「突然だけど、今日で解散することにしたから」
 それは3月31日の日曜日。野菜ジュースを飲むべく、冷蔵庫を開けたときだった。
「え? か……」
「解散よ、解散。我が家解散、閉廷、終了。おーけー?」
「おーけーじゃねーよ。何言い出すかと思えば、何言い出すんだ。つか、ぜんっぜんわかんねぇし。解散? 何が?」
「何がじゃないっつってんでしょ。だから、ウチが解散なわけ。ということだから、はい。ふたりとも、最低限の荷物をまとめて外に出なさい」
「わわっ!?」
 春休みまっただ中の朝。しかも日曜日。いつもよりちょっとだけ……ううん、どっちかっていうと、普段よりだいーぶ遅い朝ごはんの時間だけに、ちらりと時計をみたら11時近かった。
 そんな中、いまだパジャマの私と相変わらずジャージというかスエットというかのゆるい格好なお兄ちゃんは、お母さんの手によってまさに字のごとく、玄関まで引っ張ってこられた。
 えええ……なにこれ、何が起きようとしてるんだろう。
 ていうか、解散って何?
 そもそもはそこだ。
 そういえばお父さんの姿はすでになく、もしかして……え、そういうこと?
「お父さんは……?」
 まるで埃でも払うかのように両手を叩いたお母さんは、意味ありげに口を開くとにっこり笑った。
 ああ、聞いちゃいけなかった? ひょっとして。
「お父さんはすでに解散済みよ。だから、アンタたちも安心して好きなところへ行きなさい」
 解散済みって何……?
 ていうか、そんな言葉あり……?
「わわっ!? ちょ、え、あっ!?」
「うっわ!」
 ぐいぐいと追いやられ、目の前で見慣れたドアが閉まる。
 音を立てて鍵までかかったのがわかり、ちょっと血の気が引いた。
「おかっ……お母さんちょっと待って!!」
「っざけんなって! つか、ちょっと待て!」

「せめて着替えさせて!」
「せめて着替えさせろ!」

 同じセリフを言ったあたり、兄妹だなと思った自分がちょっと切なかった。

「で? お前どーすんの?」
「どうって?」
「いや、当面の居場所だろ。俺はどーにでもなるけど、お前は? じーちゃんちでも行くか?」
 朝食を食べてなかったのは私だけじゃなかったらしく、締め出されたあとはふたりで近所の洋食屋さんへモーニングをいただきに。
 正確には、モーニングの時間帯は開けてないんだけど、お兄ちゃんが無理を言ったお陰(?)で無理やりにご馳走になっている。
 厚めのベーコンと温野菜のサラダ、チーズオムレツにフレンチトースト。
 ああ、夢みたい。すごくおいしくて、幸せで、こういうスペシャルがあるなら、解散もたまにはいいかなとか思っちゃった自分に疑問をいだく。
「うーん、おじいちゃんちだとちょっと遠いし……それに、宿題もやらなきゃいけないんだよね」
「宿題なんてどこでもできんだろ」
「……それは……」
「あー、てめぇじゃ解けねーってか」
「もぅ。なんでそういう言い方するの?」
「事実をひけらかしたまで」
 私とは違ってエッグスラットに分厚いトーストという、ザ・モーニングを食べながら、お兄ちゃんは鼻で笑った。
 ああひどい、傷ついた。
 甘めのカフェオレを入れてくれた、ここのオーナーでありお兄ちゃんの……というか私にとっても幼馴染なんだけど、年が離れていることもあって、仲良しこよしという感じではないんだよね。
 もっとも、だからこそ比較対象としてはとても大人で、とても優しくて、とても紳士的だと思うんだけど。
「相変わらず、仲良いよなー。ふたりとも」
「神代さんにはそう見えるんですか?」
「見えるよ。俺ひとりっ子だし、昔から、なんだかんだ言いながら羽織ちゃんの世話焼いてるコイツを見るたび、兄妹っておもしろいなーって思ってる」
「世話やいてねーし」
 カフェラテのマグが、テーブルに当たって硬い音を立てた。
 きっと、神代さんがお兄ちゃんだったらもっと優しいんだろうな。
 そして、勉強だって馬鹿にせず教えてくれるんだろうな。
 ああ……なんで私にはこのお兄ちゃんなのか。
 言ってもどうにもならないけれど、小さいころから何度となく思ったことを、改めて思う。
「まあとりあえず、お前どうするか考えとけよ。俺はコイツんとこにいるから」
「え? 無理だよ?」
「は? なんで」
「なんでって、なんで平気だと思ってんの? 俺今、店で寝泊まりしてるから無理」
「はあ!? こんな近いのに? 馬鹿なの? 帰れよ!」
「馬鹿って言ったやつが馬鹿なんだからな」
 肩をすくめた神代さんに向かって、お兄ちゃんがめちゃくちゃな理論をまくし立てた。
 そのあともいろいろ言っていたけれど、当然、神代さんの言い分は変わらず。
 でも、当然だと思う。
 お兄ちゃん、いろんな人に対していつもこんなふうに横暴なのかなぁ。
 だとしたら、申し訳ない気持ちでいっぱい。
「それにしても、お袋さん相変わらずおもしろいよなー」
「おもしろいじゃ済まねぇっつの」
 ガシガシと頭をかいたお兄ちゃんは、お財布を取り出すもポケットへ戻した。
 え、そこ払うところでしょ?
 慌てた私を見て、神代さんが首を横に振る。
「いいよ、平気。ツケとくから」
「おごりだろ」
「こっちも商売なんで」
 空いたお皿を片付けながら笑った彼は、やっぱり優しい人なんだと思う。
 お店を出ようとしたときに、『まあ最終的に困ったらなんとかしてやるよ』と付け足したから。

「お前、絵里ちゃんちとか無理なわけ?」
 国道を車で通りながら、視線は歩道を歩く人たちへ向かう。
 ああそうか、桜の時期だもんね。
 週の半ばに開花宣言が出されたとあって、どこからか舞ってきた桜の花びらが道にはりついている。
 家族で、毎年お花見に行ってたのにな。
 突然の解散宣言のせいか、妙に切なさを感じてみる。
「絵里の家は……うーん、どうかなぁ」
 お兄ちゃんは知らない。絵里が、彼氏さんと同棲していることを。
 彼氏さんは私もよく知っている人だし、とてもいい人で優しくて、きっとこんな状況になった私のことを聞けば、ふたつ返事で了承してくれると思う。
 でも、いつもお世話になっているのもあるし、何より、同棲しているお家にお世話になるのはなかなか勇気もいるわけで。
 嫌な顔しないでいてくれるのはわかるけれど、負担になるのは嫌だ。
 そんな、妙な気持ちもあって簡単に『そうする』とは言えない。
「そういうお兄ちゃんは彼女さんいないの?」
「いたら麻斗を頼ってねーだろ」
 嫌味かお前、なんて言われたところで知らないから聞いたのに、そういう口の悪さが災いしてるんだろうなぁ。残念。
 神代さん、今ごろくしゃみしてるんじゃない?
 でも、土日はもちろん平日だって飲み会や遊びで帰ってくるの遅いんだもん、てっきりそうだと思うでしょ。
 ……うーんどうしよう。困った。
 大きい交差点で、右折レーンにハンドルを切ったのを見ながら、今さらになって事の重大さに気づく。
 家がないって困る。
 不便だとかそういうレベルじゃなくて、生活自体が破綻するんだ。
 今が春休みでよかったと安心するべきなのか……て、元はと言えばお母さんの謎の宣言のせいなわけで。
 いくら『当面の生活費あげるわ』と茶色いお札を握らされたところで、やっぱり腑に落ちない。
「ま、かえってお前にはちょうどいいかもな」
「え?」
「こっちの話」
 もしかしなくても、お兄ちゃんは次の行き先というかアテがあるらしい。
 左レーンにウィンカーを出してすぐ、スピードが落ちる。
 細い道を左折してすぐ、の駐車場へ。
 え……マンション?
 見慣れない壁のマンションの駐車場へ、迷うことなく乗り入れたってことは、ここがお兄ちゃんの目的地なんだろう。
 え、でも待って、いいの?
 さすがに住宅のお値段がいかほどか把握できてないけれど、高そうなことはわかる。
「……入っていいの?」
「ここじゃなきゃ、どこ行くんだよ」
 あからさまにため息をつかれたけれど、でも、きっとお兄ちゃんの知り合いの方のマンションってことだよね?
 来たことはないから、親戚の線は薄い。
 マンションで一人暮らししているのかな。
 それとも、ご実家?
 どっちにしろ、厄介になるにはとてもハードルが高い気がする……ていうか、このご時世子どもじゃない私たちが厄介になる時点で、結構な迷惑なんじゃ。
「よ」
「っ……」
 慣れた手つきで押された部屋番号のあと、短い応答の声が聞こえた。
 低い男性の声。
 聞き慣れないというか、それだけでどきりとする。
「え、あ」
 オートロックのガラス扉が開き、シャンデリアの下がる広いエントランスへ。
 掃除をしている管理人さんと思しき人が、お兄ちゃんを見るなりにこやかに挨拶してくれた。
 え……と、知り合いな感じですけど、それはどういうことなんだろう。
 ただの挨拶だけでなく、『この間教えてもらった新商品、よかったですよ』なんて世間話からの憶測だけど、そこそこの関係はできている人なんだろう。
 相変わらず、お兄ちゃんの交友関係は謎すぎて戸惑うばかり。
 このマンションだって、すごく通い慣れてる感じするけれど、どうなの? それって。
 ああ、もしかしたら平日も遊びに来てるのかな。
 うまるで住んでいるかのように慣れた手つきでエレベーターを操作する姿を見ながら、推測は広がっていく。
「…………」
 マンションの中に門扉があるの、初めて見た。
 絵里が彼氏さんと住んでいるのもマンションだけれど、いわゆる一般的なマンションで、それぞれの玄関の前にこんな門扉はついていない。
 え、ひょっとしなくてもお高いマンションってこと……?
 それとも、今のマンションはこういうものなの?
「わっ」
 なんて考えていたら、いつの間にチャイムを押していたのか、しげしげと眺めていた玄関の扉が向こうから開いた。
 たちまち心拍数が上がる。
 単純に驚いたというのもあるけれど、それ以上にーー。
「お前、相変わらず連絡な……え?」
「会ったことなかったっけ? 妹。4月で高3。しばらく世話んなるから、よろしく」
 応答で聞いた声よりも、柔らかくて少しだけ高い。
 眼鏡越しの瞳は、当然だけど戸惑ったように私を見つめた。

「あの、すみません……突然、お邪魔してしまって」
「え? いや、それは構わないよ。むしろごめんね、散らかってて」
「いえ、そんな!」
 って、お兄ちゃんはくつろぎすぎだから……!!
 リビングへ通してくれた彼は、お兄ちゃんの高校時代からの友人の瀬尋祐恭さん。
 そういえば……と思い起こしてみると、昔から、我が家で『祐恭』という名前はよく聞いていた。
 きっと、私が気づいていなかっただけで、家にも来ていたんだろうなぁ。
 お兄ちゃんだけでなく、お父さんたちも彼の名前を口にしていることがあったから。
 広いリビングは、テレビとソファ、テーブルなどがあるだけで、ほとんど物が置かれていない。
 散らかっていると祐恭さんは言うけれど、実際に散らかっている部屋を毎日見かけている私からしたら、モデルルームのようだと心底思う。
 すでにソファへだらしなくもたれながら、我が家かのようにチャンネルを変えているお兄ちゃんを見ながら、どうしてこうも違うものかと改めて感じるしかなかった。
「それにしても、解散とはね。お前何かやらかしたんじゃないの?」
「失礼だぞ。立派に納税もして社会貢献果たしてんだろ。そんな俺になんの文句がある」
「いや、納税だけが義務じゃないから」
 どこから取り出したのか、ポテトチップスを片手にまたチャンネルを変える。
 だけじゃなくて、なぜか口の開いたビールの缶がテーブルに。
 え、飲んじゃうの? てことは……。
「お前、車は?」
「しばらく世話ンなる」
「いや、そうじゃなくて。もう飲むのか? まだ昼すぎだぞ?」
「いいじゃん。お前運転できンだろ?」
「そういう次元の話をしてるんじゃないんだよ、俺は」
 ため息をつかれたのを見て、こっちが申し訳なくなる。
 ああ、すみません本当に。
 こんなだらしない人が兄で、ごめんなさい。
「いーじゃん別に。お前ンち、部屋余ってんだろ?」
「余ってるっていうか、使ってないから掃除しないと無理だと思うぞ」
「いーんだよ。家事は羽織がやンだろ?」
「なっ……」
「飯も作れるしな」
「お兄ちゃん!」
 さらっと言われて、こっちが慌てる。
 え、え、本当にお世話になるつもり?
 だって、今日が初めましての人なんだよ?
 お兄ちゃんはすでに関係ができてるからいいけれど、私はその……はじめましてなうえに、大人の男性と接する機会なんてほとんどないわけで。
 学校の先生とは接してるけど、そういうのと違う。
 なんていうかこう、申し訳ないけど、カッコいいわけで意識せざるをえない。
 勝手にどきどきしてるのは私だけだろうけど、初めましてからの一緒の生活なんて、彼が了承するはずなくて……というか、了承してもらえたとしても私の気持ちとしてはどうすればいいかちんぷんかんぷんで!
「羽織ちゃん、学校は……ああそっか、春休みか」
「はい」
 ひとり勝手に盛り上がっていたらしく、ほっぺたが熱い。
 クールダウンすべく手の甲を当てると、ひんやりと心地よかった。
「今の高校生って、春休みに宿題あるの?」
「……出ました」
「そいつ解けなくて困ってんだとよ。暇なら脳トレ代わりに見てみ」
「っお兄ちゃん!」
 どうしてそういう弱点をほいほい公開しちゃうかな。
 これでも、少しはよく見られたいというささやかな願望があるわけで。
 ……うう。もちろん、そういうのはすべてバレてしまうなら、早いほうがいいのかもしれないけれど。
 でもだって。うー。
「なんの教科? 教えられるといいけど」
「えっと、数学です」
「ああ、それなら。覚えてるか怪しいけどね」
 う。
 これまで私に向けられていない種類の笑みに、思わずどきりとした。
 男の人ってだけで緊張するのに、そんなに優しく笑われたら、誰だってそうなると思うけれど、どきどきが最高潮。
 お兄ちゃんと全然違うタイプだし、物腰も穏やかだし、何より優しい。
 ……えっと……本当に……一緒に暮らしていいの?
 いつまで『暮らす』のかわからないけれど、果たしてその日まで私の心臓は持つだろうか。
 開いた問題集を見るためだってわかっているけれど、フローリングへ手をついた祐恭さんがこちらへ身体を寄せた瞬間、心拍数が急上昇した。
 

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