「おつかれ」
「わぁ、いいんですか? ごちそうさまです」
 助手席に戻った瑞穂へ渡すのは、ショートサイズのカフェオレ。
 砂糖なし。かわりにプラスするのは、はちみつとシナモン。
 いつだったっけな、一緒に店へ行ったときそのアレンジを見たのは。
 今となってはもう、ずいぶんと昔の話。
 それこそ、ふたりきりで出かけるようになる前の話だ。
「お母さんにも会えてよかったですね」
「ほんとだ。本人も元気そうだったし、何より新学期の話出たろ? あれ、12月には考えらんなかったんだよ。っとによかった。新しいノート買ったって聞いたとき、ちょっと泣きそうになった」
 2月末に突如として湧いた休校話。
 教育委員会から校長宛に連絡はきていたらしいが、現場に下りるまでには時間がかかり、職員室でネットニュースを見た同僚が慌てたように叫んで知ることになった。
 明日から休み。もちろん、自粛を要請だから強制ではない。
 とはいえ、国が出した通達めいたものに、末端の俺たちがどうにかできるレベルの話ではなく。
 まるっと1ヶ月休校になるなんて、誰も予想しなかった。
 土日は当然のようにほぼ全員が出勤して、クラス通信をすり直し、家庭学習用のプリントもまとめた。
 かくいう俺ももちろんそのひとりで、学年団だけでなく児童指導担当としての方向性も週明けまでにまとめねばならず、教育委員会や管理職と何度も話し合いを重ねた。
 大変なのは、どこも一緒。
 委員会の指導主事連中も総出で、土日らしからぬ光景に一種の高揚めいたものがあり……だからこそ、常勤じゃない瑞穂が職員室へきたときのひとことは、大きかった。

『みなさん必ず休んでください。大きな疲れがあとで、どっときます』

 いわゆる、ハイになってたんだろうな。徹夜明けのソレと一緒。
 まさか、大人になってそんなことないだろと半分程度笑っていたが、週明け子どもたちを下校させたあとから、おぼえのない疲労感に30分ほどやる気が起きず参った。
 結局あのときしたことは、コーヒーを飲んだだけ。
 その様子を見ていた瑞穂は、家に帰ってからもしきりに『早く寝てください』と表情を厳しくさせたままだった。
「あと少しですね」
「やっとだな。子どもたちもだいぶ身体なまってると思うぞ。どう考えたって、学習面以上に体力が心配だ」
 あとは心のほうも。
 幸いなことにウチの学校は瑞穂がいてくれるから、授業観察や教師へのコンサルテーションがほぼ常にある。
 だから、早期発見、早期対応がまさにすぐ可能で。
 もちろん、心理職だけじゃなく教師の仕事である指導面も関与する部分ではあるが、ちょっとした子どもたちの違いに気づくのは、俺たちよりも彼女のほうが早かった。
 そういう面は、さすが専門職だなと思う。
 と同時に、専門性に年齢ってのはさほど関係ないんだなとも改めて感じた。
「壮士さんのおかげですね」
「いや、それはよっぽど俺のセリフ。瑞穂が一緒に家庭訪問してくれなかったら、あのお袋さんは面接に繋がらなかった」
「ふふ。でも、壮士さんが子ども部屋へ行ったとき、お母さん言ってましたよ。鷹塚先生のおかげで、息子が友達の話を自分からするようになった、って」
「っ……まじで」
「はい。学校のことを躊躇なく家で話ができるようになったのは、鷹塚先生が週に何回も家庭訪問してくれるようになったからだ、って。とても感謝されてました」
「うわ、それ知らなかった。あのお袋さん、そんなふうに思ってくれてたのか。すっげぇ安心した。迷惑がられてるんじゃないかってずっと思ってたからさ」
「むしろ逆ですね。きてくれることで、お母さん自身も学校と繋がりがあったと安心されてましたよ」
 こうして瑞穂は、さりげなくプラスの情報も伝えてくれる。
 それはもちろん俺にだけじゃなく、ほかの教師にも同様。
 だが、彼女は知っているだろうか。
 褒められることの少ないこの職業で、感謝の言葉を間接的にでも伝えてもらえることが、どれほど明日への活力になるかを。
 がんばろう、ツラくてももう少しだけ、やってみよう。
 先日もケース会議のあと、ひとりで何もかも背負おうとしていた先輩教師が、そう言って瑞穂へ感謝の言葉を伝えていたのを見た。
「14時か。休憩にはちょうどいい時間だな」
 13時に訪問させてもらう約束をしての、今。
 さほど離れていないこの店に着いたのは、10分前ってところか。
 エンジンをかけると、助手席の瑞穂は慌てたようにカップから唇を離した。
「ん……壮士さん、コーヒー飲まないんですか?」
「いや、喉乾いてさ。緊張してたのかもしんねーけど、ソレ待ってる間にアイスコーヒー飲みきった」
 さすがに自分用も購入はしたが、ホットのほうが提供までに時間かかるらしく、すぐに手渡された。
 基本、チョコ系の新商品モノでない限りは、ブラックそのまま。
 アイスコーヒーもそのタチだから、ってのはあったけど。
「まあ、コーヒーは水分補給にならないって、散々小枝ちゃんに言われてるけど」
「午前中も言ってましたね」
「ま、あーゆーとこはさすが養護教諭って思うぜ」
 しかも、お小言の相手は教頭先生。
 外で雑草処理をしてくれていたらしく、職員室へ汗だくで戻ってきた。
 で、かけつけ一杯よろしくアイスコーヒーを飲んだのを見た、その瞬間のひとことだからな。
 あれはパンチある。
「飲みます? あ、ちょっと甘いですけれど」
「いや、甘さは平気。サンキュ」
 両手でカップを差し出され、躊躇なくひとくち。
 あま。
 とはいえ、はちみつのほんのりとした甘さだからか、香りだけが残る。
「あ……コーヒーは水分補給にならないんでしたね」
「でも、元気にはなるよな」
 カップを返しながら笑い、ギアをバックへ入れる。
 いつものように助手席のシートへ手を添えながら――視界に入った唇を舐める仕草で、そちらへ手が伸びた。
「え……? っん……」
 車内に響く、小さな電子音。
 はいはい、わーってるよ。バックすりゃいいんだろ。
 名残は惜しいが、さすがに公衆の面前でたっぷり口づけるわけにもいかない。
 いないだろうが、教え子たちがうろうろし始める時間まであと少し。
 ああ、そうか。買い物に出てる保護者は、ひとりふたりいるかもしれない。
「正直さ、こーやって堂々と一緒に出かけられるって、すげぇ特権だと思うんだよ」
 公道へ戻ってすぐの信号に捕まる。
 俺と同じく、青いネックストラップを下げている瑞穂。
 もちろんその名札には、やはり同じ学校名が記載されている。
「去年までは、放課後に設定されるケース会議がちょっと苦手だったんだよ。すげぇ時間取られるし、結局何決めるってのもなかったし。なんのための会議だったか、わかんないで終わるのが多かった」
「そうなんですか?」
「ああ。でも、今年は違うだろ? ケース会議やれば必ず子どもがよくなってくし、誰が何をするって明確だから、参加者全員で過程が見える。あれってすげぇなって思うよ」
 どの教師もそうだろうが、ぶっちゃけ暇じゃないし時間がない。
 ないのにいろんなものをねじ込まれるから、当然不満は溜まる。
 でも、今年は違った。
 会議の大前提も違うし、即日対応することができるような目標設定もある。
 これは、がぜんやる気になるよな。
 教師になるやつは、9割方面倒見がいい連中揃ってるんだから。
「この家庭訪問がうまくいきました、定期的に引っ張れそうですって伝えたら、次の手が待ってるじゃん。なんか……すごいなってホント感心する」
「参加してくださる先生方と一緒に作れるから、やりがいは感じられますよね」
「そーそ、そこなんだよ。やりがいって、やっぱ大事だな」
「っ……」
「葉山先生のおかげです」
「ぅ……壮士さん、急に口調変えるのやめてください……」
「なんで」
「なんか……どきどきします」
「へーぇ? それはいいこと聞いた」
 膝の上に置かれていた右手を取り、重ねてギアへ置く。
 くすくす笑いながら拒否されても、効力ないって当然知ってるんだろうな。
 あー、かわい。
 なるほど。最近タメ口ばかりだったせいか。
 それじゃ、たまに他人行儀な言葉遣いしたらそーゆー顔してくれんだ?
 こちらを見たまま頬に手を当てて『困ります』と笑う姿、かわいすぎなんすけど。
 頼むから、俺以外のヤツと家庭訪問いくときは、助手席に座らないでくれ。
 あと、スカートも禁止な。
 こんなかわいい子乗せてドライブとか……あー、なるほど。そっか。徒歩にすりゃいいのか。
 それなら許す。まだ許せる。
「……壮士さん」
「ん?」
「家庭訪問にいくときは、私が運転することのほうが多いですよ?」
「まじで?」
「電車通勤されてる先生、多いじゃないですか。なので、私が出すことのほうが多くて……それこそ、担任の先生の運転で行くのは今日が2回目です」
 くすくす笑って首を振るのを見ながら、冗談じゃなく安堵する。
 それならいいや。
 ……って、ちょっと待った。
「なんで俺が考えてることわかった?」
「ふふ。一部だけ声に出てませんでした?」
「まじで! うわ、だっさ」
「え、そんなことないですって!」
 てか、恥ずかしい。
 どこを口に出したんだろ。
 ……ま、しゃーねぇか。
 どこが漏れたとしても、全部本音なんだし。
「こうして瑞穂と大手を振って出られるなら、バンバン提案してく」
「え?」
「家庭訪問もふたりきりで行けて、個人情報の共有って名目で相談室こもれンだろ? 最高じゃん。仕事しながら手ぇ出せるとか」
 不謹慎なのはわかってる。
 それでも、常に人の目がある職場である以上、なかなか手を出せなくて。ってそれが当たり前なのはわかってるけど。
 それにしたって、つい手が出そうになるんだよ。
 しょーがねーじゃん。
「不謹慎、って?」
「えっと……ごめんなさい、同じこと考えてました」
「っ……」
 赤信号で減速しながらそちらを見ると、目を合わせてから苦笑された。
 は……うわ、まじすか。
 ンな顔されたら、このあとキスだけじゃ止まんないンすけど。
「……はー無理」
「壮士さん?」
「瑞穂、このあとすぐ上がりだろ?」
「はい。今日はこの家庭訪問のあと、市役所へ報告書を出しながら帰るつもりでした」
「明日半休取ろうと思ってたけど、今日帰る」
 べったりとシートへ背中を預けたまま、左手のひらにある瑞穂の手を弄る。
 すべらかな肌。
 細い指。
 クセのようなもので指先を親指の腹で撫でると、くすぐったさからか、ひくりと反応を見せた。
 知らないだろ。
 そーゆー小さな動きが、結構クルんだよ。
「このまま帰って、家で瑞穂を弄り倒したい」
「っ……」
 真正面ではなく、瑞穂を見たままの本音ダダ漏れ。
 ああ、正解じゃん。
 そういう顔見れるなら、いくらでもする。
「ダメか?」
「だ、めなんて……そんな」
「はー……可能なら今ここでもいいけど」
「! 壮士さんっ」
「そういう切羽詰った声もかわいいっすよ」
「そっ……もぉ、恥ずかしいです」
 100点満点です。
 はー、かわ。
 てか、ほんっとこのまま家に直帰したい気分。
 瑞穂の手を握りなおし、ギアを入れてアクセルを踏み込む。
 奥の信号も青。
 このまま学校まで、2分ってとこか。
「もう……困ります」
「悪い。本音」
「だって、さっきから……同じこと思ってくれてるんですもん」
「っ……」
 ぽつりと聞こえた彼女の本音に、言葉が詰まった。
 うわ。
 うっわ。うーわ、まじで。
「今日車じゃないよな?」
「はい。今日は、車を使う予定がなかったので……えっと、どうしてですか?」
「市役所だっけ? 送るし待ってる。一緒に帰ろうぜ」
 さっきより低くなった声は、相当切羽詰ってる証拠か。
 だっさ。
 でも、半分くらいはしょうがないよなと認めてやってもいい。
 あー……玄関までは我慢できるよな。いや、しろよ。さすがに。
「いいんですか?」
「もちろん。教頭先生へ報告したら、一緒に上がろうぜ」
 脳内ではすでに、持ち帰るものをまとめ始める。
 3月中にできなかったまとめの部分は刷り終わったし、学級開きのエンカウンターも準備済み。
 学級目標は子どもたちとやるし……ああなんだ、もう仕事ねーじゃん。
 じゃあこのあとはいくらでも、瑞穂を弄り倒すのに時間つかってオーケーってことか。
 どうやら業者が入ったらしく、開けっ放しの通用門から乗り入れ、職員駐車場へ。
 ああ、そうそう。ここって窓がないから、人目気にしなくていいんだぜ。
「はー……」
「そ……っん、ん……!」
「わり。ちょっとだけ」
「そ、しさ……」
「職員室でセンセイの顔するから、今だけいいだろ?」
「っ……」
 ギアを抜いてサイドブレーキを引き、彼女へ両手を伸ばす。
 頬を引き寄せるように口づけると、ほんのりコーヒーの香りがした。
 ああ、甘いな。
 濡れた音が響く中、つい今しがた見た瑞穂の表情がよみがえる。
 ……よっぽど切羽詰った顔してたんだろーよ、俺は。
 欲しくてたまんねぇって、どうしてもキスしたい、って。
「ふぁ……っ、ん、んっ」
 舌を絡め、味わい尽くすように舐め取る。
 あー、しまった。
 逆じゃん。こんなキスしたら、職員室でもっと不機嫌さ出して抑えこまねぇとハチ切れる。
 ……だから、あと少しだけ。
 俺でいっぱいになった顔見たら、満足するから。
 さて、そんな理不尽めいた言い訳を誰宛にしてるのか。
 とりあえず今は、手一杯で忙しい。


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