「……」
 いろいろな音が飛び交う中、普段とは違う世界を眺める。
 つい先ほど子どもが弾いていた楽器と同じはずなのに、ヴァイオリンがこんなにも“鳴る”とは思わなかった。
 ……ああ、音楽はこんなにもいいものなんだな。
 幾度となく聞いてきた“音”に違いないのに、弾き手によってがらりと雰囲気が変わるなんて。
 鳥肌が立つ。
 ああ、やっぱり音楽が好きだ。
「高鷲さん、36小節目の頭お願いできますか?」
「はい」
 ヴァイオリンを肩に乗せたままの彼と目が合う。
 指揮棒がなくとも、今日が初めてのセッションだとしても、呼吸は合うものなんだな。
 いや、それは間違いなく、彼が合わせてくれているからなんだろうが。
 ピアノにヴァイオリンの音が重なり、メロディが広がる。
 上手い人が……いや、うまいどころか相手はプロ。
 できない者に合わせるのが当然なんだろうが、視線だけでなく身体の揺れにつられてか音が膨らむ。
 楽しい、なんて言葉では表せないほどの、快楽にも近いもの。
 観客のないリハーサル室でさえも、音の響きが違うためかとてもとても心地よい。
「こんなふうに、息を合わせるというか……いや、さすがですね」
「とんでもない。自分は音楽を生業としていないので……にもかかわらず、こんな経験はかえって申し訳ないほどです」
「弾いてて気持ちいいですよ。先生じゃなくて、こっち側になればいいのに」
「そう言っていただけるだけで十分です」
 そもそも自分は普段、音楽に携わる仕事にはついていない。
 音を耳にすることはあっても、いち聴取側。
 なのに、まさかプロと演奏する機会があるなんてな。人生、あまりにも未知が過ぎる。
「いいオケですね」
「そうですね。定期公演にしか顔は出していませんが、選曲もいつも素敵ですよ」
 ヴァイオリンを持ち手へ戻したあと、彼はわざわざこちらまで歩いてきた。
 にこやかな笑みもそうならば、立ち居振る舞いもさすがとしかいえない。
 堂々たる風貌は、世界で戦う者らしく鮮やかなまでのプライドで彩られている。
 初めて会ったときとは、まるで違うな。
 場所が変われば品変わる、人ももちろん品のひとつである以上、場面や相手によって見せる顔は違って当然だが。
「芹沢さんは、よくあのお店に行くんですか?」
「いえ、たまたま知り合いが来週末から奥のスペースを借りて個展を開くというので、その下見みたいなものです」
 彼とともに舞台から降り、歩みをともにしながらやや離れた客席側へ移ったところで、ふいに先ほどの光景が蘇る。
 たまたま、か。
 ああ、やはり人生はわからないものだな。
 自分とて今日は、あの店ではなく本屋が目的だったんだから。
「高鷲さんが穏やかな人で助かりました」
「穏やかと言われたのは、初めてかもしれません」
「そうなんですか?」
「環境が違うから、見せる顔が違うんでしょうね」
 先ほど、彼に対して思ったことが漏れ、ああそういえば自分も同じだもんなと勝手に重ねる。
 職場で見せる顔は、きっとこんなものじゃない。
 ……だが、それもある意味では当然なのかもな。
 “仕事”をしに行っているんだから。
 約束を守ること、ルールを守ること、自己のみならず他者を尊重すること。
 “世の中”である以上、学校はなんでもかんでも許していい場所じゃない。
 家族がいちばん小さな集団であり社会であるならば、日々の所属場所である学校は、そこにいる者にとってのある種の規律を守りながら配慮する場所だろう。
 廊下を走るなとか、授業中寝るなとか、教師の小言に聞こえるようなものであっても、学校の外に出れば誰も言ってくれないマナーのようなもの。
 電車内を走ることなく、会議の場で眠らないよう気を付けるのは、普段の行動の結果ではないのか。
 日常がおろそかになれば、特別な場でも同様の反応は起きる可能性がある。ならばそれを削いだほうが、ある意味では効率的じゃないか。
 ……なんて話したら、また“ほんと合理主義だよね”と言われそうだな。
 と、今ならば“誰がどう思うか”とIfが働く。
 出会いこそしていたが、特別な関係になるまでは、自分にとって他者はあくまで社会の付属物でしかなかったからか、自分を俯瞰してみるような癖はなかったのかもしれない。
「あそこ、コーヒーはおいしかったんですよね」
「え?」
「そこだけは、歌詞と違いました」
 口元に手を当てた彼が、先ほどまでとは違いどこか幼い顔つきで笑った。
 それを見て、ああもしかしたらこういう顔を見せないために普段は  いろいろなものを背負っている人は……いや、それは誰しも同じ。
 プロだろうとアマだろうと、人が人として日々を送っている今、どんな仕事に就いていてもそれはあくまで過去の自分の選択のひとつ。
 正しいかどうかなんてわからないし、明日も続けているかも実はよくわからない。
 ただ、日々を選び取っているだけ。
 嫌だけど、憂鬱だけど、許せないけど、悔しいけど、と様々な冠をつけながらも、日々の自分を肯定するために誰しも毎日、どんな瞬間も“こうしよう”と自己の行動選択を行っているんだから。
 無意識というのは、ある意味厄介でもあり助けにもなるものなんだな。
「サハラン・ミューズとの出会いがなければ、こんなふうにお話できる機会はありませんでした」
「まさか、アマもアマ、それこそ十代のころに出したアルバムを知ってくれている方がいるなんて、こちらこそ驚きですし……嬉しかったです」
 クラシックとジャズ、そしてロックそれぞれを融合させたような、新しい音楽は果たしてどこから生まれたのか。
 あの曲を聴くまで、クラシックもジャズも単独でしか聞いていなかったのに、世間では邪道とされた曲を聴いたときの鳥肌といったらなかった。
 意外な組み合わせも、試したうえで結果どうだったか判断するのは自分。
 ああ、そういえば今朝も、カツオのたたきにマヨネーズをかけたいと言い始めたのをいつものように渋ったら、同じようなことを言われたな。
 世の中がどうのではなく、“自分”で自分の答えを出していい。
「今度はぜひ、うちの学校に講師としておいでください」
「でしたらぜひ、事前に校歌を教えていただけますか? せっかくなので、なじみのある曲でも」
 さらりと、どうすれば場が盛り上がるか判断できるあたり、何度も何度もこのような公演を受けてきてのものらしく、彼は今の今とは違い、舞台上と同じような顔で笑った。
 切り替えはさすが。
 いや、それとて誰しも同じ。
「演奏というよりは、芹沢さんご自身の生きざまを語る場として、ぜひ」
 音楽家として生きる道を選び、どのように歩んできたかを話してもらっても構わないが、きっと彼ならばただの方法論ではないものを話すだろう。
 ほしいのは、そこ。
 人と違う生き方を選ぶことは、世間一般の否定的な声を浴びながらも上手に受け流して自分をきちんと自分で信じてやる必要がある。
 彼がどうやってきたのか、その考え方は、揺らいだときは、そして……今振り返って、何を思うのか。
 “これから”の子どもたちに、聞かせてもらいたいことはたくさんある。
「高鷲さんは、本当にいい先生ですね」
「そういわれたことも、これまでなかったかと」
「体裁ではなく、本当に彼らの将来を考えたうえでどんなものが必要か、なあなあにならず保ち続けることこそ、揺れやすい子どもたちのそばにいるにふさわしい」
 彼の話を聞いてみたいし、聞かせてみたい。素直にそう思ったとき、ああなんだ自分とてこの仕事にプライドをもっているんじゃないかと安心した。
 自分ではわからないものだな。
 まるごと自身を肯定してくれる言葉の数々をさらりとこぼす彼だからこそ、届き、響く言葉をくれる人だと心底感じたから、やっぱり話を聞いてみたい。
「実は今朝、ちょっといい夢をみたんですよ」
「へえ。それはどんな?」
「もしも自分が今と違う仕事をするとしたら、どんなものを選んでいるかと問われるようなものです」
 自分もきっと何かしらの夢をみたのだろうが、目を開けたらすぐここに彼女がいて、もしかしたら吹き飛んだのかもしれない。
 もし、自分が違う仕事をしているとしたら。果たして、自分は何を選んでいるのか。
 今朝見た夢は覚えていないが、そうやって言葉にされることで考えるきっかけにはなるからこそ、人と話すことは自分を顧みる手段そのものだと改めて感じた。


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