「先生……?」
笑いたいだけ笑って、落ち着いてきたらしい。
羽織の心配そうな呼びかけに、彼は顔を上げて応えた。
「ごめん。本当に大丈夫だから……。葉月ちゃんが、『たーくん』って孝之を呼ぶから……。
前に聞いたときは、孝之がそばにいたら我慢していたんだけど……。今はいないし、呼ばれた時のあいつの顔を思い出したら、もう我慢できなくって……。マジ、ごめん」
「もぉッ!」
「葉月ちゃんもごめんな」
呆れた顔をしている羽織に謝り、そして彼は葉月にもちゃんと謝った。
葉月は、首を横に振って、気にしてませんと伝えてくる。
それでも申し訳ない気持ちがあったのと、どうせ瀬那家へ顔を出すなら、手土産の準備もしなければならない。
手土産をなににするか、早めに外へ出て、買い物がてら葉月ちゃんを遊びに連れて行くのも良いかもな。
すでに祐恭の頭の中は、次の予定を考え始めている。
「じゃあ、今から外に出ようか? 買いたい物もあるし、まだ時間もあるから少し外で遊んで、それから瀬那家には顔を出すことにしよう。ちょっと着替えてくる」
「じゃあその間に、私、ここを片づけておきますね」
「私も手伝う」
にこっと微笑む羽織。
葉月も楽しげに片づけを志願してくる。
本当に羽織ちゃんに似て、いい子だよな。
祐恭はそんな事を考えながら、任せたとばかりに片手を上げ、着替えにリビングを出て行く。
さっさと着替えをすませて戻ってくると、すでに片づけは終わっていて、羽織が交代するように着替えに行ってしまう。
彼は、窓のそばに立って外を眺めている葉月に声をかけた。
「さっきは本当にごめん」
「いえ、気にしてませんから」
「その後、どう?」
「さぁ?」
「さぁ?」
思わず聞き返したら、葉月が悪戯っぽい笑顔を見せる。
その時、ちょうど羽織が戻って来た。
葉月は身を翻すようにして、羽織へ近づいていく。
すれ違いざま、
「惚れてもらえるように頑張るだけです」
と小さな声が彼女の口から零れ落ちた。
彼女はそのまま羽織のそばに行くと、くるっとこちらを振り返り、にっこりと笑ってVサインをしてみせた。
祐恭は、参ったとでも言いそうな表情で苦笑を浮かべた。
彼女らが靴を履いている間、彼は部屋を廻って戸締りを確認していた。
羽織がきちんとしてくれているが、用心の為に、最後に彼自身の眼で確かめているのだ。
完璧だと納得し、玄関へ行こうとして、何かが眼の端に引っかかった。
もう一度見てみると、携帯がテーブルの足元に落ちている。
見覚えの無い物。
一応、確認の為に折り畳みを開いて、度肝を抜かれてしまった。
眼に映るものが信じられない。
孝之の寝顔など腐るほど見てきた。
でも、待ち受け画面に設定されているのは、口角が上がって、どこか幸せそうな笑みを形作っている。
孝之のこんな表情は、彼自身あまり眼にしたことはないもので……。
「これも、アイツが葉月ちゃんを今までの彼女と同じ扱いをしていない証拠だよな……。さっさと自覚すればいいのに……」
こんな写真を撮らてれしまうほど、孝之は葉月に心を許しているのか。
その証拠を眼にした祐恭はぼそっと呟き、それから何か企んだのか、口角を上げて腹に一物を持った笑みを浮かべる。
すみやかに携帯を折り畳み、手の中で弄びながら、二人の少女が待つ玄関へと向かった。
玄関では、羽織と葉月がすでに靴に履き替えて、祐恭が出て来るのを待っていた。
彼が姿を見せると、羽織は嬉しそうな笑顔をみせ、葉月は一点を凝視して頬を引きつらせる。
にやりと口角を上げ、意地悪な笑みを形作って、彼は手の中の物を彼女らに見えるように転がす。
「コレ、葉月ちゃんのだよね?」
「すいません、どこにありましたか?」
「テーブルの下に落ちていたよ」
硬い声で問い、携帯を受け取ろうと手を差し出してくる彼女。
見つけた場所を口にしながらも、彼はまだ携帯を手の中で遊ばせている。
「いい写真だね」
彼の一言に、彼女の手が大きく震えた。
「譲ってくれたら、嬉しいんだけど?」
「中を見たんですね」
「一応、誰のか確認したくてね」
「返してください」
どんどんと葉月の声に困った色が滲み出てくる。
眉も下がり、目線はじっと縋るように祐恭を見つめてくる。
彼は、羽織を泣かせているような気分になってきて、つい携帯を返しそうになるが、ぐっと我慢した。
こんな楽しいもの、手離したくはない。
頭の中を大学時代のある写真が掠めていく。
いつか、あの時の仕返しをと思っていた。
それが今、叶うかもしれない。
ここで折れるわけにはいかない。
そう己に言い聞かせてから、ニッコリと微笑んで口を開く。
「写真をメールで送ってくれるって、約束してくれたら返してあげる」
「駄目です」
葉月の瞳は、絶対譲らないという強い意志が輝いている。
どうにかして、手に入れたい。
祐恭もその点を譲る気は無かった。
どこかで妥協点を……。
彼の頭が高速回転を始める。
ピンと閃くものがあった。
ついでに、あの疎ましい物も処分してしまおう。
一度決めたら、彼の行動は早い。
早速、交渉を開始した。
「じゃあ、この写真は諦めるよ。その代わり、いい物をプレゼントするから、それを使って写真が撮れたら送ってくれるかな? 勿論、強制はしない。でも、送ってくれると信じているから……」
そう告げながら、悪戯っぽい瞳で葉月を見つめる。
葉月にとって、優先するべきなのは携帯を取り戻すことで、祐恭は孝之の親友なのだし、そんなに酷い物を渡すと思えないから信頼することにした。
彼の眼力に動かされてしまったのかもしれない。
前に会った時も格好いいと思ったが、見つめられるとドキドキしてしまう。
ぽっと頬を染めて、葉月はこくりと頷いた。
すると彼は、素直に携帯を彼女の手の中に落としてくれる。
「ちょっと待ってて、取って来るから」
そう言い残して、踵を返して部屋の奥へと戻っていく。
数分後、彼は紙袋を持って帰ってきた。
「じゃあ、これ」
彼は葉月に袋を手渡す。
彼女は、早速それを開けて、ぱっと輝くような笑みを見せた。
「わぁ〜、可愛いッ! たーくんに似合いそう」
「えっ、先生!コレ……」
同時に声があがる。
当然、前者が葉月で、後者は羽織だ。
羽織が声を上げるのも当然のこと。
紙袋の中身は、昨夜、祐恭自身が嫌々ながら身につけたネコ耳だったのだから……。
怒ったように眉を顰め、祐恭を睨み上げる羽織。
だが、彼はそれを無視し、外に出るように二人の肩を押した。
「さぁ、出かけるぞ」
そして夜。
瀬那家で楽しい時間を過ごしたのは言うまでも無い。
宴の後、祐恭は一人で家へと戻った。
そのまま羽織を連れて帰るつもりだったのだが、彼女が駄目と断ってきたのだ。
理由を聞いたら、泊りの準備がまだできていないのと、葉月が心配だから今夜は家にいるというのだ。
気になるのは、言い訳を口にしていた時の彼女の瞳の輝き。
もしかしたら、葉月を唆したのを怒っているのかもしれない。
アレを渡したからといって、葉月が即実行すると思えなかったが、羽織に無理強いをする気は無かったので、内心がっかりしながらも家に帰って来たのだった。
祐恭自身、絶対写真が欲しい訳ではない。
手に入ったら、楽しめるだろうなという程度。
期待はしていなかった。
仕事も終わり、帰宅する為に車に乗ってエンジンが温まるのを待つ間、携帯を取り出して送られて来た写真を眺める。
よく撮れている。
瀬那家のソファに眠り扱けた孝之。
その頭にはネコ耳が付いていて、顔にはなんと髭まで描いてある。
見る度に、吹き出しそうになるのを我慢しなくてはならない。
その内、添付されている写真が一枚ではないのに気がついた。
残り二枚を見て、彼は眼を見開いて固まってしまった。
一枚は、羽織が映っていて、彼女の額には『肉』と描かれている。
残りの一枚には、葉月自身が映っていて、顔にしっかりと髭が描かれていた。
隅にメッセージが一言。
「たーくんにやり返されました」
祐恭が車の中で爆笑したのは言うまでも無い。
エンジンはとっくに温まっているのに、長い間笑い続けていて、なかなか羽織を迎えに瀬那家に行けなかった。
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