「ッ……!」
音がした方向へ反射的に向けた先には、想像しえなかった光景があった。
それこそ……呼吸が止まるんじゃないかと、思ったほど。
「……何してるんだ、こんなところで」
眉を寄せた祐恭先生が、いかにも不機嫌そうに私と慶介君とを見つめた。
……でも、眉が寄るのは私も同じ。
同時に、ざわざわと音を立てて身体が嫌な気持ちでいっぱいになる。
なん、で……?
どうして、そんな格好をしてるの?
「……ほら! ほらみろ! やっぱりそうじゃないか!! 結局、本気になんて思われてないんだよ!」
勝ち誇ったかのように慶介君が声をあげたけれど、当然ながら、目の前の状況から目を逸らせなかった。
先生が立っている。
だけど、ひとりじゃない。
彼にしなだれかかるようにして、身体を預けている女性――……それは、間違いなく木野先生だった。
「……ん……」
頬を赤らめ、半分瞳を閉じたまま立っている彼女。
立っている、と言っても正確には彼に支えられているので、『かろうじて』と付けてもいいかもしれない。
「……っと」
「あっ……! え、あ、のっ……ごめんなさい! 私……」
ふらっと一瞬よろけた木野先生を、彼が支えた。
途端、薄っすら開かれた瞳が驚いたように丸くなり、慌てて彼から離れる。
「すみません、こんな……」
「いえ。大丈夫ですか?」
「……すみません」
何度も何度も頭を下げる彼女に、彼は苦笑しながら『いいえ』と小さく答える。
今、目の前で何が起きてるの。この光景は、何。
……なんで……?
どうして一緒にいるの?
ほかのふたりの先生、どうしたの?
どうして今、目の前にはこのふたりしかいないの……?
「……っ」
あれこれとまとまらない考えがぐるぐる巡って、なんだか気分が悪くなってきた。
そのとき、ゆっくり祐恭先生がこちらへ歩いてきた。
……やだ。
ひとりじゃない。ふたり。
彼女を伴っている彼は、いつも私に見せてくれているような顔とはまるで違う顔と態度で、すぐ目の前まで歩いてきた。
「っ……!」
「大人はきたねーよな。この子、彼女なんじゃねーの?」
眉を寄せたままでいたら、いきなり慶介君が私を横から抱きしめた。
まったく予想していなかったことで、今、自分の身に何が起きているのか把握するのに、少しだけ時間がかかった。
……な、んで。
頭のすぐ上から声が聞こえてきて、ようやく自分がどんな状況になっているのか理解できた。
「ほかの女に手ぇ出していいのかよ!」
「俺はそんなことしない」
「してんじゃん! 木野先生と、どういう関係なんだよ!」
「関係も何もないだろ。ただ、酔った彼女を連れてきただけだ」
「嘘つけ! じゃあ……じゃあ、なんでそんなにくっつく必要があるんだよ!」
彼を責めたてる慶介君に対して、先生はどこか呆れたようにため息をついた。
先ほどよりかは意識がハッキリしたらしい木野先生も、慶介君をなだめようと声をかけてくれてはいるけれど、彼にはまったく届いていないようで、困ったようにおろおろしている。
……でも、おろおろしているのは私もそう。
慶介君に触れることはできず、かといって両手を下げていることもできず、ただただ胸の前でぎゅうっと握っているだけなんだから。
「……いいからその手を離せ」
「嫌だって言ったら?」
「言わせない」
ふん、と慶介君が鼻で笑った途端、先生が瞳を細めて一歩踏み出した――……途端。
「……っ!」
ぐいっと頬に手を当てられて、無理矢理視界から彼が外れた。
かわりに目の前にあるのは、慶介君の顔。
すごく近い。
「っや……!」
力が強くて、さっきまで感じてすらいなかった『男の人』らしさに、ぞくりと怖さを覚える。
嫌だ。
やめて。
やだっ……!
やだよ……!!
「っ……やだぁ!!」
唇が近づくのを感じ、目を閉じて顔をそむけながら精一杯の力で彼を押しのけると、途端に彼の身体が離れた。
それだけじゃない。
これまで感じていたキツさや重さが急になくなったかと思うと、一瞬の強い力でそちらへと引き寄せられた。
「っせ……!」
「いい加減にしろよ」
いつもと同じ、匂い。
顔に影が落ちて見上げると、慶介君を睨みつけている先生がすぐここにいた。
「……ってぇ……」
小さな呻き声でそちらを見ると、先程までとは違い、床に座り込んでいる慶介君の頬が赤くなっている。
……殴、った……?
鼓動が速まり、少しだけ苦しくなる。
「……え……?」
「……何してるんだよ。こんなところで」
「っ……だって……!」
私を見下ろした彼と目が合い、また泣きそうになった。
そんな顔を見たからか、彼もまた眉を寄せて目元にあった涙を拭ってくれる。
「……何か言われた?」
「………」
言われた、とは素直に言えない。
内容が内容だけに、ついそうしてしまったんだとは思う。
「んだよ……! 俺が悪いんじゃないだろ! あんたが、木野先生を――」
「ちゃんとしたことも知らないクセに、勘違いしたまま突っ走るのは悪くないのか?」
立ち上がって顎に手を当てた慶介君を見ながら、いつもと違う低い声で先生が静かに言った。
その声から、明らかに怒っているんだとわかる。
びりびりとしたいつもと違うモノを感じて思わず言葉を飲み込むと、一瞬慶介君が視線を逸らしてから首を横に振った。
「……けどっ」
「木野先生が気分悪いって言うから、送ってきただけだ。それでとやかく言われる筋合いはない」
「でも、この前だって手ぇ握られて、あんた笑ってたじゃないか!」
「……いつの話をしてるんだ。あれは、依頼されたときだろ? そもそも、どうして木野先生がああまでして俺に声をかけたのか、考えたのか?」
「それは……弓道部の……」
「……違う」
「っ……木野先生」
「違うよ、慶介君」
祐恭先生の代わりに聞こえた、小さな声。
それは木野先生のもので、ゆっくり背を正して大きく息をついてから、改めて慶介君に身体ごと向き直った。
気分が優れないのは今も変わらないようで、少しだけ顔色が悪い。
そのせいか、ゆっくりと慶介君に向かって歩き始めた足元も、心もとなかった。
「悩んでたでしょう?」
「……え?」
「きれいに、矢が離れないって。……だから瀬尋先生にお願いして、披露していただいたの」
「でも、俺……そんなこと、誰にも……」
「悩んでることくらい、見てればわかるだろ」
「っ……」
「それが、顧問だ」
腕を組んだ先生が小さく呟くと、木野先生も苦笑を浮かべてうなずいた。
そんなふたりを交互に見て、慶介君がバツの悪そうな顔で視線を落とす。
「……そもそも、回りくどくしか『好きだ』と言えないような気持ちだったら、捨てたほうがいいぞ」
「え?」
「っ……!」
「そのほうが、周りの人間にも害が及ばなくて済む」
ぎゅ、と肩を引き寄せてくれていた彼の腕に力がこもり、自然と見上げていた。
目が合ってすぐ柔らかく微笑まれ、ついまばたく。
……え、と……そうだったの……?
改めて彼から慶介君へ視線を向けると、先ほどまでより一層体裁が悪いような顔をして視線を逸らしていた。
そんな姿を、くすくす笑いながら見ている木野先生。
「……え?」
「戻ろうか」
「あ。……はい」
ぽん、と頭を撫でてくれた彼にうなずき、階段を顎で指した彼とともにそちらへ向かう。
あとは、ふたりの問題だから。
小さく聞こえたその言葉に、私もただうなずくしかできなかった。
「正座」
「……う。……はい」
彼の部屋に入ってすぐ、テーブルを挟んだ向かいの座布団へ正座させられた。
正面の彼はというと、そんな私を腕を組んで見たまま厳しい表情を浮かべている。
静かに聞こえたため息が、やけに重たそうで。
この部屋の雰囲気すべてをガラリと変えてしまう力があるだけに、やっぱりどきどきは収まりそうにない。
……きっと、お兄ちゃんならここで煙草を吸っているんだろうなぁ。
なんてふと思いはしたものの、当然口になんてできる状況じゃなくて。
「…………」
「…………」
上目遣いで彼を見ると、明らかに怒っていることだけはわかった。
……でも、理由がありすぎて、どれかわからない。
私が、慶介君とふたりでいたから?
それとも、抱きしめられたから……かな。
でも、あれは私が悪いんじゃないのに……。
「…………」
どんなことを言われるのかまったく検討がつかないので、ものすごく気まずい時間ばかりが流れる。
……はぁ。
さすがに耐え切れなくなって彼から視線を逸らすと、同時に深い深いため息が漏れた。
「なんで、酒なんか飲んだりした?」
「っえ!? 飲んでないですよ? 私」
「飲んでるだろ。頬だって赤いし、飲んだ顔してる」
言い切った途端、それはそれは怖い顔で瞳を細められた。
……そういえば、絵里も言ってたっけ。
まるで、お酒飲んだみたいよ、って。
でも、身に覚えなんてまったくないし、首を横に振るしかない。
私が飲んだのは、間違いなくジュースだったんだから。
「でも、本当ですよ! 私、ジュースとウーロン茶しか飲んでないですもん」
「……ジュース?」
「オレンジジュースです」
「…………苦かった?」
「え? どうしてわかるんですか?」
ぴく、と眉を動かした彼が、まるであのときのやり取りを見ていたかのように呟いた。
そのことに驚き、口元に手を当てて目を丸くする。
と、大きくため息をついてから目を伏せた。
「……誰にもらった?」
「え? 6組の……」
「……アイツか」
頭に手をやって前髪をかきあげ、瞳を薄く開いてこちらを見る。
……う。怖い。
また絶対に、何か言う顔だ。
「で? じゃあ、なんで泣いてた?」
「それは……いろいろあって……」
「それじゃ、わからないだろ? いろいろって何?」
ふー、と息を吐いた彼が腕を組み直して私を見つめた。
……取調べの刑事さんみたい。
ふと、ドラマのワンシーンが思い浮かぶ。
「……慶介君が、先生は遊んでるって言って……」
「俺がそんなことするワケないだろ」
「だけど! 木野先生と楽しそうに笑ってたとか、一緒に飲みに行ったとか、いろいろ言うんですもんっ」
ふるふると首を振り、眉を寄せて彼を見つめる。
非難するつもりはない。
それはない……けれど、やっぱり不安で、怖くて。
すごく心配だったんだもん。
「それに……」
「……ん?」
「荒木先生にも、聞いたんです」
「真治に? 何を」
「……先生が昔、お金で女の人はべらせてた、って」
「何!?」
恐る恐る呟くと、途端に表情を変えて眉を寄せた。
しばらく口を開けたままでいたけれど……呆れたようにため息をつき、スマフォを取り出して、耳に当てる。
「……もしもし、じゃない。真治。お前、余計なことしたろ」
静かな部屋だから、彼の声と同じくらい電話の向こうで喋っている声も聞こえた。
荒木先生、だろう。
慌てたように弁解するような声が聞こえて、思わず喉が鳴る。
「何? 信じないと思った? 馬鹿か!!」
「わ……っ」
「だいたいお前は昔からそうなんだよ! あのときだってそうだろ!? 卒論のときに――」
普段と違う姿に、思わず口へ手を当てる。
……こんなに怒鳴る先生……初めて見た。
あのお兄ちゃんといるときでも、見たことはない。
……なんだか、ちょっぴり面白い……かな。
不謹慎だとは思いつつも、くすっと笑みが漏れる。
「……あ」
「ったく」
ぷつ、と電話を切った彼が、くるりと私に向き直った。
不機嫌そうなのは先ほどまでとそう変わらないけれど、でもどこか優しい顔をしている。
「……わかった?」
「はい」
「もう少し、俺のこと信用するように」
「もぅ、信じてますよ! ……だけど、先生の友達の話だったから……」
「アイツは友達じゃない」
「そんなふうに言っちゃダメですよー。友達でしょ?」
「……人のことを笑って窮地に追いやるヤツが、友達か?」
それはそれは嫌そうに眉を寄せると、彼が小さくため息をついた。
1度は直ったはずの表情を、また不機嫌そうなモノへと変えて。
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