「……ん?」
 放課後の学内は、あちこちで様々な音が溢れる。
 それは部活動が盛んな学校ということもあるが、いまだ教室に残ってしゃべっている生徒などがいるのもあるんだろう。
 そんな中、これだけ離れた場所からでも活気づいた声が漏れてくる場所がひとつ。
 ……中を見なくてもわかるっていうのは、ある意味すごいよな。
 この学校で過ごして1週間、もはや恒例にもなっている放課後の家庭科室で繰り広げられているイベントは、少しずつ巻き込まれ生徒を増やしていた。
「はーい。じゃあ、溶かしバターをゆっくり入れてねー」
 高くよく通る声が、廊下まで響いてくる。
 と同時に、ほのかに甘い香りも漂ってきているような気さえした。
「あー、ここだったのか。すっげぇいい匂い。うまそう」
「……お前、どこにでも出没するな」
「失礼だぞ。俺はヒマじゃない」
「暇だからここにもいるんだろ?」
 階段からふらりと降りてきたのは、案の定孝之で。
 というか、お前の行動範囲広すぎだろ。甘い物を察知する嗅覚も鋭すぎるけどな。
「あれだろ? ドン部屋」
「は?」
「なんだ、お前知らねーの? 家庭科のアサコ=ヴァレンティーノ先生。すげぇ名前だろ? でも、日本語しかしゃべらないっつーんだからさらに驚きだよな。通称“青の首領ドン”って呼ばれてるらしくて、ひょっとしたら日本に入ってるファミリーの関係者なんじゃないかってのがもっぱらの噂」
 相変わらず、どこから仕入れてくるのか知らないが、コイツの情報収集能力にはため息しか出ない。
 まだ、この学校に赴任してお互い1週間。なのに、そこまで個人的なことを知っているとは。
 しかし……首領があだ名というのは、なかなか……。
「で、だ。そのアサコ先生が放課後に開いてるのが、このクッキングスタジオってわけ」
「スタジオ?」
「ま、部活みたいなモンだな。つっても、部員じゃなくてそのときに集まった生徒らと、わちゃわちゃ菓子作りをするっつー会らしいぜ」
 なるほど。だからお前が知ってるんだな。
 そして、そこまで詳しい理由もそれかと納得できた。
 きっと、何度か足を運んではいるんだろう。
 コイツのコミュニケーション能力の高ささえあれば、味見と称してそのときどきの菓子類にありつくことはたやすいだろうし、現に、『先週はチョコレート系で、今週は焼き菓子か』とかつぶやいてるあたり、ビンゴだろう。
「そうそう! そうやってふんわりバターを練っておくと、仕上がりが違うからがんばってね」
「アサコ先生ーこれ、すっごい疲れるー」
「おいしいものを食べるには、1に努力2に努力! あとは、超基本的なことだけど、お菓子作りはきっちりした計量が大事ね。おおざっぱじゃ、おいしいものはできないぞー」
 雰囲気が楽しそうで和やかなことは、廊下にも伝わってくるほど。
 どうやら先発隊がオーブンを使っているようで、遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえる。
「うん、色づきもいい感じね。アーモンドプードルのおかげで、さっくりしっとりのおいしい仕上がりだと思うわよ!」
「すっごい、いい匂い!」
「できたてを食べたら、きっとおいしいでしょうね」
「葉月ちゃんって、自分のためより誰かのためにお菓子作りしてそうだもんねぇ。今日は私が許すから、できたてを思う存分召し上がれ!」
「ふふ。ありがとうございます」
 葉月、という名前に思わず反応したのは、俺だけではなかった。
 孝之の表情が変わり、これまでと違って怪訝そうに眉を寄せる。
「……アイツ、こんなとこにいたのか」
「いや……別に、いるぶんにはいいんじゃないのか? まあ、彼女が何部かは知らないが」
「そーゆー問題じゃないんだよ。アイツ、普段ほとんど夕飯食わねぇクセに、間食なんぞ100年早いっつの。先週なんて、夕飯食ったの週末とこの会がなかった水曜だけだぜ?」
 『あの馬鹿が』と舌打ちしたのを聞いて、正直意外だと思った。
 コイツ、こんなに妹想いなやつだったのか。
 それこそ、高校時代から付き合ってはいるし、その間に何度も『うちの妹が』と愚痴めいた話を聞いたことはあるから、当然存在はわかっていた。
 だが、そういうときの話はたいてい批判的で、とてもじゃないが、今のように身を案じての発言ではないものばかり。
 なのに、まさか夕食をきちんと食べないということで、その身を案じるとは……コイツ、意外といい兄貴なんだな。
 というか正直、俺なんかよりもよっぽど“兄貴”だ。
「? なんだよ」
「いや、お前ってホント世話焼きだなと思って」
「はァ? なんでそうなる」
「妹のことをそこまで考えてやれるとか、いい兄貴だったんだな。見直した」
「はぁぁぁああ? 何言ってんだお前。俺がいつあんなヤツのこと考えてやったよ」
「いつって……いや、今だろ?」
 たった今話していたクセに、がらりと表情を変えた。
 今の今までは、それこそ“かわいくて仕方がない”みたいなことを言っていたクセに、なんだその変わりようは。
「…………」
「なんだよ」
「……いや……」
 ホントお前って、素直じゃないよな。
 そう言おうとは思ったが、間違いなく食ってかかってくるであろう未来が見え、口を結ぶ。
「ねーね、首領せんせ。明日は何作る?」
「そうねー。マドレーヌも作ったし、今日はフィナンシェで……シフォンケーキでも作ろっか?」
「うっわ超絶おいしそう!」
 きゃいきゃいとテンションも高ければ教師に対するものとは思えない口調でしゃべっているのは、皆瀬絵里と宮崎穂澄。
 クラスこそ違えど、3年でも元気な部類というか、割とよく目立つタイプの生徒だ。
 宮崎は生徒会執行部に携わっていることもあり、教員間でも名前を聞くことがあった。
 そういえば、皆瀬に関しては化学部への入部希望書類が届いており、意外と思ったのがつい先日。
 まだ部活は始まっておらず、明日から始まる予定だ。
「アサコ先生、紅茶の準備できました」
「あ、カップも温めましたよ」
「あらー、さっすがは羽織ちゃんと瑞穂ちゃん! 気が利くわー」
 元気そうというよりは、おとなしめの部類にでも入るか。
 これまでのふたりとは雰囲気の異なる声が聞こえ、わぁっと室内が賑わう。
 まあ、楽しそうな活動であることは間違いないな。
 見てはいないが、いわゆる“きゃっきゃうふふ”状態なんだろうよ。
「あ? なんだ。お前、行かねーの?」
「いや、行かないだろ。そういうお前は、いつも行くのか?」
「行くっつーよりはまあ、勝手に誘われるまでがデフォっつーか」
「……は?」
 意味ありげなセリフに眉を寄せると、ひょっこりとドアから顔がのぞいた。
「あ。やっぱりいたしー。孝之君さー、ほんっと好きだよね。甘いもの」
「どっちかっつーと、ただの甘いものが好きなんじゃなくて、甘くてうまいモノが好きなんすよ」
「まーたそーやってうまいこと言おうとしてるし。まあいいか。どーぞ、今日もちゃんと席取っておいてあげたから感謝したらいいよ」
「まじすか! あざっす」
 今、間違いなく彼女の大きな手のひらが見えた。
 その上で転がされる、孝之の姿も。
「祐恭君はどうする?」
「え? 自分ですか?」
「うん。甘いものキラい?」
「いえ、そういうわけではないんですが……職員室へ戻らないといけないので」
「そっか残念。それじゃ、また今度ね」
「ありがとうございます」
 今、一瞬彼女の瞳がきらりと光ったように見えたのは、気のせいだったと思いたい。
 一度口にしたら、孝之のように自然と欲するようになってしまうんだろうな、きっと。
 そういう、ある種の魔法めいた菓子を作り出せる人なんだと、食べずして理解できた気がした。


「いや、それはさーアレだろ? ユカちゃんが知らないだけじゃん」
「もー、そんなことないですってば! ダメなものはダメなんですー。その領収書は落とせないんですー」
「そこをなんとか」
「だめですってばぁ。もー」
 すっかり夕闇が押し寄せ始めた、18時過ぎ。
 帰宅すべく職員玄関への階段を下りていたら、階下から楽しそうな声が聞こえてきた。
 ……ああ、やっぱり。
 声というか話し方というかで鷹塚先生だとわかったのは、まだ1週間しか経っていないにもかかわらず、彼に似た人物と長年の付き合いがあるからかもしれない。
「はー。しょーがねーな、じゃあ諦めるよ」
「そうしてください。あ。あと、この間の藤沢市への旅費請求のことですけど……」
「え、待った。アレは俺ちゃんとした請求だよ? 増してないって」
「もー何も言ってないじゃないですかー。事務処理が完了したので、後日振り込まれますよーって話です」
「……あー、焦った。心臓に悪いからやめてそーゆー言い方」
「鷹塚先生が誤解しただけじゃないですかー!」
 彼が話しているのは、事務職員の女性だ。
 俺より年下に見える。というか、制服を着ていたら女子高生と言われても通じるかもしれない。
 だが、たまに俺よりずっと年上の先生と、“昔はやったもの”の会話をこなしているのを見たことがあり、年齢不詳だと強く思う。
「そういえば……さっき鷹塚先生、瑞穂ちゃんに絡んでたでしょ」
「俺?」
「ほらー生徒会室前でですよ。これから役員会議があるって時間なのに、頭ぐりぐりして離してあげなかったじゃないですか。もー、どんだけ小さい子扱いしてるんですか」
「……ああ! あったなそんなのも。え、てかあのときってユカちゃんいた? 全然気づかなかった」
「ふふ。学校のことなら、なんでもお見通しです」
「学校のことっていうより、俺のことって感じじゃね?」
「やだなー鷹塚先生ってば。自意識過剰って言われちゃいますよ?」
「いや、そこはひとこと『そうですよ』って言ってくれたら、もっとかわいいのに」
「あ、大丈夫でーす」
「ひでぇ」
 にっこりと応対した彼女は、さすが慣れたものだ。
 鷹塚先生もわかっているようで、けらけらと笑ったあとようやく姿勢を正した。
「はー、笑った。んじゃ、おとなしく帰るわ」
「お疲れさまでした。また明日」
「おー。がんばる。てか、ユカちゃんもね」
「はーい」
 ひらひらと手を振り、玄関の大きなガラスドアを押す。
 その後ろ姿を見送って靴を取り出すと、くすくすといった笑い声が聞こえた。
「すみません、瀬尋先生。お待たせしてしまって」
「ああ、いえ。大丈夫です」
 どうやら、気づいていなかったのは鷹塚先生だけらしい。
 苦笑した彼女に頭をさげられ、慌てて手を振る。
「鷹塚先生、いつもあんな感じなんですか?」
「そうですねー。暇なときは、結構ちょくちょく来ますよ。お茶の時間とか」
「へぇ」
 そういえば、彼の姿を各所で見かけることは多かった。
 そういうところ、やっぱり孝之とカブるんだよな。
 類は友を呼ぶ、まさにそれ。
「お疲れさまです」
「お先に失礼します」
 いまだ、煌々と明かりのついている事務室内には、ほかにも数名の職員が残っている。
 学校には、なくてはならない部署。
 俺たち教員にとっても、事務手続きの必要な生徒たちや、教員とは違う立場で話を聞いてもらいたい子にとっても。


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