「きりーつ、れーい、ありがとうございましたー」
 午後の第一発目とあってか、やや眠たげな生徒もいたのは確か。
 だが、眠り込んでしまう生徒はおらず、むしろ熱心に板書を取る姿が印象的だった生徒のほうが多かった。
 中でも、やはり目立ったのは瀬那葉月、か。
 同じグループの子がしゃべってしまっているのを見ると、そっとたしなめる姿も見られ、ますます孝之の妹には見えなかった。
 孝之は、おせっかいだがああいう人のためにとかっていうのとは違うんだよな。
 もっとも、思春期にはそういう良心的な行動を非難する生徒も出るし、内申点がどうのと揶揄する子もいるのだが、彼女にいたっては陰口を叩かれるタイプじゃないようだ。
 たしなめられた生徒に、ひとことふたこと付け足すとともに笑いあって終えており、関係を築くのも上手なことが見られた。
 そういうところは、孝之と似てる……か。
「瀬尋先生」
「ん?」
 板書を消しながらそんなことを考えていたら、背中に声がかかった。
 教科書類を抱きかかえているふたりは、ぱっと見似ているといえば似ている。
 よく一緒に行動しているのも見かけるが、それはお互いにわかっている部分もあるのかもしれない。
「どうした?」
「瀬尋先生って、どうして化学の先生になろうと思ったんですか?」
 佐藤藍月あいかが口にしたのは、予想もしてなかった質問で、思わずどう答えればいいものかと戸惑った。
 どうして。
 ……そう言われると、やや答えにくいというのもある。
 実際、俺は別に教師になりたくて今ここにいるわけではなく、ある種のしがらみのせいとでもいえばいいか……。
 だが、それを彼女らにぶつけたところで、恐らく期待する答えとは違うから、ある意味困らせるというか……。
 大人の事情で。
 なんて答えたら、絶対がっかりするよな。
 佐藤の隣、きらきらとした眼差しで俺を見つめてくる木ノ上きのかみさくやに至っては、ヘタな受け答えをした時点で大声で文句言いそうだ。
「いや、まぁ……なんていうんだろうな。教育実習で、教える楽しさを見つけたでもいうか……」
 嘘ではないが、本当でもない。
 それをどうやら見抜いたようで、佐藤はあからさまにため息をついた。
「もー。私たち別に、お手本通りの答えがほしくて聞いてるんじゃないんですよ?」
「え」
「そーそ。どっちかっていうと、瀬尋先生がなんでここに“先生”でいるのか不思議っていうか。だって、理科の先生って結構変わってる人多いじゃないですか」
「さくやちゃん、それ言っちゃう? 面と向かって言ったら、ケンカ売ってることにならない?」
「やだなー。藍月は心配し過ぎだってば。瀬尋先生はそんなことで怒ったりしないですよね?」
 けらけらと笑う木ノ上に、もはや何も言うことができない。
 いや、別に怒ったりしないけど……というか、俺も今朝そんな話題をした覚えが。
「進路のことで、迷ってでもいるの?」
「んーまぁそんなところです。ただ、周りの人……大人がどうして今これを選んだのかって、気になるじゃないですか」
「……なるほど」
「同じ質問、瀬那先生にもしたんですけど、その答えが意外に面白かったので、じゃあ瀬尋先生はどう言うのかなーと思って」
 興味本位です、とにっこり笑った佐藤に、素直すぎるなと思いながらも苦笑が漏れる。
 しかし、孝之はどんなこと言ったんだ。
 アイツは立場とか体裁とか一切考えず、自分の思ったことをただ口にしていそうなだけに、若干の不安が。
 まあいいけど。俺じゃないし。
「なりたいものはあったし、やりたいことも別にあるけど、今はこれが俺の仕事になったから……じゃ、リアルすぎる?」
 思いついたのは、小さいころに夢見た職業。
 大空を自分の技術で飛んだら、どんな気分なのかと考えたことがあった。
 ぴしっとした制服に身を包み、何百人という乗客の命を預かる。
 今考えれば相当なプレッシャーだとは思うが、それよりも“やってみたい”気持ちのほうが強くて精いっぱい努力もした。
 残念ながら、自分ではどうすることもできない視力のせいで断念はしたが、その当時はもう、自分にその夢を追えるだけの熱意が残っていなかったことも実はある。
 楽しいこと、やりたいことって年を経るごとに変わるもんなんだよな。
 だからきっと、目の前のふたりが“今”やりたいことと、数年後の“今”やりたいことは違うかもしれない。
 が、それを今言っても仕方のないことで、今は今の自分のために動くべきだとも思う。
「そういう答えが欲しかったんです」
「え?」
「瀬尋先生っぽいですよね、それ。すごく」
 木ノ上と佐藤が顔を見合わせてから、満面の笑みでうなずいた。
 よくわからない……のが正直なところだが、満足してくれたならそれは何よりの話で。
 次の時間の予鈴が響き、慌てて教室へ戻っていった後姿を見ながらも、『よかったのか?』と言った本人がかえって後ろ髪引かれる気分だったが、まぁいいかと締めくくることにする。

「あ。お疲れさまです」
「お疲れさまです」
 6時間目が終わり、掃除の時間へ切り替わったところで職員室へ向かうべく渡り廊下へ向かうと、美術の葉山みなみ先生がちょうど向こうから歩いてきた。
 明るい茶色の長い髪が、風に揺れるのを片手で押さえる。
 ――のを、どうやら違う角度から見ていたらしく、孝之がひょっこり姿を現した。
「みなみちゃんさー、祐恭と俺に対する態度違いすぎじゃね?」
「なんのことですか」
 ちくり。
 ふい、とあっちへ顔を向けた途端、雰囲気が若干とげを持つ。
「いやいやいや。祐恭より先に俺に気づいてたはずだろ? なのに、なんでシカトかな」
「別にそんなことしてません」
「……あーだからさー、アレだろ? 『みなみちゃんて、フルネームがちょっと早口言葉みたい』つったの怒ってるってことだろ? あれは……正直、申し訳ありませんでした」
「そんなふうに謝っても、許しませーんだ。瀬那先生はそうやって小さいころから女子をからかって生きてきたタイプでしょ。ダメですよそれ。傷つきました」
「あーあ。孝之君いけないんだー。女の子には優しくしろって教わらなかったの?」
「ぶ! 純也さんまで、どこから……!」
 それはそれはおかしそうに笑いながら、純也さんが背中越しに声をかけてきた。
 振り返るまでもなく、盛大に笑いをこらえていることがわかり、葉山先生が少しだけ唇を尖らせる。
「もー。田代先生までからかわないでください」
「ごめんごめん、そんなつもりなかったんだけどさ」
 苦笑交じりに両手を合わせた彼が、葉山先生の隣へ行って『ごめんね』と口にする。
 と、彼女はあっさり『いいですよ別に』と笑ってみせたものだから、孝之が声をあげる。
「ちょ、ひどくね? なんで俺ばっかり」
「それは瀬那先生の日ごろの行いとでも言いますか……」
「え、俺なんもしてないじゃん。なんで?」
「あーそんなふうに言っちゃうんですか? 何もしてないわけないでしょう、もう!」
 きっと、葉山先生もそこまで怒ってはいないし、なかば冗談だったに違いない。
 だが、今の孝之のセリフは明らかによくない。
 馬鹿だなコイツ。ホントに。
 普段の察するチカラはどこへ行ったのかと、不思議でならない。
「あーあ。孝之君いけないんだー、女の子いじめて」
「いじっ……て、ちょ、鷹塚さんそれはないっしょ!」
「てかさー、若い子同士でわちゃわちゃしてるの見ると、なんかこう面白いもんだな」
「いやいやいや、鷹塚先生だって十分若いでしょ」
「いやー、20代と30代は全然違うもんだよ? な、はやみー」
「……はや……」
「みー……?」
 渡り廊下のあちらから現れた鷹塚先生が、近づいてきたかと思いきや葉山先生の肩を叩いた。
 明らかなあだ名を口にした彼と、言われた張本人以外のメンツが揃ってきょとんとしたせいか、葉山先生がくすくすと笑う。
「なんでも、鷹塚先生の教え子と名前が『はやまみ』まで一緒なんですって。私もびっくりしたんですけど、そこまで一緒ならあだ名も一緒だなーって言うんで」
「昔、俺が小学校にいたときの教え子なんだよ。今はもう高校生になってるだろうなー。……下手したら、この学校にいたりして」
 けらけらと笑った彼が一瞬見せたのは、明らかに“先生”の顔で。
 というか、昔といってもそこまで昔ではないだろうに、まさか小学校教諭の経験まで持っているとは……この人はいったいどういう人生を歩んできたのか、ある意味気になった。
「『貴校にて、よりよい学校運営に貢献できればと存じます。よろしくお願い申しあげます』なんて、めちゃくちゃ真面目なあいさつをするとかもさー、すげぇ似てて。あ、手ぇ出しちゃダメだからな。俺にとっては、教え子同然のかわいい子なんだから、どうしても口説きたかったら俺通しな」
「なんすかその私物化」
「いーだろ」
 いやいやいや、誰も褒めてませんって。
 孝之がつっこみを入れるが、葉山先生すらも案外ノリ気なようで『よろしくお願いしまーす』などと口にしていた。
 そういうふたりこそ、どういう関係なのか。
 そうツッコみたくはなったが、当然誰も口にすることはできなかった。


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