「おはよー……って、珍しいわね。アンタがショルダーで来るなんて」
「おはよ」
いつもより早い時間に教室へ入ると、すでに登校していた絵里が珍しげにバッグを指差した。
おっしゃる通りです。
そしてこれは、私のものじゃありません。
私が使わないというか、男性用のブランドロゴが入ったショルダーを机に置くと、絵里がしげしげと見つめてから意味ありげに笑った。
「何? ひょっとして彼氏?」
「ちっが……!」
「ひゅーひゅー。声が大きいぞー」
「もぅ、絵里!」
朝目が覚めると、すでに祐恭さんの姿はベッドにはなかった。
慌てて起きるも、すでに身支度を整えた彼はソファに座っていて。
もしかしたら、夜のうちに彼はベッドからいなくなっていたのかもしれない。
気を遣わせちゃったってことだよね、きっと。
それがわかっちゃったから、切ないというか申し訳ないというか……夜のあの時間は、夢だったのかなとあやふやにもなる。
「春休みの宿題、終わった?」
「うん」
「へえ、アンタやるじゃない。聞いてくるかなーと思ったけど、一度も聞かなかったもんね。数学わかった?」
わかったというより、教えてもらったから。
とはさすがに言えず、苦笑でごまかす。
すると、どうやらお兄ちゃんに教わったんだと勘違いしたようで、『アンタはいいわねーイケメンなお兄様がいらして』と謎な発言をされた。
「はいはーい、あんたたち席につきなさーい。出欠とるわよ」
ガラリとドアが開いて、日永先生が入ってきた。
今日から4月が始まる。
高校3年生、私たちにとっていろいろなことが起きるであろう、最後の年が。
「っとその前に、イケメン紹介するわね」
「イケメン?」
「そ。毎年若い副担任の先生をゲットしようとしてきたけど、なかなか叶わなかったわー。でも苦節ウン年、ようやく手に入ったのよ!」
「なになに?」
「どゆこと?」
出席簿を抱きしめた日永先生は、私たちに向かって意味ありげな笑みを浮かべると、左手をドアに向けた。
「っ……え、えっ……!」
「えーー! イケメン!」
「ちょ、ふつーにイケメン!!」
「京子すごい!!」
カラリ、と扉が開いた瞬間、割れんばかりの声が響いて、私の小さな反応がかき消された。
入るのを戸惑うように一瞬足を止めた彼は、苦笑しながら日永先生の隣へ並ぶ。
今朝見たときと、寸分違わないスーツ姿。
「……なんで……」
目は合わなかったけれど、間違いなくその人は祐恭さんだった。
「はいはーい、みんな静かに。今日からこのクラスの副担任として、瀬尋先生にお世話になります」
「初めまして、瀬尋祐恭です。よろしく」
ざわめきはやまない。けれど、音がないかのように感じられるほど私の周りは時が止まっているようにすら感じる。
祐恭さんが、副担任。
え、なんで?
だって高校の先生だなんて聞いてなかったし、知らなかったし。
たしかに、なんのお仕事してるかは聞かなかったけれど、だって、そんな、だって……!
「羽織、どストライクって感じね」
「え?」
「口開きすぎ」
「っ……」
ぴしりと絵里に指摘され、慌てて手で押さえる。
どういうことなんだろう。え、なんで?
ということは、月曜日からずっと、祐恭さんはこの学校に出勤していたってこと?
彼は、私がこの学校の生徒だということを知っている。
でも、私は彼がこの学校の先生だとは知らなかった。
「…………」
やだ、どうしよう……。
にやける以上に、もう、ほんと、どうしたらいいか自分でもわからない。
みんなのきゃあきゃあとテンションの高い声を聞きながら、ひとり両手を頬へ当てたまま、にやけそうになるのを必死に堪えるしかなかった。
「アンタ今日1日、なんか使いものにならなかったわね」
「え、ひどい。なにそれ」
「いや、ふつーの意見でしょ。率直な」
パックのジュースを飲んでいた絵里が、いつものようにストローを噛む。
どのあたりが使いものにならなかったんだろう。
……ってまぁ、心当たるのは主に化学の授業前後とホームルームあたりだろうというのはわかるんだけど。
ていうか、祐恭さんが実は化学の先生でしたなんて聞いてない。
数学得意なのは当然だよね。
申し訳ないほど、化学がさっぱりなので、ああ今夜家に帰った後祐恭さんがよそよそしくなったらどうしよう。
こんなこともできないのかって、全部ばれちゃう。
数学ができないのはもう悟られているけれど、彼の専門科目までとなると、話は違ってくるんじゃないだろうか。
「はあぁあ……」
「なにあんた、ため息重っ」
「家に帰りたくない……」
「やばい発言しないで」
祐恭さんが帰ってきたとき、昨日までのように笑うことはできるだろうか。
だって、ただでさえ昨日から今日にかけてはいろいろあったの。
そして今日1日こんなだったの。
もぉ……どんな顔したらいいか、よくわからないなぁ。
明日が休みでよかったと思うものの、いやいや、休みだったら祐恭さんも家にいるでしょと改めてつっこむ余裕はあった。
「…………」
ううーん。何を作ればいいだろうと考えて、とりあえず玉ねぎの皮をむいたところでちょっと違うかなと思ってしまった。
私、今日何作ろうと思ってたんだっけ。
たしか、生姜焼きにしようとは思ったんだけど、だったら別に玉ねぎはいらないわけで。
うぅ、でも皮むいちゃったし、お店屋さんのみたいに玉ねぎと一緒に炒めるのもありだけど、シンプルな生姜焼きにしたいのもあるから、もういいやお味噌汁 にしよう。
キッチンに立ってあれこれ考えながら、早1時間以上が経過中。
テレビもついていないので、音を立てるのは私だけ。
祐恭さんのお家にいる。
それ自体は変わらない。
でも、果たして私はいつまでここにいていいのか。
お世話になってまだ1週間経っていないけれど、ただでさえいろいろとダメな自分を見られているのに、今日1日でそれはきっとさらに増えたはず。
……期待したって叶わないかもしれないのは、どこかでわかってた。
でも、昨日のことがあって、ちょっとだけ削げた気持ちが復活もした。
私より大人で、いろいろな世界を持っていて、いろんなものを持っている人が、私を好きになってくれるはずはない。
わかってる。
でも…………。
「…………」
抱きしめられたとき、嬉しかった。
手を伸ばせなかったのが、少しだけ切なかった。
どうしたら私もできるようになるのかなって思うけれど、結論は出ない。
だって私の気持ちを伝えても、祐恭さんは困るだけだろうし…………。
「……はあ」
できるようになるために、必要なことは努力だけでいいのかな。
だったら私、勉強がんばりたい。
祐恭さんの担当科目である、化学でいい点を取りたい。
……さっぱりわからなくなってだいぶ経つから、きっと簡単な道じゃないと思うけれど。
でも、できることが多いことは、今後の人生でもきっとチカラになるはずだよね。
「がんばる」
ひとりごちた言葉は、予想以上に大きく聞こえた。
「…………」
「…………」
音のない時間。
祐恭さんのお家のリビングで、この時間帯にテレビがついていないことは珍しい。
……ああそっか。今日、お兄ちゃんいないからだ。
せっかく夕飯の支度をしたのに、ご飯が炊けた後で『歓送迎会で遅くなる』とひとこと連絡が届いた。
もぅ、だったらもっと早く言ってくれればよかったのに。
というか、そういう飲み会ってその日に決まるんじゃなくて、もっと前からわかってたんじゃないの?
昨日早く寝たのは、今日飲み会に行くためだったのね。
今朝起きたときは喉がどうのって言ってたのに、もぅ知らないんだから。
「あのさ」
「え?」
「なんか……怒ってる?」
「へ?」
祐恭さんが私にとあてがってくれたお部屋にはテーブルがないので、リビングで勉強するのが続いていた。
なので今日も夕食後そうしていたんだけど、ソファへ座って本を読んでいた祐恭さんが、珍しく不安げな表情をうかべる。
「どうしてですか?」
「いや、なんか……」
まったく思ってなかったことを言われ、ぱちくり。
え、え、私なにかそういう不穏なオーラ出してたかな。
たしかに、祐恭さんが帰ってきて一緒にご飯を食べたあとも、いつものように雑談はしていない。
お兄ちゃんと違って祐恭さんはテレビをつけないらしく、静かな環境だったからついやる気スイッチも入って、今までかなり集中できていたと思うんだけど。
もしかして、私が真面目に勉強してるのが、変?
それとも、妙に気を使わせてしまっただろうか。
「全然そんなつもりはないんですけれど……ごめんなさい、変でした?」
「いや、変っていうか……」
パタン、と本を閉じた祐恭さんが私に体ごと向き直った。
え、なんだろう……何か言われる?
いつもの穏やかな表情と違うまなざしに、思わず私もシャーペンを置いて正座し直していた。
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