「……ったく。俺の目の前でキスされそうになりやがって」
「そ、それはっ! 私のせいじゃない……もん」
「だから、羽織ちゃんは少し隙がありすぎるんだよ」
「そんなこと言われても、困りますっ」
「……しょうがないな」
もう1度ため息をついてから立ち上がった彼が、後ろに回ってから抱きしめてくれた。
……温かい。
口ではなんだかんだと言うのに、こうして優しくしてくれる。
それが、やっぱり嬉しい。
「……しっかり信じるように」
「はい」
……? なんだろう。
彼が、私の両腕を撫でるようにして、手を滑らせている。
「なんですか?」
「消毒」
「……消毒?」
「そ。アイツに触られたから」
……なるほど。
「消毒までしてくれるんですか?」
「当然だろ。あんなヤツに目の前で触られたのを見て、悔しくならないワケないんだから」
首だけを曲げて彼を見ると、言葉どおりの顔をしていた。
意外、という言葉がぽんと頭に浮かぶ。
……だって、そんな。
これって……やきもち、になるのかな。
「…………」
そう思ってしまったら、もうダメ。
頬が勝手に緩んで、にんまりしてしまう。
「……先生って……」
「ん?」
「……ときどき、男の子みたいですよね」
小さく、本当に小さく笑うと、不意に彼の手が止まった。
……あ。
まずいこと……言った?
「ふぅん。男の子、ね。……へぇ」
「っ…だから、それはあの――」
「なんなら、子どもじゃない証拠見せてあげてもいいんだけど?」
「い、いいですよっ! そんな!」
「別に遠慮しなくていいんだよ? どうせ今なら、誰もいないし――」
「……っ! やっ……、平気なのっ! いいですっ!」
ぎゅ、と私を抱きしめていた彼の腕に力がこもり、思わず身じろぎするも、そう簡単に緩むはずはなく。
ぶんぶん首を横に振って彼を見上げると、その目はまったく笑っていなかった。
「……っん!」
顎に手を当てられ、無理矢理キスされた。
ほんの一瞬。
だけど目を開けたとき、すぐここで彼が睨んでいて、眉尻が下がる。
「……うぅ。ごめんなさい……」
「ったく。子どもなんて言うから悪いんだよ」
「こ、子どもって断言してないですよ?」
「似たようなモンだろ。……ほら、じっとして」
「やっ……! 先生、手つきがえっちなんだもん!」
「当たり前。証明するには、これが1番」
「あ、や、やだぁっ!」
彼の手から逃れるように身をよじるものの、結局抱きしめられて身動きは取れない。
……うぅ。手が……触り方が、えっちなんだもん。
もぅ、このままじゃ絶対大変なことになる!
「今日はここで寝なさい」
「っ……そんなわけにいきませんよ! 絵里に……絶対バレちゃいます」
「バレてもいいじゃない」
「よくないですよ!」
本当に目の前で瞳を細められ、精一杯首を振って拒否するも、彼はやっぱり離してくれなかった。
もお、やだぁーっ!
コンコン
「っ……!」
「はい」
「ごめん、祐恭君。ちょっといい?」
静かなノックのあとで、田代先生の声がドアの向こうから聞こえた。
途端、祐恭先生の声が変わり、ぱっと私も解放される。
……ほ。
ドアに向かった彼の背を見ながら、静かに息をつく。
「あ」
「……っ」
だけど、入ってきた田代先生と目が合った途端、彼が口を丸く開けた。
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙。
本当は何か言ったほうが良かったのかもしれないけれど、これといって言えるはずもなく。
徐々に赤くなる顔のままでいたら、彼が申し訳なさそうな顔をしてから祐恭先生に向き直った。
「やー、ごめん。あとでもいいんだ。俺のは」
「え!! いや、いやいや! そんなんじゃないですから!」
「いーよいーよ、気にしないで。ごめんね、邪魔して」
「違いますって!」
「ち、違いますよっ!!」
ははは、と笑いながら、回れ右。
そんな田代先生を、もちろん私も一緒に慌てて追いかける。
誤解とは言い切れ……ないけれど、でも、事実とは異なる。
「いや、ホントいいから。気にしないで」
「違うんですっ! 田代先生、本当に……!」
「……いやー、でもさー」
「違いますって!」
田代先生の腕を掴んで引き止めたのを見て、同じように彼の服を引く。
このまま誤解を解かないでいたら、絵里になんて言われることか……!
だから、先生も私も必死になっていた。
……もしかしたら、彼も私と同じように絵里の顔が頭に浮かんだのかもしれない。
――……そのあとは、何も起きなかった。
田代先生の効果かもしれないし、違うのかもしれない。
でも、ひとつだけ現実の影響を大きく受けた出来事があった。
それは、ちょっぴり苦いオレンジジュースを、がぶがぶ飲む……夢。
先生に言われるまで、あのジュースがお酒だなんてまったくわからなかったし実感もなかった。
少しだけ身体がふわふわするなとは思ったけれど、まさかそんなだとは思わなかったから。
寝る間際にそんなことを考えていたからか、どうぞどうぞと勧められて断れなくて飲んでしまう夢を見た。
……もちろん、相手は先生だったんだけど。
それがなんだかおかしくて、笑いながら目が覚めた自分が、ちょっと怪しいなと思ったけれど。
朝。
いつも通りに起きて身支度を整え、ひとりで食堂に向かう。
……だって、絵里ってば楽しそうにまだ寝てる子を起こして遊んでるんだもん。
まだ早いし寝かせておいてあげたら、って言ったら笑いながら言うんだよ?
『こんな楽しいこと、ほかにないじゃない』って。
そういえば昔、宿泊学習で真夜中に起こされたことがあったっけ。
真夜中に、私だけ。
どうして起こしたのって聞いたら、酷いんだよ?
『これから私、寝るから』だって。
……もぅ。
絵里ってば、ときどきよくわからない遊び思いつくんだから。
「……あ」
「…………おはよ」
階段を下りて食堂に向かったとき、ばったり慶介君と会ってしまった。
予想してなかっただけに、つい身を強張らせて構える。
すると、そんな様子を見てからくすくすと笑って首を横に振った。
「大丈夫だよ。何もしないから」
「……それは……」
「男のその言葉が、1番信用できないんだよ」
「っ……!」
すぐ後ろから聞こえた声で振り返ると、そこには彼をキツく睨んでいる先生が立っていた。
「羽織ちゃん、昨日はごめんね」
「え……」
「嫌な思いさせて、ごめん」
いきなり素直に謝られて、思わず面食らう。
でも、頭を下げられたままの姿勢を見ていられなくて、手を振って彼に声をかけていた。
「ううん。もう、大丈夫だから」
「俺は大丈夫じゃない」
「もぅ、先生!」
相変わらず睨んだまま先生が呟くと、慶介君が苦笑を浮かべて姿勢を直した。
視線を合わせ、ふっと表情を緩める。
その顔を見たら、まるで小さい男の子のように思えて、彼に対して怒っていた感情が溶けて消えた。
「……俺、卒業したらもう一度木野先生に会いに行くつもりなんだ」
「え?」
「フラれたんだ、昨日。……告白したけど、生徒とはそういう仲になれない、って」
突然の言葉に目を丸くすると、小さく俯いて自嘲気味な笑みを浮かべた。
でもそれは一瞬。
すぐに、にっこり笑って顔を上げる。
「けど、フラれたからって諦めるつもりなんてないし、やっぱ、好きだから……さ。生徒じゃなくなったら、会いに行くんだ。もちろん、これからだって、気合入れたままでいるけどね」
胸を張った彼を見て、つい笑顔になった。
……そっか。
慶介君、ホントに木野先生のことが好きだったんだ。
だから昨日、あんなに怒ったんだね。
……やきもち、だったのかな。
先生と同じように、彼もまた。
「だからって、彼女に抱きつく必要はなかっただろ」
先生が苦々しげに呟くと、慶介君がニヤリといたずらっぽく笑った。
今の今までとは、まるで違う顔。
ふたりの間にバチッと見えない火花が散った気がして、一歩後ずさる。
「俺、羽織ちゃんみたいな子、本当に好きなんだけど」
「っな……!」
「……え……っ」
「だから、本気で取ってやろうかと思った」
さらりと言われたとんでもない言葉に思わず喉を鳴らすと、いきなり後ろから抱きしめられた。
「っわ!?」
「誰にもやらない」
ぎゅっと抱きしめられ、一瞬息が詰まる。
だけど、そんな私の様子を見てから、慶介君はおかしそうに笑い出した。
「羽織ちゃん、とんでもない彼氏で大変だね」
「な……ンだと……!」
「独占欲強いのも、程々にしないと飽きられますよ」
「そんなこと考えさせるヒマすら与えないね」
フン、と彼が笑ったのを見て、少し驚いたように慶介君が目を丸くした。
だけどすぐ、また小さな声で『羽織ちゃん、飽きたら俺のトコにおいでよ』と続け、先生がさらに腕へ力をこめた。
「……まぁ、そういうことだから。もしまた会えたら、そのときはいい報告ができるようにがんばるよ」
「うん。……がんばってね」
「ありがとう」
うなずいて微笑むと、彼も笑みを見せてくれた。
それから、きびすを返して食堂へと向かう。
「…………」
「…………」
「……先生、苦しいです」
「あ? あぁ、ごめん」
小さく呟いてから彼を見上げると、ようやく離してもらえた。
手を解かれてから、ようやく一息。
それから彼を見ると、いつもとほぼ同じ顔に戻っていた。
「ん?」
「……先生、独占欲強いんですか?」
「……ほかの欲も強いけど?」
「ほかの欲?」
「人間、欲があるだろ? 食欲、睡眠欲……と、あともうひとつ」
「……もうひとつ?」
「そ。羽織ちゃんに対して、特別強いもの」
『特別』という言葉をことさら強調した彼が、意地悪っぽく笑った。
「……え?」
顔を覗き込むようにしたかと思うと、耳元に唇を寄せて小さく呟かれる。
「な……っ!」
その言葉を聞いた途端、頬が赤くなった。
「さて。飯食って帰るか」
「せ、先生っ!」
「ほら、飯だよ、飯。食欲」
「もぅっ……! えっち!」
先ほどの言葉が耳にこびりついているような気がして、ふるふる首を振るもののやっぱり頬の熱はそう簡単に取れそうになかった。
……もぅ。
本当に、なんてことをさらりと言ってくれるんだろう。
「家に帰ったら、その欲満たそうかな」
「っ……! やっ!」
「だから、拒否権はないんだよ。さ、早く帰らなきゃなー」
「……うぅ」
くすくす笑いながら食堂に入ると、早速席に着いてごはんを食べ始めた。
だけどそのお皿には、鮮やかな色のプチトマトが今日はふたつ乗っている。
まじまじとそれを見ていたら、お箸を持ったままの彼と不意に目が合った。
でも、このときばかりは首を横に振り、眉も寄せる。
「……食べませんよ?」
「え? ……いや、食べてほしい」
「だめです。先生が……その、ヘンなこと言い出さないって約束してくれるなら、食べますけど」
「……あー。じゃあ、いいよ」
「えぇ!? ちょっ……!」
「ほら、早く食べなさい」
「……もぅ」
ぱっと顔を逸らしてそのままあっさりと手で追い払われ、仕方なく自分も席に着く。
ここで食べる、最後の食事。
だけど、これもやっぱり野菜とお魚とがバランスよく盛り付けられていて、『おいしそう』と笑みが漏れた。
――……長いと思っていた合宿も、今日で終わり。
もうすぐ、夏休みもあける。
……なんだか、今年の夏はいろいろあったなぁ。
「……えへへ」
どうしてもいろいろ思い出しちゃうから、頬が緩んだまま戻らない。
彼と付き合って、初めての夏。
……本当に、すごくすごく思い出深いものになった。
また来年も……どうか。
こんなふうに、ステキな夏でありますように。
「いただきます」
お箸を手に呟くと、ようやく入り口から絵里が入ってくるのが見えた。
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