てもらえない自分が歯がゆくて、彼に釣り合っていないと間接的に言われているようですごく悔しかった。
「……なんでそんなふうに言うの?」
「っ……羽織ちゃ……」
「酷いよ、慶介君。どうしてそこまで……先生のこと、悪く言うの?」
「…そういうワケじゃないけど。けど…!」
「私だって思ったよ? ……本気じゃないんじゃないか、って。だけど……だけど、先生は――……っ!?」
「あ!」
壁にもたれたまま、かくん、と膝から力が抜けた。
バランスが崩れ、少し低い場所にある玄関の石畳みへ落ちそうになったそのとき、彼が手を伸ばして私の腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「……あ」
助けてくれたことは、素直に喜ぶべきだし、感謝すべきだとも思う。
だけど、咄嗟に『嫌だ』と思った自分がいた。
……やだ、触ってほしくない。
だって、彼は今目の前で、私の何よりも大切な人を否定していたんだから。
先生を否定されることは、私自身を強く否定されることと同じ。
ううん、それ以上だ。
「やっ……!」
ぺたん、とその場に座ったまま、掴まれた手を振り払うように身をよじる。
――……そのとき。
音を立てて、すぐそこの玄関の戸が開いた。
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