「濃厚接触って言葉、意味深だと思わない?」
「ごほっ! 絵里……顔が緩んでるよ?」
「あら、しょうがないじゃない。つい、たっきゅんと葉月ちゃんで想像しちゃったんだから」
「っ……絵里!」
 今ここに、葉月はいない。
 でも、すぐそこにいるの。自販機の紙コップを片手に戻ってきつつあるんだから!
 相方と言ってもいいお兄ちゃんはさすがに同じ建物にはいないけど、ここから見えるすぐあそこの図書館にいるわけで。
 なぜか知らないけど、昼休みじゃないのに学食をフラフラしてることがあるから、聞かれたんじゃないかと癖のようなものであたりを見回していた。
「だって、濃厚な接触よ? 濃密に接して触れる、よ? あきらかにいかがわいくない?」
「もぅ……だからその顔、田代先生にも見せられないようなものになってるってば」
「あら平気よ。この話、今朝ウチでしてきたから」
「えぇ!?」
「ちなみにそのときも、アンタとおんなじこと言われたわ。ついでに頭大丈夫かともね」
 失礼しちゃう。
 舌打ちとともに絵里はコーヒーを飲んだけど、でもあのごめん、田代先生に一票……。
 2月末に政府が出した休校宣言がもととなり、近場のテーマパークは相次いで自粛と休園を決定した。
 すでに春休みだった私たちに飛び火することはないと思ってたけど、遊びに行けなくなったっていう意味ではかなり残念。
 高校時代の子たちと久しぶりに行く予定立ててたんだよね。
 春休みだから学食はお休みなんだけど、いつもは長期休暇中も教職員向けにひっそり営業しているカフェテリアも、自粛閉業。
 稼働しているのは自動販売機のみで、学食も私たち以外に数人しかいなかった。
 でも、私の周りのいわゆる社会人の人たちは通常勤務。
 お母さんは保育士さんなので、通常勤務あんど登園も通常。
 違うのは、いつもより手指や室内の消毒を念入りにするくらいって言ってたっけ。
 ちなみに、この期間は気になる人は給食ではなくお弁当でもいいことになってるって言ってたけど、今のところお弁当持参の子はゼロだとも言っていた。
 お兄ちゃんはあからさまに喜んでいて、貸し出し業務がないから前倒しで在書整理とデータの洗い出しができると、毎日いつもより遅めに出勤して、いつもより早く帰ってきている。
 ああ、遅くて早いっていう点では祐恭さんやお父さんも同じ。
 年休を消化という名目でお父さんは3月末にまとめて休みを取って、お母さんと近場でゆっくりすると湯河原に行っていた。
 祐恭さんも学生や生徒がいないからできることもある、ってちょっとだけゆっくりできるとも言っていたっけ。
「羽織、大丈夫?」
「ふぇ!? う、うん、大丈夫」
 けほけほとむせていたのを、戻ってきた葉月に心配された。
 このご時世、ただの咳でも勘違いされることがあるらしく、ちょっと切ないよね。
 って、さすがに飲み物片手に咳き込んでいたら、むせたのかな? って思ってくれると期待したいけど。
「あーあ。4月になったってのに、世間はまだ自粛モード。つまんないわねー。ぶらぶらどころか、ばーんとでっかく外出したいわよ。私は」
「ほんとだね。結局、3月はどこにも出かけられなかったし……外ならいい気もするけど、野外イベントもやらないところが多いもんね」
 大学の入学式もあと少し。
 例年とは違って規模を縮小したものになる、という通知が掲示板に貼られていた。
 とはいえ、全員がマスクをつけての参列っていうのも、なかなかの異様さがある気がするんだけど……って、感染リスクを下げることのほうが大切なんだろうけどね、もちろん。
 マスクって、どこまで予防に役立ってるのかなぁ。
 ほかの病気も、やっぱり対策は手洗いとこまめな水分補給っていうし、今回の流行病もその対策でいいような気はするんだけど、もちろん専門家じゃないから家の中で話す程度にしている。
「中庭の桜を見るくらいは許されるんじゃないかな?」
「あら、お花見?」
「うん。もう3分咲きになってるよ」
 ホットの紅茶が入った紙コップを両手で包みながら、葉月が笑った。
 ああ、そうだよね。桜の時期だ。
 葉月がこっちへ戻ってきて、2度目の春。
 桜がすごく好きだって言ってたし、せっかくだからみんなでお花見したいなぁ。
 お弁当を食べるのがダメなら、せめてレジャーシートを敷いて、ゆっくり見上げるだけでいい。
 でも、もし許されるならば、桜の下であったかい飲み物くらいは飲みたいけど。
「ところで羽織、レポート終わった?」
「うっ……それが、図書館休みでしょ? だから資料が足りなくて。市内の図書館もお休みだから、すごく困る」
「あー。それなら、教授たちに借りればいいじゃない」
「それが、みんな同じこと考えてるみたいで、順番待ちなの。でも、こんな状況だからってことで、レポートの提出期限は延ばしてもらえたんだ」
「あら、それならよかったじゃない。ま、終わってないことに変わりないけど」
「うぅ……それを言わないでよぉ」
 そう。春休みだからって宿題がないのは、高校生までだったらしい。
 数枚のレポートをまとめなければならなくて、だけどその資料は図書館にしかなくて。
 もちろん、きっと今後も使うだろうから買ってもいいんだけど……ああいう学術系の本って、お値段高いんだもん。
 ほいほいと数冊買ったら、貯金がみるみる減っていく。
「Webから予約できるよ?」
「え?」
 私たちの話を聞いていたらしく、葉月が不思議そうな顔を見せた。
「ほら、大学図書館のホームページあるでしょう? あそこから資料の予約ができるの」
「でも……受け取りはできないでしょ? お兄ちゃんに持って帰ってきてなんてお願いしたら、それこそ嫌な顔されそうだもん」
「ふふ。大丈夫。ちゃんと、ホームページにも記載されてるから」
「え? そうなの?」
 あからさまに嫌そうな顔で舌打ちするお兄ちゃんが想像できたものの、どうやらちゃんとした方法らしいと聞いて、ちょっとだけ期待の芽が膨らむ。
 きっと、葉月がお兄ちゃんへ直接頼んでも嫌そうな対応しないだろうけど、私がしたら100%実現しない方法だし。
「Webで予約して、引き取りのみの対応ならばインターフォンを通じて応対します、って。ね?」
「わ、ほんとだ」
 スマフォを操作した葉月が、図書館のホームページを見せてくれた。
 確かに。
 そこには、感染症対策で閉館にはなるけれど、個別での引き渡しに応じることと具体的な方法が明記されていた。
 むぅ。お兄ちゃん、そんな話しなかったのに。
 今朝だって、図書館が使えなくてすごく不便って話を目の前でしたのに、鼻で笑っただけだったし。
 もしかしたらあれは、きっちり明記されてるのに見てないお前が悪いって意味での嘲笑だったのかもしれない。
 ああ、きっとそうだ。馬鹿にされたんだ、ひどいなぁもぅ。
「へー、知らなかったわ。便利な対応してくれてるのねー」
「私も昨日予約したんだけど、ついさっき準備完了の連絡がきたよ」
「葉月は引き取りに行くの?」
 同じようにスマフォを覗いた絵里とともに葉月を見ると、小さく笑って首を横へ振った。
 え、行かないの? 準備できてるのに?
 今日は、たまたま絵里から連絡があって、休み中の学食なら広いし叱られないでしょってことから、ここに集まっている。
 ……というのは名目で、私が手続きしなきゃいけない書類をすっかり忘れていたのもあるんだけどね。
 ちなみに、このあとのランチは3人で近くにできたばかりのサンドイッチ屋さんでテイクアウトしてから、公園でピクニック。
 菜の花と早咲きの桜がダブルで見られる場所があるって、葉月が教えてくれたおかげ。
「わざわざ取りに来るな、って言われちゃった」
「え、なにそれ。せっかく大学にきたんだし、読みたかった本なんでしょ? だったら寄って……え?」
 相変わらず口が悪いなぁと憤った瞬間、目の前で絵里が大袈裟にため息をついた。
 え、なに? 呆れられてる感じ?
 ダメ押しのように『わかってないわね』とつけたされ、置いてきぼりにされた感満載。
「このご時世もあるし、単に心配なんでしょ。葉月ちゃんをひとりで外出させるのが」
「そういうこと?」
「そ。アンタがふらふらしてもオッケーだけど、葉月ちゃんの予約の本なんて当然孝之さん把握してるんだもん、今夜持って帰ってくるでしょーよ。ちゃーんと一式揃えて」
「……そういうことか」
 なるほど、さすがは絵里とも言うべき予想。
 でも、葉月も何も言わないあたりからして、きっとお兄ちゃんから先に何か言われてるに違いない。
 お兄ちゃんって、ほんと私と葉月の対応違うなぁ。
 ってもちろん、それはわかるんだけどね。
 今日だって、私が一緒じゃなかったら葉月は外出しなかっただろうし。
 普段、彼女の父である恭ちゃんからも、ひとりきりで外に出ないことを条件に出されているから、葉月はきちんと守っている。
 ああ、そっか。だからお兄ちゃんは『来るな』って言ったのもあるんだろうな。
 ……もちろん、それなら私の予約した本も持って帰ってきてくれてもいい気はするけど。
 って、まだ予約はおろかそんなシステムがあると知ったのも今な私だから、望めないけどね。
「さーて。もうじきオープンの時間だし、そろそろ行きましょ」
「絵里ちゃんは何にするの?」
「ふっふっふ。私は1日10食限定のメガ盛りローストビーフサンドエッグプラスにするわ。葉月ちゃんは?」
「私は、おすすめって書かれてもいたけど、エビアボカドとアスパラベーコンにしようかなって」
「んああーそっちも悩んだのよ! ね、よかったら半分ずつシェアしない?」
「いいの? 嬉しい。私も、ローストビーフ食べてみたかったの。でも、ちょっと量が多くて」
「じゃあちょうどよかった! はんぶんこねー。で、羽織はどーするの?」
 それぞれが紙パックを手に立ち上がり、バッグを持つ。
 さっきよりも人は少なくなっていて、引いた椅子の音がやけに大きく響いた。
 あのサンドイッチ屋さん、彩りが綺麗で全部おいしそうだったんだよね。
 でも、ふたりの意見を聞いて今決めた。
「じゃあ私は、クロックムッシュたまごサンドにするね」
「あーーその手もあったか!」
「ふふ。私もどっちにしようか迷ったの」
「やっぱり? えへへ、私も葉月のサンドと迷ったんだよー」
 自動ドアから外へ出ると、どこからか甘い花の匂いがした。
 この時期特有の、春の匂い。
 桜か、桃か、はたまた別の花の香りか。
 気持ちが高揚する、いい香りにふたりの顔にも笑顔があった。
「よっし、それじゃみんなでシェアしましょ! さんぶんこね!」
「あはは、新しい言葉」
「楽しいランチになりそうね」
 そろって階段を降りると、少しだけ高さのあるヒールがいい音を立てた。


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