「私、人生3周目なんだけどさ」
唐突と言えばそう。でも、いつものといえばいつものようなことを、目の前の絵里はお茶を飲みながら口にした。
いうまでもなく、葉月と私は手が止まる。
まさに今、絵里と同じように飲もうとしていたお茶を持ったままで。
「そうなんだ」
「いや、そこはつっこむとこでしょ」
「そうなの?」
「そーなの!」
どう答えたものかと、一番それっぽい答えを選んだのに、絵里は大きなため息交じりに首を振る。
つっこまれた葉月と思わず顔を見合わせるも、葉月は葉月らしくいつもと同じかわいい笑みを浮かべるだけ。
さすがにもう、絵里の扱いには十分すぎるほど慣れたらしい。
「でね? もし、もう一度人生繰り返すとしたら……あー、もしかしたら来世はうさぎって言われるかもしれないけど。そしたらどっちがいい?」
「うさぎかぁ。もふもふしててかわいいよね」
「え、どゆこと? 自分がうさぎでも満足できるってこと?」
「だって、足速いでしょ? すばしっこいし」
「いやまぁ……てか、そういうことじゃなくて」
「ふふ。羽織くらい徳を積んでたら、最初から別の人生歩めるかもしれないね」
「お、葉月ちゃんさすが」
「え? ……え?」
何やら、私を除いて会話がどんどん進み始め、絵里は絵里で満足気に葉月を指さす。
ふたりが話している内容でやっと気づいたけど、ああなるほど、ドラマの話をしてたのね。
人生3周目。
もしも自分が、アリクイやサバを選ばずに“やり直す”ことを選んだら、私はどこをどうするんだろう。
これまでの人生、意識はしてないけれど、毎回すべて自分で選び取ってきた。
もしもの人生は歩んでいない。
だから後悔もするし、もしもを想像したりもする。
でも、先を見通すことはできないから、毎回、たどってきた道を振り返っては「これでよかったんだよね」と納得する。
過去、これまで選び取ってきた日々の積み重ねが今だけど、もしもやり直せるとしたら……何をどうするんだろう。
たとえば、ほら。
さっきだって、あったかい緑茶にしようか冷たい緑茶にしようか迷った私はいた。
今、手元に冷たいお茶があったら、違うことを考えていただろうに。
「瀬那?」
「え?」
珍しい呼び名に、手元から顔が上がる。
黒に近い深緑の背景。
少し前までなら“見慣れた”といえた黒板が、今はとても不思議な感じがする。
だってほら。
大学生になった今は、黒板での授業がほとんどない。
ああ、ううん。古い建物だと黒板だけど、最近はずっとホワイトボードや映像での授業だったから。
でも、そうじゃない。
教卓に手をついていぶかしげな顔をしている彼女は、私にとって懐かしさをともなう人だから。
「日永先生、なんでここに……」
ある意味ではひとりごと。
でも、音が広がった次の瞬間、あたりにはさざ波のように笑い声が広がる。
「瀬那ぁぁあ……あんたねぇえ……」
「え? え……ぇわっ!?」
めりめりと音が聞こえそうなほど、こぶしを教卓へ押し付けた彼女は、怒る寸前の笑顔のまま唇の端をあげる。
て、いうか待って。
なんでみんな、制服なんて着て――……。
「ふあうぇええ!?」
教室の入り口付近に立つ祐恭さんが見えた瞬間、自分らしからぬ自分らしいよくわからない声が漏れて、今度こそ日永先生に叱られることになった。
「どしたの? あんた。今日、おかしくない?」
「うう……だって……だってぇ」
だって、だってじゃない。
なんで絵里は当たり前の顔をして、当たり前に座ってるんだろう。
どうして制服を着てるのに、何も違和感なく過ごすんだろう。
……あれ、え、これって夢? ひょっとして。
なのにちゃんと私が“私”でいられてるってことは、いわゆる明晰夢ってやつなのかな。
「どーせ、瀬尋先生見て、かっこいいなーとか思ってたんでしょ」
「おも……うけど、そうじゃない」
「へえー否定しないの、珍しいじゃない」
「そうかな?」
「そーでしょ。いつもだったら、そんなことないってめっちゃ手を振るのに」
ぶんぶんと両手を振る姿に、ああそういえばそうだなと我ながら納得。
確かにそう。
だけど、彼のことはかっこいいと思ってるし……って、そうだけどそうじゃなくて。
日永先生に叱られたあと、どうやら“今日”はあの日だったようだとわかり、あの場面は彼との初めましてな時間だったこともわかった。
今は昼休み。
ついさっきの私にとってはデジャヴだけど、きっと今の絵里にとってはそうじゃない、緑茶のペットボトルを手にしているのを見ながら、持ってきたらしいお弁当を片付ける。
あの日、このお弁当だったかどうかも、今はちゃんと覚えていない。
それくらい、私にとってはいつもの日常そのものの色が濃かった。
振り返れば、あのときは特別で、あの日がなければ“今”の私はない。
でも、かっこいいなとか、憧れるなとか、思ってはいてもそれは手の届かない人に向ける感情みたいなもので、身近なものとしてとらえられていなかったといわれれば、そう。
いろんなことがわかってみれば、実はお兄ちゃんの友達で、お父さんの教え子で、なんなら彼が高校生のときに家に遊びに来ていたこともわかってはくるけれど、それはすべて、あとづけの情報。
今日、この時間の私が知っているのは、隣の男子校からこの4月で赴任してきた、化学担当の若い男性教師ということだけ。
当然、マニュアルのスポーツタイプの車を運転していることも、マンションで一人暮らしをしていることも――……実は来年度には、大学へ戻ることになっていることも、何も知らないんだ。
「羽織。ねえ、ちょっと?」
「え?」
「やっぱあんた、ちょっと変よ? 今日。大丈夫? 授業連絡変わろうか?」
「え……あ、そっか。うん、ううん? 大丈夫」
「いや、どっちよそれ」
あいまいな返事で絵里が吹き出すように笑うのを見て、いつものようにつられた。
大丈夫。ただちょっと、いろいろ考えちゃっただけ。
……いろいろ。
「行ってくるね」
「はいはーい。よろしく」
お弁当箱をバッグへ片付けてから、今となってはとてもとても懐かしい場所になった、化学準備室を目指す。
渡り廊下から見える中庭にある、小さな桜の樹が満開で。
反対側の窓から見える、道路に面して植わっている桜の樹を、犬の散歩がてら写真を撮っている人が見えて、なんだか嬉しくなった。
春。初めましての、あのときがここにある。
これからどうなるか私は知っていて、彼は知らなくて。
でも、重ねた日々を十分よく覚えているから、もう一度なぞれることが嬉しい。
きっと、まったく同じにはならない。
交わした言葉も、当然あのとき一度きりのもので、どんなに同じことを重ねようとしても、きっとずれは生じていく。
それでも、大きなことは変わらない。
そして、根底にあるものもずれていかない。
もちろん、私が繰り返した小さな選択の過ちで、彼が私を好きになってくれないかもしれない。
それでも、私は彼を好きになるし……ううん、今、十分に好きだから、この気持ちはずっと同じ。
でも、それでも。ううん、だからこそ。
彼は、あの日を過ごさなくていい。
あの日を過ごした彼も今、変わらず私の隣にいてくれている。
定期健診も当たり前にあって、今のところ日常生活に支障は出ていないけれど、その不安を常に抱えている。
だったら、なくていいじゃないか。
彼だけじゃない。私だけじゃない。
お兄ちゃんも、葉月も、絵里も、田代先生も、もちろん彼のご家族も。
彼に関わるたくさんの人に大きな影響を与えた、あの時間だけは繰り返さなくていいと思う。
『もう一度人生繰り返すとしたら』
ついさっき聞いたばかりの、だけど今の絵里にとっては遠い未来の言葉が蘇る。
私が選ぶのは、あそこだ。
あの日、お兄ちゃんと出かけると言って、祐恭さんはひとり出かけた。
私も行きたいと言ったら、きっと連れて行ってくれただろうに、私はそれをしなかった。
だから、お兄ちゃんだけがすべて背負って、抱えて、傷ついて、苦しんで、耐えた。
自分の責任だと、私にはひとことも言わなかったけれど、葉月には繰り返し口にしていたと知ったのも、祐恭さんがもう一度私の隣にいてくれるようになってからのこと。
だからこそ、私も、あのときを過ごしたい。
何も変わらないかもしれない。結果は、同じかもしれない。
そう思うだけで足がすくみそうになるし、息がうまく吸えなくなる。
だけど、変わるかもしれない。
変えられる何かがあるかもしれない。
誰も傷つかないかもしれない。ひょっとしたら、結果が違うかもしれない。
そう信じて、私はきっとあの日に向かう。
たくさん準備して、考えて、できることをして、臨むだろうから。
「失礼します」
懐かしい色の、ドアを叩く。
開けばすぐ、通路をふさぐかのように両脇をかためる、背の高い棚と書物。
薬品ではなく、コーヒーのいい香りのするこの部屋を訪れることが、私は好きだった。
その体験をもう一度できるなんて……なんてしあわせなんだろう。
「っ……」
あの日、あのときと同じいでたちで、彼がいた。
白衣をまとい、ダンボールに囲まれて眉を寄せながら、どこに何を置こうか悩んでいる祐恭さんが。
「ん?」
「あ、え、っと……すみません」
こちらに気付いた彼と目が合い、何もないのに謝ってしまう。
……今、絶対顔が赤くなってる。
あれ、そういえばあのときも、こんな反応じゃなかったっけ。
ひょっとしたら、彼と接するときに出る反応は、どれも当時の私と違わないかもしれない。
「さすがに、すぐには片付かなくてね。……何か用事?」
「3年2組の授業連絡係の、瀬那羽織です」
「ああ、2組の生徒さん――……だね」
「え、と……どうして」
あのときと違う。
どこか、合点がいったかのような顔をされ、驚きからまばたく……ものの、ああそうかと納得。
そうでした。そういう顔しますよね。
どこか楽しそうに笑われ、そういえば彼の目の前で日永先生にちゃんと叱られたことを思い出す。
「っ……」
「よろしく、瀬那さん」
求められた握手に応じると、あたたかさもそうだけど、彼に触れたことがやっぱり嬉しくて、頬が緩む。
懐かしい。だけど、いつもと同じ。
さすがに、指を絡めることは当然はばかれるものの、やっぱり嬉しさは変わらない。
「よろしくお願いします」
「次の時間は、とりあえず実験室に集まってもらおうかな。みんながどこまで進んでいるのかを把握させてもらってから、授業をしようと思うから」
「あ、はい。わかりました」
当たり前に手が離れ、彼はすぐそこに置かれていた教科書を手にすると、あのときと同じように授業の内容を口にする。
あのときも聞いたはずなのに、どこか新鮮なようで、なんだか嬉しくて、やっぱり笑みは浮かんだ。
「……あの……?」
腕を組んだ彼が、まじまじと私を見つめる。
あのときは、どうして祐恭さんがこんな反応するのかをわからなかった。
何も言わず、ただ見つめられ、恥ずかしい気持ちしかなかった。
でも、今の私はわかるし、知っている。
彼がなぜ、こんな反応をしたのかを。
「……何かついてますか?」
「え? あ、いや、ごめん。ちょっと知り合いに似てたから」
変えても、いいだろうか。
ほんの少しだけ、先回りしてもいいだろうか。
普通のルートでは、ありえない展開。
ひょっとしたら、ほんの少しだけスキップできるような、特別ルートを選んでも、いいかな。
懐かしいとともに、少しだけ泣きたくなるような笑顔の祐恭さんを見て、まばたきが増える。
「覚えていてくれたなら、嬉しいです」
今じゃない、来年の話。
するりと漏れた言葉とともに浮かんだのは、あの、エレベーターへ駆けこんだ彼だった。
「兄がいるんです。瀬尋先生……以前、家へ来てくれましたよね?」
驚いた顔の祐恭さんへ、内心ではごめんなさいと言いながらも、どこかで嬉しい気持ちも当然あって。
『もう一度人生繰り返す』なら、やっぱり私は彼の隣をなぞりたい。
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