「少し休憩しようか」
「……はい」
最初はとてもどきどきしていたけれど、次第に現実に引き戻され、あれから1時間半経った現在は違う意味でどきどきしている。
あああー……勉強できない子だということが、バレてしまった。
うう、2年の復習とはいえ第1問からつまずいた私をフォローすべく、祐恭さんは『大丈夫だよ。ゆっくりやろう』と言ってくれたけれど、それが申し訳ないやら情けないやらで、とても切ない気持ちでいっぱいです。
頼りにならないお兄ちゃんは、洋画を見ながら2本目のビールを開けている。
あの人、きっとどこへ行っても生きていけるんだろうな。
とはいえ、あそこまでの図太さは欲しくない。
「いやー、久しぶりだな数学。おもしろいね」
「っ……おもしろい、ですか?」
「うん。自分も理系だったから、なんか懐かしいなって」
ぱらぱらと問題集をめくりながら、祐恭さんが笑う。
その笑顔をこんな近くで見れるのは嬉しいけれど、情けなくて正面から目を見れません。
「何がいい? うといっても、紅茶か缶コーヒーか……ペットボトルでよければ、緑茶もあるけど」
「じゃあ、紅茶をもらってもいいですか?」
「好き?」
「えっと……そうですね、コーヒーより飲みます」
「俺と一緒だ」
「っ……」
意外そうな顔からの、緩んだ表情を目の当たりにしてしまい、落ち着いたはずの鼓動がふたたび大きくなる。
うわ、うわ、うわ。
男の人のこういう顔、すっごくどきどきする。
お兄ちゃんがしそうにない柔らかい表情に、顔も赤くなってるのがわかるほど熱い。
祐恭さんがキッチンへ向かったお陰で、気づかれてないであろうことは幸いだけれど。
「っあ、私やります」
「いいよ。気を遣わないで」
「祐恭さんこそですよ! これからお世話になるってだけで、十分申し訳な……」
すぐにお湯の沸く卓上ポットを手にした彼の隣へ並んだとき、不意に視界に入るシンク。
そこは、とてもピカピカで汚れが一切ないけれど、コンビニでよく目にする形の容器がたくさん積まれていた。
たくさん。
そう。とってもたくさん。
「あー……俺、普段料理しないんだよね。大抵、買ってきておしまい」
「そうなんですか?」
「うん。食材買っても余らせるどころか、何作ったらいいかわからないし。手間だし。だったら、弁当でいいかなって」
初めて見たバツの悪そうな表情に、ちょっぴり嬉しくなった。
ずっと勉強を教えてもらっている間は、見れなかったもの。
それどころか、部屋だって片付いているし、マメな人なんだろうなと勝手に思っていただけに、意外な一面を見れたことで彼のことが少しわかったように思えた。
「しばらくはいいんじゃね? 羽織が飯作るってよ」
「本当にいいの?」
「えっと、あまり手のこんだものでなければですけれど」
しれっとアテにされたというか、まったく自分がやらないかのような発言に異議を唱えようとしたものの、それより先に祐恭さんに反応され、こくりとうなずく。
お母さんが夜遅くなることもあって、中学生になる前から料理には携わってきた。
ひととおりのものは作れるし、作ったことのないものでも、今はレシピさえ調べれば作れないものはないんじゃないかってくらい便利な世の中なわけで。
ちなみに、いつからかお弁当も自分で作ることのほうが多くなった。
「すごいな。若いのに自立してる」
「そんなことないですよ! バイトもしてないですし、全然です」
「いや、自分の身の回りのことをきちんとできてるってことでしょ? 俺はしなかったから、十分大人だと思う」
心底感心したように言われ、慌てて手を振るものの内心は嬉しいもので。
ありがとうございますと小さく口にすると、キッチンのカウンター越しにお兄ちゃんの意地の悪そうな笑い声が聞こえた。
「そいつが自立してたら、世の中の女子高生の8割が自立ってことになんな」
「そんなことないだろ」
「あるだろ。今日だってソイツ何時に起きーー」
「お兄ちゃんっ!」
いつもの調子で声をあげたあとで後悔する。
あああ、ここ家じゃないのに。
ちょっとだけ目を丸くした祐恭さんを見て口元へ手を当てるものの、後の祭り。
でも彼は『賑やかになるって、結構いいものだね』と人の良さそのものの言葉とともに笑みを浮かべた。
「あの、本当によかったんですか?」
「いや、むしろそれは俺のセリフ。良かったの? 俺とふたりだけで」
夕方とあって雑多な感じもする、近所のショッピングモール。
お酒を飲んだお兄ちゃんは使いものにならないとわかっていたけれど、買い出しには当然のようについてこなかった。
初めましての人とふたりきりでお出かけ。
しかも、彼の運転する車で。
マニュアルで。密室で。天井の低い車で。
うう、思い出すだけですごくどきどきする。
もちろん、そんなふうに挙動不審なのは私だけで、祐恭さんは特に変わった様子もなく運転してきてくれた。
「ごめんね、家に何もないせいで余計な仕事増やして」
「全然そんなことないですよ! 私も、欲しいものがあったので助かります」
あのあと休憩を挟んで、ふたたび数学地獄に突入したけれど、前半とは違って雑談混じりとあって正直とても楽しかった。
祐恭さんとお兄ちゃんの高校生のころの話とか、出会った当初のお兄ちゃんの印象とか。
私の知らない話ばかりで、おもしろかった。
「カゴ、ひとつで足りる?」
「と思います」
ショッピングカートへカゴを乗せると、祐恭さんが押してくれた。
……ちょっと待って。
えっと、この状況ってはたから見たら、あれだよね。
か……かかかカップルとかに見える……かな。
「っ……」
年齢差があることも、自分が子どもっぽいことも重々承知しているけれど、そういう妄想は許される範囲内だろうか。
女子校とあって付き合ったこともなく、中学時代だって早い子たちとは違って友達とワイワイ過ごすしかしてこなかった私が、まさかこんな経験をすることに なるなんて。
うう、すごくどきどきする。
でも、すっごく嬉しい。
付き合ってるわけじゃないのはわかっているけれど、でも、こういうシチュエーションってすごく憧れなんだもん。
「夕飯、食べたいものありますか?」
「そうだなー……昼がカップ麺だったから、できれば米がいいんだけど……ってああ、米買わないとないや」
炊飯器はあるよ、と得意げに言われて、それがあまりにもかわいくて笑みがもれる。
馬鹿にしてるわけじゃない、もちろん。
でも、初めて会った祐恭さんは、なんでもできる完璧な人だという印象だったから、違う意味で崩れるのが嬉しい。
「羽織ちゃんって、孝之と似てないね」
「安心しました」
「そう?」
「だってお兄ちゃんのいいところ、思いつかないです」
さっきだって、出がけに『焼きプリンと枝豆とビールの追加』と言いながらお金をまったく出さなかった彼は、果たして本当に居候なんだろうか。
来たときと違って、数時間で雑多なリビングと化した有り様は、情けないとしか言えない。
「しっかりしてるっていうか、きちんとしてるっていうか」
「え……そんなふうに言われたの初めてですよ?」
「そう? 俺の印象は、真面目できちんとした子から揺らいでないけど」
まっすぐ目を見て告げられ、嬉しいよりも先に恥ずかしさがこみ上げる。
どうしよう、こんなふうにストレートに褒められたこと、なかったんじゃないかな。
すっごく嬉しいけれど、申し訳ない気もする。
だって私、そんなにちゃんとしてないもん。
「えっと、多分私祐恭さんが思ってるほどちゃんとはしてないと思います」
「そうかな? 金銭感覚も価値観も、ずれてないと思うけどね」
「……そんなふうに言われたのも初めてです」
だから困る。どういう顔したらいいんだろう。
いい子だねって言われてるのとは違う、もっと具体的な言葉。
ああ、家族以外の人に認めてもらえるってこんなに嬉しいものなんだ。
「祐恭さんの印象は、ちょっと変わりました」
「俺、何かやらかした?」
「え! 違いますよ。なんていうかこう、普通の男性なんだなって」
「……それはどういう意味で?」
「えっと……なんでも完璧にこなす人だと思っていたので、そうじゃなくて、もっと人らしいというか……あ、もちろんパーフェクトなんでしょうけれど、そういう中にもかわいらしい部分があるっていうか……うー、なんかごめんなさい。変な意味じゃないんです」
言葉がうまくまとまらないのは、祐恭さんが困ったような顔をして見つめてくるから。
そんな顔されたら、すらすら言葉なんて出るはずない。
かわいいっていうのは失礼かなって思うけど、でもかわいいと思った。
「まあ、パーフェクトじゃないのはバレちゃったよね」
「え? でもーー」
「料理できないし、ゴミを都度捨てることもしないって、羽織ちゃんはもう知っちゃったでしょ?」
「あはは」
いたずらっぽく笑われて、それがあまりにもギャップすぎて、笑みがこぼれる。
こういうところが、らしくないんです。
等身大の彼そのものを見れたような気がして、ただただ嬉しい時間だった。
「うまい」
真剣な顔でつぶやかれて、思わず笑ってしまった。
だって、そんなふうに言ってくれるなんて思わなかったし、これまでの人生で言われたこともないセリフ。
ただただ嬉しくて、隣でもくもくと食べているお兄ちゃんはなかったことにすらなる。
「なんか、この家でこれだけの食事が食べられるって感動する」
「そんなふうに言ってもらえて、私も嬉しいです」
「すごいね。食事の質が上がると、確実に生活の質が上がるんだな。ここで味噌汁飲むの初めてだよ」
なかなか衝撃的なセリフを聴きながらも、言葉通りにお箸を進めてくれるのを見ながら、本当に嬉しかった。
認めてもらえるって、こんなにも自己肯定感が高まるものなんだなぁ。
食事を作っておいしいと言われたことは、もちろん両親から経験しているけれど、全然違う感覚。
嬉しい。
どきどきは、大きな影響を及ぼす。
「でも回鍋肉だろ? しかもパウチの調味料の。こンくれー俺でもできる」
「お前料理できるの?」
「失礼だぞ。俺をなんだと思ってる」
ことごとく失礼な発言を繰り返すお兄ちゃんは、お箸でバラ肉をつまんだかと思えばごはんへバウンド。
ああ、ごはん多めに炊いておいてよかった。
絶対通常量では足りなくなるパターン。
ちなみに、すでに2杯おかわりをしている。
「つか、一人暮らししてだいぶ経つくせに、飯のひとつも作ってねぇことが俺は驚き」
「面倒臭いんだよ。極力そういうところは手を抜きたい」
「まあ気持ちはわかるけど」
そうはいうけど、お兄ちゃんだって普段料理はしない。
というか、作るのは自分用の食事のみで誰かのためってわけじゃない。
もっとも、生きていく上ではそれさえできれば十分なんだろうけれど。
「あ。明日ってお仕事ですよね?」
「うん。年度始めだね」
「あの、何時ごろ出ますか? 朝食作ります」
さしでがましいかなぁと思いながらも、でも、喜んでもらえたことで『しようかな』が『したい』に変わった。
普段どの程度の食事を摂っているかわからないけれど、お世話になるなら私にできることをしたい気持ちは強い。
けれど、言った瞬間祐恭さんは咀嚼を止めた。
「……えっと」
「いいの?」
「え?」
「いや、すごい嬉しい。朝から米食えるとか、実家以来」
ああよかった、受け入れてもらえた。
まずかったかなぁと思いきや、反対にとても嬉しそうな反応をされて、心底安堵する。
作りたい。食べてもらいたい。
少しずつ欲が芽を出すけれど、これは許される範囲だと思っていいよね?
「ありがとう。でも、無理しないでね」
「大丈夫です!」
「んじゃ、俺はベーコンエッグで」
「え、お兄ちゃんは自分で作るでしょ?」
「なんでだよ!」
3杯目のお代わりから戻ってきたお兄ちゃんをさらりと牽制すると、祐恭さんはクスクス笑って『仲いいな』とつぶやいた。
「なんでコイツなんだよ!」
「いや、仕方ないだろ? うちに布団なんて、1組しかない」
当面の間使ってと言われたお部屋は、カーテンとエアコンのみとあってかさらに広く感じる。
春とはいえ、ちょっぴり肌寒い夜。
祐恭さんが用意してくれたのは、真新しいお客様布団のセット。
ああ、なんかこう無性にどきどきします。
今日はここに来てからずっとそうだけど、夜になるとさらにどきどきが多くてとても困る。
……よそのお家のお風呂ってだけで、どきどきするでしょ?
当たり前だけど、もうすでに祐恭さんもお風呂上がりなわけで。
私服とは違うパジャマ姿に、今が夜でプライベートな時間でといろいろ思っちゃうから落ち着かない。
「だいたいお前、ときどき泊まっても布団で寝ないじゃないか」
「それは暮らすつもりで来てねーからだろ! 一晩ならソファでいいけど、毎日それじゃ身がもたねぇっつの」
「じゃあ明日買ってくれば?」
「……ち。余計な出費だな」
「じゃあ畳に毛布でいいじゃないか。金かからないぞ」
「さすがに寒いだろ。風邪ひく」
渋々納得したらしいけれど、お兄ちゃんてばどこまでも自分中心なんだなぁ。
とはいえ、私も譲ろうとはした。一応ね。
だけど、お兄ちゃんよりも先に祐恭さんが拒否してくれたこともあり、お客様用のお布団は私が借りることになった。
「必要なもの、まだまだありそうだね。また週末になっちゃうけど、大きいものは買いに行こうか」
「ありがとうございます」
つい、クセで『すみません』が出そうになるけれど、何度目かで注意されたので変えていきたい。
どうしてここまでしてくれるんですかって尋ねたら、不思議そうな顔をされた。
『困ってる子がいたら、自分にできることはしたい』
その言葉が、彼の人柄のすべてを語っているように思う。
「あ、それとこれ。渡しておくね」
「え? ……っえ!」
祐恭さんが目の前に差し出したのは、見慣れない形の金属。
だけど、鍵に間違いない。
「え、えっ!」
「さっき買い物に行ったとき、一緒に作っておいたんだ。今週いっぱいは春休みだよね? となると、あったほうがいいかなと思って」
「いいんですか? 鍵、受けとっても」
「もちろん。不便でしょ」
彼が言いたいことはわかるけれど、いわゆるこれは合鍵というもので。
どういう形であれ、それを渡されるということは私の人生史上ありえないことであり、初めてであり、ものすごく大きな体験。
「ありがとうございます」
そういう意味じゃないのはわかる。
でも、どきどきのもとだもん。絶対的な。
受け取った鍵は予想より重さがあって、きっと気持ちも反映しているんだろうなと思った。
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