「黙ってて、ごめん」
「え?」
「……違うの? てっきり、俺が教員だってことを伝えなかったから、怒ってるのかと」
 不意に謝られて、何が起きたのか一瞬さっぱり。
 でも、祐恭さんにそんなふうに思わせてしまったとわかり、慌てて首を振る。
「や、違いますっ。たしかに、びっくりはしましたけど、そうじゃなくて……」
「じゃあ何? 怒ってる理由」
「えっと……怒ってるつもりはないんですけれど……」
「そう? でも、いつもより全然笑ってくれないし、なんか……まるで無理やり勉強に逃げてるみたいに見えたから」
「う」
 逃げてません……!
 でも、必死に勉強したのは久しぶりなので、多分きっとおそらくそれがそう見えた原因ではないかと。
 ……切ない。
 あれ、私これでも受験生なはず。
 なんともいえない切なさから苦笑が漏れるも、そっかそう見えていたんだと反省もする。
「違うんです。私、もっとちゃんと勉強しなきゃって思って」
「どうして?」
「だって、祐恭さんが高校の先生だってわかったんですもん。プライベートでお世話になっているだけで大したこともできてないのに、これから学校でもお世話になるなんてわかったら、私ができるのは勉強することしかないかなぁって思って」
 英語は好き、国語もいい点を取れる。
 でも、国公立コースに在籍してるのに理系がさっぱり。
 なのに部活は化学部で、副部長で。
 そんなんじゃ、示しがつかないなって改めて思った。
 私を副部長に指名したのは絵里だけど、認めてくれたのはほかの部員もそう。
 今までは、できない私でもみんなが言ってくれるならって甘えていた。
 けどーー祐恭さんの教科だもん。
 彼が極めた、きっと好きなもののはずだから、がんばりたいと思った。
 そうすることで、ほんの少しでも近づくことができるんじゃないかっていう、よこしまな考えがあるのは否めないけれど。
「羽織ちゃんは十分、いろんなことしてくれてる」
「え……」
「本当は勉強だけ集中しなきゃいけないのに、生活面でサポートしてくれてるだろ? 料理を作ってくれたり、それだけじゃなくて掃除とか洗濯とか。ありがたいけど、申し訳ないのは俺のほうだよ」
「えっ! そんなことないですよ、だって私、こんなふうに急にお世話になって、祐恭さんに迷惑だって……」
「迷惑なんかじゃないって。俺は、羽織ちゃんがいてくれることで、すごくーー」
 まっすぐに目を見て言われ、どきりとした。
 いつもの穏やかな表情とは違って、真剣で、どこか一所懸命なようで。
 私の知らない顔。
 そうわかるから、すごくどきどきする。
「っ……」
「化学、苦手だから勉強してる?」
「……それもあります」
「ほかにもあるんだ? 理由」
「っ……」
 手を伸ばした彼が、教科書へ手を伸ばした。
 かすかに指先が触れ、一瞬のぬくもりにどきりとする。
 ささやくような言葉が耳に入るたび、苦しい。
 私が化学を勉強したいと思ったのは、苦手だから克服したいのも素直な気持ち。
 でも、それだけじゃない。
「祐恭さんの教科だから……」
 まっすぐに目を見て言うことはできず、彼の手元へ視線が落ちたままの告白。
 昨日の夜と同じ。
 『祐恭さんだから』と伝えたあのときと、同じ気持ち。
「っ……」
「そうやってあまりにも限定を口にされると、困る」
 照明が陰って、目の前に彼の服の色だけが広がる。
 抱きしめられたんだとわかるまで、ほんの数秒かかった。
 吐息が耳にかかる。
 声が近い。
 彼の、匂いがする。
 どうしよう、すごくどきどきする。
 祐恭さんはどういうつもりで私を抱きしめてくれるのか。
 ……期待しても、いいんですか。
 さらりと彼の指が髪をすくい、背中がくすぐったくて思わず身をよじる。
「今日は、何もしないわけにいかないけどいい?」
「え……?」
「ほんとはこのままベッドへ連れて行きたいけど、お風呂には入りたいかなって。先に入っておけばよかったけど、羽織ちゃんの態度がいつもと違ったからそれどころじゃなかった」
 え……えぇええ……!
 それってどういう意味。
 何もしないわけにいかないって、いったい何をされっ……うぅ、え、ほんとに……? ほんとにですか。そうなんですか? ひょっとしちゃうんですか。
 友達やドラマなどなどいろいろなところからの情報は、それなりに入るから知ってる。
 でも、体験したことはない。
 だってそれこそ、き、キスだって……したことないもん。
 でも、彼は違うんだろうな。
 躊躇なく抱きしめられた昨日の夜、あまりにも自分と違いすぎて、改めて彼が大人だと思った。
「今日は、そのつもりで。何もせず寝ることはしない」
「っ……」
 まるで私の反応を試すかのように目を見て告げられ、こくんと喉が動いたのまできっとばれてしまっただろう。
 でも、でも、だって……うぅどうしたらいいの。
 何を答えることもできず口を開くと、祐恭さんは私の頭を撫でてから洗面所のほうへと歩いて行った。
「……な、にあれ……」
 ふしゅう、と今の私の頭から湯気が立ってるはず。
 止まっていた時間が急速に動き始め、ばくばくと鼓動の音が鳴り止まない。
 刺激が強すぎる。
 ていうか、なんの宣言なの?どういうことなの?
 何もせず寝ることはないって……それって、それ、って……!
「ッ……!」
 ぞくりと鳥肌が立つ。
 え、待って、私どうしたらいいの。
 なんにもわからないし、どうしたらいいのかもわからない。
 こういうとき、大人の女の人はどうするの……?
 遠くから聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、思わず検索するべくスマフォを手にしていた。

「…………」
 シャワーの音が止んだ。
 ドライヤーの音も止んだ。
 そしてーー引き戸の音。
 ちらりと時計を見ると、まもなく21時。
 う、ちょっとまだ早いんじゃないかな。
 それとも、いい、のかな。
 うー、よくわからない。
 結局、あれこれ気になることを検索しようかと思ったものの、予想以上のものが検索でひっかかってしまい、慌てて消したから読めていない。
 刺激が強すぎるものが、あふれすぎてもう、どうしたらいいの。
 今思えば、小学生のとき読んだ恋愛漫画はかわいらしいものだったんだなぁ。
 抱きしめられるシーンがあったとき、びっくりして、すごくどきどきしたのを覚えている。
 お兄ちゃん、何時に帰ってくるんだろう。
 帰ってきてほしいのか、ほしくないのか、よくわからない。
 いつもだったらきっと祐恭さんとふたりきりなんて、って喜んでたはずなのに、さっきのことがあったからか自分の気持ちがどう動いているのかよくわからなかった。
「待ってた?」
「ひゃぃっ!?」
 すぐ近くで聞こえた声で、数センチは浮いた。
 慌ててそちらを見ーーるも、鼻先に彼の顔があって二度びっくり。
 う、ち、近くないですか。
 顔が赤くなったのが自分でもわかって、目の前で笑われて気恥ずかしくなる。
「それじゃ、ベッド行こうか」
「あ、え……っ……」
「心の準備はできたでしょ?」
 手を取った彼は、顔だけで振り返るとにこりと笑った。
 その顔反則じゃないですか。
 きっと今鏡を見たら、私はとても情けない顔になっているだろう。
 祐恭さんは寝室へ向かうと、リビングの明かりそのままに今度は間接照明をつけなかった。
「……?」
 昨日と違う。
 背中に明かりを背負っているせいか、ベッドが暗く見える。
「わっ!」
 などと思っていたら、ふいに手を引かれてベッドーーへ、腰掛けた祐恭さんの膝に座る形になった。
「う、祐恭さっ……」
「明るいほうがよかった?」
「え?」
「いろんなことするのに、見えるほうがいいならつけるけど」
「っ……そ、そういう意味じゃ」
 こんなふうに、悪戯っぽく笑う人だったかな。
 そう思ってしまうほど、祐恭さんは普段見せないような顔で笑う。
 すい、と背中から髪に触れた手が、いつもより熱いのはお風呂上がりだから?
 それとも、勝手に私がどきどきと反応してるからなのか。
「羽織ちゃんは、俺にどうされたいの?」
「え……?」
「たとえばーー」
「っ……!」
「こうやって、触られたい?」
 くすぐったいのとは、違う。
 うなじから首筋を撫でられ、ぞくりと体が震えた。
 どうされたいと聞かれても、答えられるはずない。
 だって何も知らないのに、言えるわけない。
 こんなふうに触られるのも初めてならば、こんな近くで見つめられるのだって初めてなんだから。
「あ……!」
「それとも、押し倒されたいとか?」
「う、きょうさ……」
 ベッドへ倒されてすぐ具体的なことを言われ、かあっと体まで熱くなった。
 そんなつもりないんです、なんてことは言えないし言いたくない。
 祐恭さんに触れられるのは、好き、で。
 でも、祐恭さんはどう思っているんだろう。
 どうしてこんなふうに、私に触れてくれるの……?
「っ……」
 ぎし、とベッドが軋む。
 祐恭さんが体重をかけるところがわかる。
 すぐ、ここ。
 顔のすぐ横に手をついて見つめられ、リビングのうっすらとした白い明かりを背負った彼の顔は、いつもと全然違って見えた。
「……今日はどこまでしようか」
「ぁ、っ……ま、まって……」
「どうして? 最初に拒まなかったくせに」
「ん、祐恭さんっ、待ってくださいっ」
「知らない? こういう状態になって無理って言われても、男は止まれないんだって」
「ひゃ……!」
 顔が近づいて、吐息がかかる。
 熱っぽい声が耳元で聞こえて、そこから熱そのものが体を伝う。
 どくどくと鼓動が激しく鳴ってやまない。
 この音、絶対祐恭さんにも聞こえてるはず。
 体重をかけて体が密着するのがわかって、どうしようもないくらい緊張して、手が震えた。

「陽イオンと陰イオン、どうして結びついてるか説明してもらおうかな」

「…………」
「…………」
「……イオン……?」
「そう。陽イオンと陰イオンが結びついてる状態を、なんて言う?」
 ぱちくり。
 音が聞こえるほど、はっきりまばたくと、祐恭さんは目の前に指を3本立てた。
「3秒前」
「え? えっ!?」
「2秒前」
「わぁっ! い、イオン結合っ!」
「正解。じゃあ次、そのときに働いている力をなんと言う?」
「へ!? 引き合ってる力って……引力ですか?」
「あー、ちょっと違うな。正解は静電気的な引力。間違ったから、あとで腹筋5回ね」
「えぇ!?」
 先ほどと同じように目の前へ指を立てた彼が、肘をついて隣へ寝転んだ。
 かと思いきや、手を伸ばして間接照明をつける。
「次。今から言う物質の中で、イオン結合からなるーー」
「え、と……祐恭さん……」
「何?」
「…………えっと……」
「俺が何か下心的なことをするとでも思った?」
「っ……」
 悪戯っぽく笑われ、体から力が抜ける。
 心臓は、ばくばく。
 うるさいくらい鳴っていて、少し苦しい。
「俺は先生だから、そういうことはできないかな」
「…………」
「残念?」
「そ、れは……」
 残念です、って言っていいのかな。
 ううん、きっとダメ。
 私は今、先生の生徒なんだもん。
「羽織ちゃんがもう少し大人になったら、ね」
「大人……?」
「そう。もしくは、俺のタガが外れたら。どっちが先かな」
「え?」
「いや、別に」
小さく囁かれた言葉を聞き返すと、緩く首を振った彼が笑った。
「っ……」
「もう少し、勉強しようね」
「……はい」
勉強の言葉の意味を知るのは、もう少しあとのこと。
でも、今思えばこれがすべての始まりだった。



そんなわけで、エイプリル企画。
いつものように中途半端ですが、まあ、いわゆる突発的な小話なので。
解散宣言ですが、実は単なる外壁の工事に入るから、どうせならいなくなったほうがよくない? 洗濯物も干しにくいしーってのが理由とわかるのは、わりとすぐ。
結果として家に戻るわけですが、戻ったあと、離れていろいろわかっちゃった祐恭が羽織に行動をうつす……!?
という話にもってこーかーと思ってましたがここまでで。
相変わらずの尻切れとんぼ感がすごいですが、すみませんー!


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