「わぁ……なんだか、不思議な感じですね」
ガラスでできた乗り物――といっても、実際はガラスとは少し違う。
恐らくは、強化プラスチック。
厚みのある、ゴンドラのような形をした乗り物にふたりで乗り込み、流れに身を任せてゆったりと進んでいく。
大きな室内に満たされた水は、薄明かりの照明を受けて、ところどころきらりと光る。
音響にかきけされない、すぐ近くでするちゃぷちゃぷという水の音は、なんとなく心地よかった。
「…………」
すぐ隣には、瑞穂がいる。
だが、今はさすがに手を繋いでおらず、彼女はあたりを見ながらあれこれと楽しそうに笑っていた。
…………が。
なんとなく、な。
ほんの少しばかり自分の中で揺らいでしまった自信というか――ぶっちゃけ、半分嫉妬みたいな。
そんな感情が消化されていないせいか、気づくと縁に頬杖をついたままぼんやりと景色を眺めていた。
一応、この水はすべてアリスの涙、ということになっているらしい。
ああ、そういやそんなシーンがあったっけか。
巨大な瓶に入ったドードーの人形がぱくぱくとくちばしを動かしているのを見ながら、記憶を探る……が、やはりそのあたりの記憶力は頼りなかった。
「……きれい」
ぽつりと聞こえた小さなひとりごと。
ふと瑞穂を見ると、笑みを浮かべているようで、キレイな唇が目に入る。
「っ……」
「やっとだ」
「え?」
「やっと、ある意味ふたりきり、だろ?」
肩に腕を回し、そのまま引き寄せる。
さいわいにも、このアトラクション自体がしばらくは暗いままのようで、こうしていても、誰かに見られる心配がない。
まぁ、厳密に言えば監視カメラがわんさかあるだろうから、ふたりきり、ってヤツには該当しないかもしれないが、今はもうそんなことはどうでもよかった。
「……あ」
ぎゅう、ともう片手も回して抱きしめる。
耳元は、唇のすぐそこ。
もしかしたら、吐息はすでに届いているかもしれない。
「このままずっと離さない」
「っ……」
「つったら、どうする?」
たとえ照明がほとんどなくても、この距離ならば表情はちゃんと見える。
少し間を空けてから顔を覗き、ぱちぱちとまばたきしている瑞穂の反応を待つ。
――と、ほどなくして、ふにゃんと表情を緩めた。
「うれしいです」
「っ……」
「ひとりじめ、ですね」
噛みしめるように囁かれたセリフに、がらにもなくどきりとした。
ひとりじめ、か。
これまで表現されたことのない言葉だ。
「昔も今も、鷹塚先生をひとりじめできることって、ないんですもん。それはもちろん、私だけじゃなくて、6年3組のみんなも思っていることでしょうし、卒業生だってずっと思っていたことだと思います」
「……そうか?」
「そうですよ! だから……ぎゅっとしてもらえていたら、その間はずっとひとりじめできる時間ですよね?」
「…………まぁ、たしかに」
「だから、このままずっとこうしていてもらえたら、私は……とってもうれしいです」
声が、表情が、なによりも彼女の感情そのものを表している。
この顔を見れるのは、俺だけ。
……いや。
こんな顔を瑞穂にさせることができるのは、俺だけ、だ。
そう実感すればするほど、たまらない感情が身体いっぱいに広がり始める。
「私、毎日が幸せなんです」
「幸せ?」
「はい。壮士さんのことを思い浮かべるととっても幸せで、うれしくてたまらなくて、いつもひとりでにまにましていて。とっても怪しい、ってお姉ちゃんにも言われました」
苦笑を浮かべた瑞穂が、ほんの少しだけ俺にもたれた。
鼻先に香る、甘い匂い。
シャンプーとは違い、どちらかといえば彼女自身の香りのようなものを感じながら、少しだけ腕の力を解いて体制を整える。
横顔ではなく、もう少しだけ正面から見えるように。
「でもそれくらい、今の私は幸福度が高いです。ほかの誰よりも幸せだって、自信を持って言えますから」
微笑んだ瑞穂の顔が、かわいいじゃなく、キレイだと思えた。
雰囲気がそうさせたのか、それとも今のセリフのせいなのか……なんなのか。
理由は、俺にはよくわからない。
だが、そう言った瑞穂がとても幸せそうで、ものすごく嬉しかったのは事実。
……いや。
正確には、とても誇らしかった。
これほど自信たっぷりの顔で『幸せ』と言ってもらえたことが。
「ずっと大好きだった人に、こうして振り向いてもらえて、特別にしてもらうことができたんです。そばにいられるようになって……毎日、幸せだなぁ、って。手を伸ばせば、握り返してもらえて……夢みたい」
噛みしめるように囁いた瑞穂が、言葉どおりに俺へ手を伸ばした。
細い白い手を絡めとるように握り、引き寄せる。
こうするだけで、瑞穂が幸せそうに笑った。
そんな顔をしてくれることが、嬉しいだけじゃなくて、自分の存在意義になる。
「頭を撫でてもらえて、ぎゅっと……抱きしめてもらえて。そばにいてくれたらいいのにって思っていた人が、そばにいてほしいって言える人になって。私、本当に幸せなんです。だから……ちょっとしたことですぐに不安になるんです」
「不安?」
「贅沢だなぁ、って。今の自分は幸せすぎるから、もしかしたら……いつか、夢だったんだよ、って神様に言われるんじゃないか、って。ベタな展開かもしれませんけれど、本当は今、長い夢を見ているだけなんだよって言われたら、私、起きない自分を選択をします」
俺を見つめる瞳には、芯の強さがあった。
ぶれない、個の意思。
瑞穂は昔からそうだ。
いつだって、多いことが常に正義でもないことを、ちゃんと把握していた。
人に、周りに、流されない強さ。
そう。強さだ。
だからたとえ俺が『違うだろ。こうしろ』と言ったところで、瑞穂は恐らく自分の信念を貫く。
もちろん、俺の言葉で納得しての意見変更ならありえるかもしれないが、“俺に言われたから”という理由で変わることは決してないだろう。
あえてコトを荒立てることはしないが、だからといって流されるわけでもない。
それが、葉山瑞穂。
色んな場面で、時で、俺の特別だった彼女。
「お前も不安なのか?」
「……壮士さんも、不安なんですか?」
「情けないだろ」
「いいえ、そんなふうには思いません。私のほうが、きっと、もっと、ずっと不安です」
いつの間にか、景色が先ほどまでとはがらりと変わっていた。
穏やかなクリーム色の空が広がる空間。
そこには、淡い色が集まった虹がかかっていて、パラシュート代わりの傘を広げた動物たちが、何匹も空をくるくると散歩するかのように漂っている。
そんな空を見上げながら、瑞穂が穏やかな声で続けた。
「壮士さんはいつだって大人で、絶対に追いつくことができない人です。私はいつまでも子どもで、できないことのほうが多くて……毎日勉強しても、壮士さんに追いつくことができなくて。それが悔しくて、不安……なんですよね」
瑞穂の言いたいこともわかる。
だが、こればかりは金の力でもどうにもすることができない。
年月。時間。
それは、誰にも左右することのできない、不可侵。
どうやったって追いつくこともできなければ、巻き戻すこともできない。
世界各国、万人に共通して同じだけ平等に与えられているもの。
さらさらと砂のように流すのか、はたまたぽたりぽたりと水滴のように潤すのか。
使うのはその人間次第で、だからこそ、いかようにも形を変える。
「俺は、大人じゃない」
きらきらと天井近くに輝いている金色の月を見ながら、ぽつりと本音が漏れた。
そう。
俺は大人なんかじゃない。
瑞穂と再会し、自分の醜さ、汚さを改めて実感して、さらに強く思った。
ああ、俺は本当にガキのままなんだな、って。
やれてるようで、やれてない。
実際は、ただのメッキで繕ってきただけなんだ、って。
結局、12年経った今も、もしかしたら新任のあのころと何も変わっちゃいないのかもしれない。
ただ――何事も、器用にこなせるようになっただけで。
「自分の体裁を繕うことしか考えてなくて、いつだって行き当たりばったりで。何も計算しないで生きてるんだぞ」
「そんなことないですよ。壮士さんの生きている道は、外れなんてないですから。どこを通っても、ちゃんと目的にたどり着きます。遠回りしても、それは全部新しいスキルになって身についてるんですから」
ふるふると彼女が首を振るたび、柔らかな髪が揺れて身体に当たる。
瑞穂らしいセリフだ。
こうして俺を立ててくれようとする言葉を聞けば聞くほど、ああ、俺は本当に愛されているんだなと感謝する。
「それに、最短ルートじゃなくて、あちこちいろんな場所を通っていくほうが、楽しいじゃないですか。知ってることは、多いほうが選択肢に幅ができますからね」
「…………」
「っあ……! ごめんなさい、私、また……すみません」
慌てた瑞穂に、思わず小さく笑いが漏れた。
「職業病だな」
「……かもしれません」
ぽん、と瑞穂の頭に手を置き、さらりと髪に指を滑らせる。
「ずっと俺のそばにいてくれ」
「っ……、壮士さんも、ずっと……私のそばにいてください」
一瞬だけ目を丸くした彼女が、すぐにそれはそれは幸せそうな顔で頷いた。
この顔を見れた俺は、幸せ者だな。
自分自身も同じような笑みが浮かぶ。
「……もちろんだ」
「っ……」
「これも職業病だな」
頭を撫でてから顎に手を当て、軽く唇を合わせる。
柔らかな感触が心地よくて、うっかりそのまま舌を這わせそうになった。
……まぁ、別に今はそれをしたところで何も困ったりしないけどな。
「こんなこと、鷹塚先生はみんなにしないじゃないですか」
「そりゃあな。……お前は俺の特別だから」
「っ……」
「ほかの人間にはしないことを、いっぱいしたっていいだろ?」
小さく聞こえた、『はい』という返事が、声が、妙にかわいくて身体の奥がぞくりと震えた。
ここがプライベート空間だったら、どれだけよかったか。
さすがに公衆の場ってのもあってこれ以上手を出すのははばかれる。
……というのも、職業柄、どこで知り合いに会うかわからないから、ってのがデカいんだけどな。
昔、他県に遊びに行ったにもかかわらずそこで教え子一家に遭遇し、なんとも気まずい思いをしたことがあって以来、外での行動に若干気を遣うようになった。
あのときは、一緒にいたのが男友達でまだよかったけどな。
うっかり、派手なねーちゃんでも連れてた日には、翌日には強力な保護者ネットワークを通じて、全家庭の保護者の知るところになっていただろうに。
「続きは、車でな」
「っ……え!」
家じゃねーのか、というツッコミが入りそうだったが、ちょうどよくアトラクション自体が終点だったので、タイミングが失われた。
お陰で、ちらりと横眼だけで瑞穂を見ると、頬を染めて俯いていたのが目に入る。
そういう顔もかわいいけどな。
なんてここで言ったら本気で困りそうだから、さすがにしないでおく。
秋の夜は長い。
「……あ」
ゴトン、と音がして進みが遅くなった。
これまでの浮遊感は消え、何かに乗ったかのような安定感を覚える。
「終点か」
「みたいですね」
キリキリとチェーンを巻き取るような機械音が聞こえ始め、少し先の穴からは、これまでとはまったく違う風景が見えた。
現実の始まり。
……いや。回帰と言うべきか。
「あ。ありがとうございます」
「いーえ」
スタッフの指示に従いながら彼女の手を取って降り、出口へ向かう。
まだ、人影はそれなりにある。
だが秋の夜が訪れるのは速い。
もう、言っている間に闇に包まれてしまうだろう。
「そろそろ帰るか」
「そうですね」
心なしか、繋いだ手のひらがやけに温かく感じたのは、先ほどまでとは違ってぐんと空気が冷え、風が冷たくなっていたからか。
「…………」
おとぎばなしの時間は、終わり。
そういや、アリスの話もラストはそうだったな。
結局彼女も、ちゃんと自分の世界へ戻ったんだ。
「アリスも帰る時間だな」
「……あ……。そうですね」
アリスの格好をしている瑞穂は、どうやら言葉の意図をしっかり把握したらしく、ふふ、と小さく笑った。
だが、それだけじゃないのが俺の彼女。
幼かったあのころの女の子は、もういない。
「一緒に連れて帰ってくださいね」
少しだけ甘さを含んだ声に、すんなり頷いた。
だが、期待されたら、応えるのが男ってモンだ。
「ひとりにさせねーよ」
きゅ、と手を握りしめ、入るときに通った更衣室へと戻る。
現実世界への帰還のとき、だな。
ふと見上げると、すでに西の空までも紫に染まり、夜の始まりを告げているように見えた。
――これで終わりじゃない。
大人の時間は、今、始まったばかり。
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