「瀬尋先生!」
「う゛っ。山中先生」
 昼休み。恋人が届けてくれた弁当を広げていたところへ、駆け込んできた彼の姿に祐恭は思わず呻きをこぼした。
 このテのパターンで彼が良い知らせをもたらした試しがない。
 ……また、変な相談じゃないだろうな。
 ふと、視線を向けると、隣でこれもまた弁当をつついていた純也が何食わぬ顔でそそくさと弁当箱を片づけ始めていた。
「(田代先生、逃げないで下さいよっ)」
「(スマン。祐恭君、あとはまかせた)」
 そんな目だけのやりとりがあったかなかったか、祐恭の所に近づいてきた昭はそれに気づくことなく、会話を続ける。
「実は折り入って話したい事が……ああ、田代先生もご一緒に」
「え、あ、俺も?」
 名指しで呼ばれてはしらばっくれる事も出来ず、純也もひきつった笑みのまま扉に掛けた手を引っ込めて、戻ってくる。
「先日はお二方には大変お世話になりまして」
 先日というのは、あのラブホテルの一件の事だろう。
 あれはいろいろと良かった……もとい、大変であった。
「おかげさまで、彼女ともうまくいきまして……」
「ああ……」
「そう……」
 昭の照れたような言葉にどう返していいのやら、二人はとりあえず曖昧な相づちに終始する。
「それであの。お礼というには些少ですけど」
 彼から差し出されたのは、一通の茶封筒。

「伊豆の国ワンダーランド?」
「っていう遊園地が伊豆の方にあるらしい」
 昭がくれたのはその遊園地の一日フリーパスのペアチケットだった。
 なんでも、新聞の勧誘員がたくさんくれたそのお裾分けらしいのだが、いかんせんそんな遊園地の名前聞いたことがない。
 したがって、夕食後、羽織と共にネットで検索をしてみたところである。
「お、出た出た。伊豆でもけっこう山奥にあるんだな。
 広大な敷地にはキャンプ場やアスレチックコースも併設。自然を満喫でき、日本で三番目に大きい観覧車がウリ……。また微妙としか言えない遊園地だ」
「でも、観覧車からは相模湾が一望できるって――へぇ、他にもいろいろ乗り物があるんだ」
 羽織の目がキラキラしていた。比喩でも何でもなく。
「……羽織ちゃん、もしかして行きたい?」
「え、えと。ほら、せっかく券ももらった事ですし」
「ふむ……」
 まぁ、伊豆の山奥なら学校関係者に鉢合わせすることもないか。
 彼はそう思って提案する。
「なら、今度の週末にでも行ってみようか。田代先生ももらってたから、絵里ちゃんたちも誘ってさ」
「うん! 早速、絵里に聞いてみるね」
 笑みを浮かべ、携帯に手を伸ばす羽織。
 電話口で楽しげに話す彼女の微笑みを見れただけでもチケットの収穫があったと思う祐恭だった。

 秋晴れの空の下、祐恭の駆る赤のRX−8が、紅く色づき始めた箱根路を滑るように抜けていく。
「うわー、もうすっかり秋ですね。今度は紅葉を見に来たいかも」
 景色に目を奪われながらの羽織の呟きに祐恭がふともらす。
「羽織ちゃんは紅葉っていうより……桃、栗、銀杏、さつまいも」
「食欲の秋って言いたいんですか? そりゃまぁ秋サンマとかはおいしいけど」
「……太るよ」
「先生っ!」
「ははは……でも、俺としてはもう少しここら辺に肉付きがあっても」
 信号待ちで止まったのを頃合いに、彼女のスカートからのぞくふとももに手を伸ば――そうとしたが、ぺしりと軽くはたかれてしまう。
「もぉ。先生こそ食欲ばかりでなく、芸術とか運動とかほかに目を向けてみてはどうですか?」
「んー、でも俺は全部羽織ちゃんで間に合ってるし。芸術も、食欲も、もちろん運動スポーツもね」
「うう……そこでの含み笑いはなんかやらしいですよぉ」
 そんな話を続けている間に車は目的地である『伊豆の国ワンダーランド』に到着する。
 休日ながらも意外と空いている駐車場に入るとすぐに、見知った二人が並ぶ黒のアテンザを見つけ、その横のスペースに止める。
「羽織、先生。はよー」
「おはよ、絵里。田代先生もおはようございます」
「おはよう、羽織ちゃん。祐恭君も」
「はやいっすね、純也さん。俺たち遅れました?」
 よくぞ聞いてくれたとばかりに純也がため息を吐いた。
「いや、待ち合わせ十五分前。まったく絵里の奴がさ、こんなイベントの日だけ早く起きやがって。
 時間持て余したあげく三十分前入りだよ。足やる俺の身にもなってくれってんだ。ふぁあ……」
「な、なによぉ。あたしはせっかくもらったタダ券を最大限活用しようと思って、それだったら自由時間が長く取れるように……」
「ぶぁーか。祐恭君たちとは現地集合なんだぞ。お前は彼らを差し置いて入る気だったのか?」
「う……」
「いいかげん素直に前日から興奮してよく眠れませんでしたと認めたらどうだ?
 学校の時もこの位の気概で起きてくれると朝はもっと平和に過ごせるのになぁ」
 遠い目でのたまう純也の口調に絵里がついにキレた。
「むぁーっ! もーいーわよっ! 羽織っ、いくわよ!!」
「ちょ、ちょっと絵里。引っ張らないでっ」
「……純也さん、朝からいじめすぎじゃないですか?」
「あ〜、大丈夫、大丈夫。これくらいスキンシップ」
 ずかずかと先に行ってしまった絵里と羽織に入場口の所で追いつく。
「すいません、これでお願いします」
「無料優待券ですね。ではこちらのフリーパスをお持ち下さい」
 受付でラミネートされたカードをそれぞれ受け取る。
「はい、羽織ちゃん」
「ほれ、絵里も。これがなきゃ入れないだろ」
 だが、彼女はまだご立腹なのか横を向いたまま受け取ろうとしなかった。
 その様子に純也は肩をすくめると、絵里の顎をとり、自分の方を向かせる。そのまま鼻先がつこうかというほどに急接近。
「こら。いつまでもそんな顔してると、楽しめるものも楽しめなくなるぞ」
 その瞳の深さに思わず見とれかけ、はっと我に返る絵里。
「わ、わかってるわよ。早く渡しなさい」
 照れ隠しに彼の手からパスをひったくり、先へ進む。
 その心情は耳たぶまで染まった色が如実に物語っていた。

「今日はせっかくのフリーパスなんだからね。目一杯乗りまくるわよ!」
 中央広場の案内板の前で絵里が高らかにそう宣言する。
「わー、ぱちぱち」
「えらい意気込みだな」
「で? まずは何から行くんだ?」
「フッ……愚問ね。遊園地といえばやはりコレ。ジェットコースター!」

『……』
 そのジェットコースターの入場アーチを見上げ、一同はただ立ちつくしていた。
 案内板では特に気になる点はなかったはずだが――
「ジェットコースター『FUNIYAMAフニヤマ』。伊豆一の絶叫があなたの挑戦を待っている……」
「そりゃ伊豆にここ以外で遊園地はないから一番ってのは間違いではないが」
「むしろここまで徹底しているのには尊敬の念すら感じるね」
「絵里、本当にこれに乗るの?」
 羽織がそう呟くのも無理はない。彼女らの他に全く人影が見えなかった。待ち客だけでなく通り過ぎる者も。これをただ単に入場客が少ないと片づけていいものか。
「乗るわ」
 それでも彼女は不安を払うかのように強く答える。
「ここで逃げたら私達の負けよ。さぁみんな勇気を出して行くわよ!」
「……ジェットコースターに勝ち負けはないだろ」
 彼らの姿が中へと消えていく。
 ……五分後、出てくる。
「……あ〜」
 たまらず口を開いた誰かに絵里は耳をふさぐ。
「何も言わないで、聞きたくないわ! さー、次よ、つぎつぎぃぃぃ!!」
「はは……これも一応絶叫、なのかな?」
「こんな絶叫いらんわぁっ!」

 興奮(?)冷めやらぬ内に、彼らが足を止めたのはこれも定番、お化け屋敷。
 鬱蒼と茂る森の中にぽつんと佇むそれは否応なしに臨場感を醸し出す。
「今度はここよ。名付けて『恐怖モンスターハウスできゃ〜怖〜い☆』イベント!」
「イベントって何? ……というか羽織ちゃんホラーって」
「んー、大好きって訳じゃないけど人並みに見れますよ」
「だよねぇ。この間絵里ちゃんと呪怨のDVDをウチで見てたような記憶が」
 祐恭の言葉に絵里も思い出したか、頷く。
「あぁ、そっか。むぅ、でもせっかくだし」
「え。ここ入るのか?」
「あらぁ? 純也もしかしてこういうのダメ?」
 獲物を見つけたハンターのように嬉々とした顔で絵里が近づく。
「いや。嫌いとか以前にだな、何かそっちの小屋の方からそこはかとなく嫌な気配がするんだよ……」
『え』
 ザワザワザワ……。
 生暖かい風が木々をざわめかす。
「や、やーねー。純也ったら。そんなでまかせ言って怖がらせようと」
「そうですよ、田代先生。あそこにいる人は悪い人なんかじゃありませんよ?」
『は?』
 のほほんとした羽織の一言。
 今度は完全に空気が凍り付いた。
「……羽織ちゃん。俺には辺りに人らしいものは見あたらないんだけど、人って……」
「え? だからそこの竹藪の裏に立っている着物の――」
「うわわわっ、指を指さなくていいっ」
「さー、いきましょー」
 彼らは羽織を小脇に抱えると一目散にその場から逃げ出した。
「?? だからあれは悪いものじゃなくて、ただの地縛――」

「ぜーはーぜーはー。なんだか変なトコばっかりだぞ」
「あたしに文句言わないでよ。なら今度は羽織が乗り物選んでみてよ」
「私? ん、そうだなぁ……じゃあ、あれ」
 遠慮がちに彼女が選んだのはメリーゴーランド。
 その華やかな電飾は見るものを引きつけるが、男にとってはそれがやや居心地悪い。
「えーと、俺は外から見てるから絵里ちゃんと二人で」
 離れようとする彼のジャケットの裾が、しかしついと引かれる。
「一緒が……いいの」
「うっ」
「だめですか?」
 反則だ。
 上目遣い、潤んだ瞳、彼女のこの表情で懇願されて、首を横に振れる奴はまずいないだろう。
 ……まぁ、俺以外の男にこれをされても嫌なのだが。
「先生?」
「ご一緒させていただきますよ。お姫様」
 木馬の回転が止まり、客が入れ替わる。
 祐恭は羽織の手を取り、馬までエスコートする。さりげなく、他の客と距離を取るのはご愛敬。
 馬を目の前にした彼は思いついて、彼女を引き寄せ、自分の馬へと導く。
 ちょうど、胸元に抱きかかえる格好。
「先生……恥ずかしいよ」
「大丈夫。俺の方がもっと恥ずかしいから。でも、羽織ちゃんがどうしてもイヤって言うなら離すけど?」
「イヤ……じゃないもん」
 結局の所、俺の見栄やプライドなんてこの程度。
 彼女が喜んでくれるのなら、どんな事でも出来る。
 そう思わせてくれるほど、彼女の存在は大きなものになっていた。
 ……すっかり、瀬名羽織という甘い毒に犯されまくってるなぁ。
 こんな姿よそ様には絶対見せられんよ。
 やがて曲が終わり、彼女と共に降りていくと、絵里が拍手で迎えてくれる。
「いやー、ご両人。やるねぇ〜、見てるこっちが恥ずかしかったわよ」
「もー、絵里達も乗れば良かったじゃない」
「私達はそーゆータイプじゃないし、それに他に重要な使命が」
 彼女が手元で操作しているそれは――
「デシカメ……まさか!?」
 祐恭の背に冷たいものが伝う。
「よく撮れてるわよ〜。羽織の笑顔とか、もちろん先生のもね」
「あああ」
 今さらながら顔が赤くなる。あんなゆるみきった顔が後世に記録媒体で残ってしまうなんて。
「み、皆瀬くん? 速やかにデータを渡したまえ。二人の思い出はやはり自分達で保管するべきだ」
「じゃあ羽織に渡しても一緒よね」
「なっ!?」
 戦慄が走る。
 羽織に渡す。と言う事はほぼ確実に兄である孝之に見られる。見られたその日中に奴を中心とした旧友たちにこの情報は伝播する。尾ひれ背びれをつけまくられて。
 そうなった場合、俺の運命は――
 ブルブルブル。
 そこからは恐ろしくて想像すら出来なかった。
「お願いだから、それだけは……」
「そういえばそろそろお昼よね。羽織、ご飯にしない〜?」
「あ、うん。そだねー」
「キミ達、好きなだけ食べなさい。なんならテイクアウトしてもいいから」
「さすが先生太っ腹ぁ」
「ははは」
 乾いた笑いで立ちつくしてると、純也も便乗してくる。
「祐恭君、ゴチになります」
「純也さん、何とかして下さいよ。彼女」
「それは無理。昔から言うだろ? 『触らぬ絵里にたたり無し』」
 遠い目をして言う純也に祐恭はがっくりと肩を落とした。
 この先しばらくはこのネタで遊ばれそうだな……。
 しかし……。
「純也さん、昔なんかあったんですか?」
「フ……聞かないでくれ」
 目尻に一粒、涙が光った。


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