今日は12月26日。
 孝之は、やっとベッドから起き上がった。
 ぼんやりした頭を掻きながら、ベッドの横に置いた腕時計を取り上げ、時間を確認する。
 カーテンから漏れてくる光は柔らかくなっていて、眩しさを感じないから朝ではないことだけは判っている。
「やべ……、もうこんな時間かよ」
 時計の針はお昼過ぎを差していて、流石に寝すぎたかと内省しかけたら、空腹を訴えて腹が鳴る。
「あー、とりあえず飯だな」
 独りごちて、ベッドから降りて手早く服を着替え、時計もしっかりと腕に巻きつけて階下へと降りていった。
 リビングは美味そうな食べ物の匂いが充満している。
 キッチンでは、母親が包丁を握って野菜か何かを切っているようだが、格闘しているように見えるのは気のせいだろうか?
 テーブルの上には皿やボールが並べられていて、それらには色々と入っていたりするのだが、つまめそうな物はない。
 しかし、こんだけの物を料理して、何が始まるんだ?
 今日は何かあったか?
 そんな疑問が湧いてくる。
 まじまじと眺めていたら、ボールを取るために振り返った母親に見つかってしまった。
「あら、やっと起きたの?」
「悪かったな。昨日は遠出して疲れたんだよ。で、これは何だよ?」
 小馬鹿にされたような気がして、孝之は憮然とした顔でテーブルの上を指差した。
 ボールを手にした彼女は、そのまま背を向けて切った野菜をボールに流し込んでいる。
 無視するなよと言いかけたら、明るい声がそれを遮った。
「今夜は、ルナちゃんの歓迎会をするからね。24、25日と出かけていて、何もできなかったでしょ? だから今夜するの。今は、その準備中!」
「で、葉月は?」
「散歩に行くって、出かけたわよ」
「はぁ?」
 なんで帰国したばかりの人間を一人で放り出すんだよ。
 孝之は、呑気に鼻歌を歌いながら料理を続ける母親の姿に、呆れ返って突っ込みを入れる気もなくし、キッチンに背を向けてリビングのソファに身体を沈める。
 ラックから新聞を取り出し、広げてゆっくりと眼を通していく。
 こういう時期の所為か、事故のニュースが多い。
 字を眼で追いながら、頭の片隅では別のことを考えていた。
 
 24日のクリスマスイブ。
 葉月は日本へ帰ってきた。 
 だが、その日の瀬那家は、家族全員が予定が入っていて別行動。
 両親は、箱根に夫婦水入らずの泊りがけ旅行へ、羽織は羽織で、祐恭のところへ行ってしまった。
 だから、葉月は大学へやって来たんだったよな。
 両親は25日の夜には帰ってきたけれど、羽織の奴は未だに帰ってこない。
 どうせ、祐恭が手放そうとしないんだろう。
 せめて羽織がいれば、『古月』のケーキが食えたかもしれないのに……。
 葉月も葉月だ。
 なんで一人で散歩に行くんだよ。
 俺を起こせばいいだろうが……と心の中で愚痴って、ふと、起こされたらと考えてしまう。
 はっきり言って、起きる自信は無い。
 24日から振り回され続けて、考え込むことばかりが起きて、すっかりと疲れ果てていた。
 今日が休みだったから、しっかり熟睡してしまったんだよなぁ。
 新聞をそのままにして、TVを点けてみる。
 チャンネルをどんどん変えていくが、とっくにニュースは終わっていて、いわゆるソープアワー(昼の1時〜3時)になってて、興味が湧くような番組は見当たらなかった。
 ぷつんとTVの電源を落とし、新聞に眼を戻したところで、電話が鳴った。
「孝之、出てぇ〜」
「忙しいッ」
 何かを炒める音と共に、母親が声をかけてくるが、いつもの癖で理由をつけて無視する。
 途端、ばたばたと勢いのいい足音が近づいてきて、ぱこんと頭を殴られた。
 抗議しようと顔を上げたら、彼女はとっくに電話に出てる。
「あら、ルナちゃん? そう、無事に着いたの? それは良かった……」
 賑やかで能天気な声が呼びかける名前に、孝之は慌てて立ち上がって彼女のそばへ行き、受話器を寄越すように無言で要求する。
 ところが、彼女はそれを見事に無視して、言いたいことだけ言うと電話を切ってしまった。
「おいッ、代わってくれたっていいだろう?」
「そんなこと言うくらいなら、最初から出なさい」
 ムッとして口にした抗議も、スパンと小気味にいいくらいに切って捨ててくれる。
 彼女はそのままキッチンに戻ってしまった。
 舌打ちをして、どっかに出掛けてしまえと着替えに部屋へ戻ろうとしたら、
「ルナちゃんなら、祐恭君のところよ。用事を頼んだの。今の電話は、無事に着いたって報告よ。
 それから出かけるなら、夕食までには戻りなさい。さっきも言ったけれど、今夜はルナちゃんの歓迎会なんだからねッ!」
 とぽんぽんと言いたい放題の声が、後を追うように飛んできた。
 孝之はなんだか疲れてしまって、彼女の声には答えず、そのまま部屋に引っ込む。
 今から出掛けたとして、夕食までにそれほど時間は無い。
 パチンコくらいならと思うが、そんな気力も湧かない。
 このまま寝て過ごしたほうがマシと不貞寝を決め込んで、服を脱ぎ散らかしてベッドに潜りこんでしまった。
 暖かな布団に包まっていると、段々眠りに落ちていく。
 途中、何も食べなかったのを思い出して、悔し紛れに夢の中でしっかりと食ってやれと考えたのだが、そう上手くはいかなかった。
 なぜか、子供の頃の葉月が泣いている時の情景と、昨日の葉月との出来事が、波のようにくり返し夢に現れる。
 あの今にも消えそうな儚げな微笑。
 見ていられなくて、彼女に向かって手を伸ばしたら、聞き慣れたエンジン音と響くブレーキ音に叩き起こされた。
 身体を起こした時には、あまりにもくり返し見た夢のお陰で、このクリスマスに葉月と過ごした時間すら、夢だったのではないかと思ったくらいだ。
 それを否定したのは、玄関から聞えてきた賑やかな笑い声。
「こんばんわ。お邪魔します」
「いらっしゃい。祐恭君」
 母親と親友が挨拶を交わす声。
「ただいま、おばさん」
「ただいまッ! お母さん、先生が美味しそうな苺をこんなに買ってくれたの」
 葉月と羽織の声も聞えてくる。
 特に羽織は興奮しているらしい。
 頭に響くような高い声で、一生懸命に説明している。
「……ったく」
 頭を軽く振ってはっきりとさせ、孝之は身体を起こし、脱ぎ散らかした服を取り上げて腕を通す。
 そして寝る前、下に落としたりしないように置いた腕時計を取り上げ、腕に巻きつけて時間を確認する。
 それから階下に降りるために部屋を出た。
 
 夜は親父も帰っていて、楽しい夕食会となった。
 おまけの祐恭もいて、賑やかで和やかな時が過ぎていく。
 たまにアイツが顔を引きつらせながら、親父と話をしているのを眺めるのは、最高の酒の肴で……。
 親父が祐恭にも酒を勧めたが、流石に車だからと遠慮していた。
 今はクリスマスだ忘年会だと、世間では飲んでいる奴らの多い時期。
 警察だって、てぐすねひいて取り締まっているしな。
 教職じゃあ迂闊なこともできないんだろうな。
 しっかりと生徒を食っているくせによ。
 自分はどうだって?
 明日は仕事だっていうのに、しっかり飲んだよ。
 祐恭の焦る顔や引きつる頬は、眺めているだけで面白いからな。
 で、その後はどうしたっけ?
 ふと、思考が途切れる。
 あれ?
 ようやく頭が現状を認識しようと動き始める。
 どうやら昨夜は飲みすぎて、そのまま眠ってしまったようだ。
 ここはどこで、今は何時だ?
 昨日は、家で飲んだんだから、外で寝ているって事は無いよな?
 確認しようにも、身体は強張ってなかなか動かないし、頭はずきずきと痛みを訴え始める。
 やべッ……二日酔いか?
 軽く舌打ちをして、ゆっくりと眉間に指先を持っていって揉み解しながら、徐々に節々を動かしていく。
 まだ眼は開けられない。
 今いる場所が明るかったら、眩しさに頭痛が激しくなる。
 そう考えて、眉間とは逆の手を周囲に這わせ、手触りで今いる場所の確認を試みた。
 家の中だ、すぐに判るはず。
 指先に触れるのは、滑らかなで冷たい材質。
 つつっと、滑るこの感覚には覚えがあった。 
 リビングのソファだ。
 さっきまで、身体の中に神経を向けていたから判らなかったが、周囲に向けたら、そばに誰かの気配を感じる。
 一人じゃあない。
「つうッ」
 ズキンと頭に痛みが走った。
 思いっきり顔を顰めて、このまま痛むならとゆっくりと眼を開けた。
 ぼやけた視界が、徐々に明るくはっきりとしてくる。
 そこには、こちらを覗きこんでいる葉月と羽織の二人が立っていた。
 葉月が、心配そうに小さな声で訊ねてくる。
「たーくん、大丈夫? お水持ってこようか?」
「あー、頼む」
 痛む頭を抱えたまま返事をしたら、彼女はパッと身を翻して、キッチンへ入っていく。
 ぼんやりとその後姿を眺め、彼女の右手に握られた黒い妙な物に、視線が吸い寄せられる。
 遠くに蛇口から水が流れ落ちる音を聞きながら、頭を働かせる。
 あれ……ポスカだよな。
 あんな物、何に使ったんだ?
 まったく思い浮かばず、頭を掻こうと手をやったら、変な物が指先に当たる。
 ふにゃっとしてて、柔らかく短い毛が生えている?
 薄くて、まるで動物の体の一部のような……そう、犬かネコを撫でた時に触れた耳のような手触り……。
 まさかッ。
 がばっと勢い良く立ち上がり、孝之は洗面所に飛び込んだ。
「うわっ、なんじゃこりゃ?!」
 思わず叫んでしまい、激しくなった頭痛にしゃがみ込んでしまう。
 気力で立ち上がり、再び鏡に映る己の姿を見て、開いた口が塞がらなかった。
 眼に映っているのは、ネコ耳を着けて顔には髭まで描かれ、そんな自分に驚いて指を差している己。
 誰の仕業なんて、聞かなくても判っている。
 もぎ取るようにしてネコ耳を外し、水道の蛇口を緩めて、勢い良く出てくる水を両手で掬って擦りつける。
 だが、描かれた髭はまったく取れなかった。
 怒りで顔を引きつらせながらリビングへ戻ったら、羽織と葉月が殊勝な顔で待っていた。
 葉月の手から、水の入ったグラスを無言で受け取り、一気に飲み干す。
 冷え切った水が、ぬっとりとした口の中を洗い流し、胃に辿りつく。
 その刺激が感覚をより覚醒させていく。
 さて、首謀者を吐かせるとするか?
 この時はまだ、二人のどちらかが謀ったのだと思い込んでいた。
「で、言い出しっぺはどっちだ?」
 二人をじっとりと見比べながら、チラッと横目で時間も確認する。
 いつも起きる時間より30分以上早い。
 黙り込んだ二人からの答えは無い。
 葉月の手には、まだポスカが握られているのが、彼の眼に入った。
 手を伸ばしてそれを引ったくり、
「で、誰なんだ?」
 と再度問い質すが、やっぱり答えは返らない。
「ふ〜ん。答えられない訳?」
 細めた眼で葉月を見やると、さっと視線を外される。
 それは羽織も同様で、これ以上問い詰めても白状しないと判断し、彼は報復手段を実行に移した。


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