「……まだ繋がらない」
 解散宣言が出されたあと、実家に電話をかけるも誰も出ず。
 お母さんの携帯へかけると繋がるんだけど、お仕事みたいで夜しか連絡が取れなかった。
 いつもは折り返しがあるんだけど、今日に限ってなし。
 うーん、困った。
 何が困ったって、明日から学校が始まるんだけど、リュックがないんだよね。
「…………」
 荷物を運び出すために持ってきたトートとキャリーケースはあるんだけど、リュックは考えてなかった。
 うーん。
 まあもっとも、気づいたのが遅かった私にも責任はあるんだけど。
 すでに23時を回っていて、あたりはしんとしている。
 明日は花の金曜日。
 学生にとっては今日までが花みたいなものだから、明日から現実よお久しぶりなんだけど。
 夕食のとき、祐恭さんに『何か必要なものある?』って聞かれたのになあ。
 『ばっちりです』なんて言った自分に、今ごろツッコミを入れても遅いけれど入れさせてもらう。
 肝心のバッグがなくて、どうやって登校するつもりなの私。
「…………」
 祐恭さん、まだ起きてるかな。
 お兄ちゃんは家からリュックなんて持ってこなかったから、頼れるのは祐恭さんだけ。
 ただ、社会人になるとリュックをほとんど使わないらしいから、果たして今手元に空いているものがあるかどうか、わからないところだけど。
 そうっとドアを開けて廊下に出ると、リビングにまだ明かりが見えた。
 お兄ちゃんはお風呂に入ったあと『ちょっと風邪気味だから寝る』なんて珍しいことを言っていたので、あそこにいるのは祐恭さんなはず。
 だとしたら、よかった。
 もう寝てしまっていたら明日の朝聞いてみようと思ったんだけれど、それもバタバタするだろうしと悩んでいたので、ほっとする。
「……あ……」
 ひょっこり中を覗くと、祐恭さんがいた。
 明かりもテレビも付いているけど、ソファへもたれている彼は、目を閉じていた。
 テーブルには、大きなクリップで止められた分厚い書類と思しき束が3つ。
 いろいろな図やら英文やらがあって、ちらりと見ただけでギブアップレベルだった。
「…………」
 うーん、どうしよう。
 この状態じゃ、リュックがどうのとお願いする場合じゃない。
 今日は昨日までと比べて急に気温が下がったこともあって、ひんやりと肌寒い。
 このままここで寝ちゃったら、風邪ひいちゃうよね。
 お兄ちゃんはいいとして、祐恭さんが風邪をひいちゃうのはよくない。
「……祐恭さん」
 気持ち深呼吸してから、そっと肩に手を置く。
 パジャマ越しに体温が伝わって、それだけでどきりとした。
 眼鏡をしたままだから、きっと寝ちゃうつもりじゃなかったんだろうな。
 うとうと、そんなレベルだったに違いない。
「……ん」
「風邪引いちゃいますよ」
 うっすら目が開いたのを見て覗き込むと、何度かまばたいた彼と目が合った。
 寝起きとあって、いつもと全然違う雰囲気に、ちょっとだけどきりとする。
 両膝をついたフローリングからちょっとだけ冷気が伝わってきて、ああやっぱり冷えるなあと思った。
「ひゃ……!」
 『うん』、と小さくうなずいた彼が、ふいに両手を伸ばした。
 刹那的に抱きしめられ、今、自分がどういう状況になっているのか理解できない。
 え……と、えっ……えええ!?
 両腕の中にすっぽりと抱きすくめられ、ほぼ全身で彼の体温を感じる。
 肩口に当たる吐息が、くすぐったいとかそういうレベルじゃないほどで。
「……気持ちいい」
「っ……」
 う、わ……わわっ、わっ!
 すぐここで聞こえた声に、ぞくりと体が反応した。
 どきどきどころじゃない、激しい鼓動に自分でもびっくりする。
「ッ……ごめ……!」
 どうしよう、何を言おうなんて考えた瞬間、ぱっと体を離された。
 たちまち冷気が当たり、ちょっとだけ身震いする。
 目の前には、目を丸くして心底驚いた顔をした祐恭さんが。
「違う、いや……違わないんだけど、ごめん、違うんだよ。そういうつもりじゃなかったっていうか……あー、ごめん、本当にごめん。違うんだ、その……本当にごめんね」
 肩口に残っている彼の両手は、温かい。
 でも、いつもと違って本当に驚いている彼を見ると、かえって落ち着けた。
「えっと、あの、いいんです! いい、っていうか……なんでしょうね、えっと、うまく言えないんですけれど……大丈夫です。あの、大丈夫ですから」
 どう言ったらいいものかと、あれこれ口にしてみるけれど正解がわからない。
 でも、嫌じゃなかった。
 そしてーー驚きはしたけれど、きっと私は素直に嬉しかった。
「…………」
 ゆっくりと離された両手が、名残惜しかった。
 ああ、そうだよ。そうだよね。
 だって私、きっと初めて会ったときから、祐恭さんのこと好きになってたんだもん。
 どうしよう、何を言おう。
 こんな状況で、リュックのことなんてすっかり頭から消えていた。
「……羽織ちゃん、さ」
「え?」

「大丈夫って、どういうこと?」

「っ……」
 まじまじと見つめられ、何も言えなかった。
 どうって……どう言えばいいのかな。
 だって、このままじゃ私、自分の気持ちを口にしちゃいそうなんだもん。
 でも、だめ。それは望まれていないし、この関係が壊れてしまう。
 そうなったらーー私は、嫌だ。
 離れることになる。
 私はずるいから、たった数日で急速に惹かれた彼の近くにいられなくなることが、なによりも怖いと思った。
「祐恭さんだから、です」
「俺?」
「祐恭さんだから……嫌じゃ、なかったんです」
 私はどうしてこんなふうに言ったんだろう。
 これじゃ、好きだって言ってるのと同じ。
 でも、ほかに思いつかなかった。
 だってこれが、素直な私の気持ちなんだもん。
「俺は何もしないって?」
「え、と……そういうことじゃないんですけれど、その……優しい、し」
「俺が?」
「優しいですよ? それに……えっと、なんて言ったらいいか……」
 まっすぐ見つめてくる彼は、普段とも少し雰囲気が違っていた。
 優しい眼差しと、ちょっと違う。
 どちらかというと、真剣さのほうが強い、言うなればお仕事で見せるかのような顔だと感じる。
「じゃあ、俺が一緒に寝てって言ったら、従うの?」
「え……?」
 体ごと私へ向き直った彼が、ひたりとこちらへ手をついて身を寄せた。
 ふわりと香る、私とは違う匂い。
 さっき、一瞬強く抱きしめられたときと同じ。
「私……」
 どう、言えばよかったのか。その判断がつかない。
 でも、彼の目をまっすぐ見たままは返事ができず、ただ、視線を落としてすぐにこくりと首が動いた。
「っ……え」
「おいで」
 いつもより低い声。
 いつもより強い力。
 ぐっと手首を掴んで立たされ、何が起きているのかよくわからない。
 でも、祐恭さんは一度もこちらを振り返ることなく、普段彼が朝出てくる部屋へと足を向けた。
「……っ」
 パチリ、と音を立ててリビングの明かりが消え、ほどなくして間接照明の淡いオレンジの光が天井に向かう。
 ほとんど物を置かない祐恭さんの寝室は、大きなベッドがある程度。
 チェストがひとつ置かれてはいるけれど、恐らく朝起きたときのままの状態のベッドが目に入り、こくんと喉が動いた。
「あ、の……祐恭さん」
 手を離した彼は、当たり前のようにベッドへ向かうと、羽毛布団をはいで座った。
 まっすぐに見つめられるものの、どう動いていいかわからず、両手を握り合わせたままその場へ立ち尽くす。

「何もしないから、一緒に寝て」

「え……」
 大丈夫。
 目を見たままそう言われ、かすかに声が漏れた。
「さっき、羽織ちゃん抱きしめたとき、すごい気持ちよかった。だから、今日はこのまま俺に抱かれて寝て」
「っ……」
 あからさまなセリフが耳に入り、ぞわりと体が反応する。
 こんなの知らない。
 鼓動が早鐘のように打ちつけて、すごく苦しい。
 でも、まるで試すかのように表情を変えない祐恭さんは、動かない私を見て手を伸ばした。
「おいで」
 その言葉で、ひたり、と足が動く。
 リビングとは違う、ひんやりしたフローリング。
 でも、気づいたらその手をつかもうとしていて、ああもう戻れないと自分でもわかった。
「っあ……!」
 ぐいっと腕を引かれ、そのままベッドへ倒された。
 途端、体が温かく包まれる。
 今まで知らない、男の人の腕の中の空間。
 さっきみたいにぎゅっと抱きしめられて、苦しいけれど、でも、嬉しい。
「……はあ」
 私を抱きすくめたまま、頭の上で祐恭さんがため息をついた。
 トクトクと規則正しく体に伝わってくるのは、彼の鼓動だろうか。
 ということは、私のこのうるさいくらいの鼓動の音も、伝わってるのかな。
 だとしたら、恥ずかしいやら情けないやら。
 でも、こんな状況になったことを私は素直に嬉しいと思う。
「祐恭さーーぁいた!」
「……なんで信じるの?」
「え……え?」
 ぺちり、と小さな音とともに額を叩かれ、見ると眉を寄せた彼がいた。
 え、いつの間に眼鏡を外したんだろう。
 これまで見たことのなかった姿だけに、雰囲気の違いにどきりとする。
「何もしないなんて言う男が、本当に何もしないわけないでしょ? 傷つくに決まってるじゃない」
「で、でもっ……祐恭さん、だから……」
「その根拠は筋が通らないよ。俺だから何? 兄貴の友達で、まあアイツが廊下隔てたあっちにいるとはいえ、危ない目に合わない証拠はないんだよ?」
 さっきまでの雰囲気はどこへやら、いつもと同じ、それこそさっき夕飯を食べたときお兄ちゃんに苦言を呈したときの祐恭さんと同じ顔をしている。
「試したんですか……?」
「試したんじゃなくて、疑ってるんだよ俺は。ほかの男にもそういう顔したら、間違いなく嫌な思いしかしてないよ?」
「でも……平気ですよね?」
「平気じゃないだろ? 会ってそんなに経ってない年上の男のベッドへ連れ込まれたんだよ? 危機意識が足りない」
「で、でもっ……」
「でもじゃないから」
 ぴしゃりと言われ、それ以上は何も言えなかった。
 でも、ごめんなさい。
 祐恭さんだから平気って思っちゃったし、それに……祐恭さんなら、って思っちゃったの。
 そうは思うけれど、言い出せる雰囲気ではなく、小さく『ごめんなさい』と口にするしかなかった。
「罰として、今日はこのまま寝てもらうから」
「え?」
 罰なんですか?
 と聞き返そうと思ったけれど、どうやらしてはいけないらしい。
 きゅうっと抱きしめられたあと、彼はまたため息をついた。
「大丈夫。ほんとに何もしないから」
 吐息交じりに囁かれ、どくりと鼓動が大きく鳴る。
 男の人に触られたのも初めてなら、抱きしめられたのなんてもちろん初。
 この状況がもうすでに、ただでさえ何もされてないわけじゃない。
「抱き心地がいいんだよね。なんか……新しい抱き枕みたい」
「う……そんなに、ぽよぽよしてますか?」
「そうは言ってないよ」
 くすくすと笑われたのがくすぐったくて、体から少しだけ力が抜けた。
 どう、しよう。
 祐恭さんの両手は私に回っているけれど、私が両手を伸ばすのは違う気がする。
 それは、許されないことなのかな。
 それとも、同じように『何もしませんから』と言ったら、許してもらえるのかな。
 所在ない両手をどうしていいかわからなかったけれど、気づいたらどうやら、彼のパジャマを握りしめて眠っていたらしい。
 

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