小さな音で、音楽が十数秒流れた。
今日は12月27日月曜日。
すでに、生徒達は冬休みに入っているというのに、教師に休みはない。
今日も今日とて、祐恭は出勤し、年明けにある研修の準備や他の雑事に追われていた。
教師という仕事は、生徒が休みの時のほうが忙しいとは、なってみてから知ったこと。
普段は授業で学校に詰めているから、休みになると校外への研修や会議などの予定が詰め込まれてしまう。
おまけに運動部の顧問にでもなった日には、遠征だ、合宿だとどんどん時間を縛られていく。
そこまでして貰える時間外手当ては雀の涙。
本当に好きでなけりゃあ、こんな仕事できないよな。
愚痴を幾つも頭の中で吐き出しながら、手は作業を続けている。
そんな最中のことだった。
祐恭は、服のポケットに忍ばせた携帯を取り出し、折り畳みを広げる。
着信していたメール。
全く覚えの無いアドレスだが、とりあえず中身を、と開けてみた。
瞳に飛び込んできた映像を見て、彼は自然と笑みを零した。
「祐恭君、何か楽しい連絡?」
向かい側の机には、彼と同様に出勤して、同じように仕事を進めている純也が、興味深げな表情で探りを入れて来る。
祐恭は、パタンッと音を立てて携帯を閉じてポケットに戻し、軽く首を横に振る。
「悪友からの誘いですよ」
さらりとした口調で返事をするが、視線が違うところを向いている。
彼が、嘘を吐いているのを承知の上で、純也は軽く頷いて笑みを返した。
「そう、よかったね」
そして、また二人とも仕事を再開するのだった。
28日が仕事納め。
それまでに全ての予定を片づけてしまいたい。
仕事を翌年に持ち越すのだけは遠慮したいというのが、彼らの本音で、完遂させる為には余計なことをする気になれなかった。
話は、昨日に戻る。
クリスマスにあるパーティに参加した祐恭と羽織。
したくも無いことをさせられ、思ってもいない人達と出会い、気を使い過ぎて疲れてしまった。
今日くらいは、二人っきりでゆっくり過ごそう。
祐恭は、そうひとり目論んでいた。
しかし、午後になって、その夢は脆くも崩れ去ってしまう。
羽織の作った昼食を食べ、リビングでまったりとしたひとときを楽しみ、これからという時にインターフォンのチャイムがリビングに鳴り響く。
気分を壊されムッとした顔で立ち上がり、邪魔者は誰だとインターフォンの画面に映った相手を確認して、彼は軽く瞳を見開いた。
どうせお邪魔虫の美観だと思い込んで、怒鳴りつけてやろうとしたのだが、眼に入ったのは予想外の相手。
羽織に似た面立ちの少女が、不安げにきょろきょろと首を巡らせている。
「えっと、確か葉月ちゃんだったっけ?」
祐恭は、確認するようにゆっくりと話しかけた。
すると少女は、ホッとしたのか表情を緩め、
「瀬尋先生ですか? いきなりすいません」
と申し訳無さそうな声を出した。
それがまた、羽織を思い起こさせて、祐恭から笑いが零れてしまう。
血がなせる技と言えばいいのだろうか?
彼女が相手では、怒りも霧散していく。
「いや。今、鍵を開けるから、上がっておいで」
彼はそう告げながら、オートロック開錠の操作をする。
画面の中の彼女は、ペコリと頭を下げてから姿を消した。
祐恭は、彼女を迎えに玄関に向かいながら、リビングの羽織に声をかける。
「羽織ちゃん、葉月ちゃんが来ているよ」
「え?」
羽織はビックリした顔で、慌ててソファから立ち上がると、こちらへとやって来た。
そして今、眼の前に二人の少女が座って、羽織の淹れた紅茶を飲みながら楽しげにおしゃべりをしている。
目論みの邪魔をされたとはいえ、こんな情景を眺めるのも、またいつもと違った趣きがある。
学校でだと、羽織の隣は、大概絵里がくっついている。
彼女は、常にこちらのようすをさり気無く探ってくるから、気の抜けない面がある。
軽いプレッシャーを感じつつ、それをゲームのように楽しむ時もあるが、今は、周囲が穏やかな空気に包まれて居心地がいい。
まったく気を使うことなく、リラックスしていられる。
ただ、葉月がなぜ、ここを訪ねて来たのか?
気になっているが、訊ねていいものなのかどうか、ちょっと悩んでしまった。
黙って二人の話に耳を傾けていたら、羽織もどうやら気になっていたらしく、彼女の口からその話題がでてきた。
「ねぇ、今日はどうしたの?」
「え、えっとね。この前、瀬尋先生にお会いした時に、ちゃんとご挨拶していなかったから。それでね……」
「それだけ?」
どこか言葉を濁す葉月に、問い質すように言葉を重ねる彼女。
考え込むように葉月は俯きかけて、ガバッと顔を上げると焦ったように脇に置いていた鞄から携帯を取り出し、どこかへ電話を掛け始める。
相手が電話に出たのか、彼女は頬を緩め、
「葉月です。無事に瀬尋先生のお宅に着きました。連絡が遅くなってすいません。はい、ちゃんと伝えますから……」
と報告らしきものをしている。
それを聞いて、祐恭は電話の相手先を羽織の家だろう見当をつけた。
葉月は、少し話を続けてから電話を切った。
携帯をテーブルの上のカップの横に置き、羽織に両手を合わせて謝りだした。
「話の途中にごめんね。本当は散歩に出ようとしたんだけど、玄関でおばさんに伝言を頼まれたの。で、ついでに引越しの挨拶もしようと思ったの」
「それで、こっちに来たのね」
羽織は納得したのか、満足そうな笑みを浮かべる。
葉月もニッコリと笑い返し、そしてこちらに顔を向け、真面目な表情で挨拶を口にする。
「四月から日本の大学に入学が決まったので、こちらに戻ってきました。これからもよろしくです」
言い終わると、ぺこりと可愛らしく頭を下げる。
つられてこっちまで頭を下げてしまった。
「こちらこそ、よろしく」
「それとおばさんから伝言です。えーっと、『祐恭君、夏休みと同じようにする予定なんでしょう? だったら、今夜くらい、こちらにいらっしゃい。今夜は、葉月ちゃんの歓迎会をするから、一緒にご飯を食べましょう』です。夏休みと同じって……?」
続けて伝言を伝えてくる葉月。
でも、内容が理解できてないからか、最後は疑問形になっていた。
教えて良いものかどうか、祐恭も一瞬言葉につまり、羽織の顔を見てしまう。
羽織は羽織で、頬を紅く染めている。
どうせ、夜になればバレてしまうことだが、それまでは黙っていてもいいか。
そう判断した祐恭は、眼を少し細め、にっこりと微笑んだ。
それを見ただけで、葉月は何か感づいたのか、口を噤んでしまう。
「ゆ、夕ご飯が一緒なら、それまではどうするの? それに、葉月はどうやってここまで来たの? お兄ちゃんが連れて来てくれたんじゃあないでしょ?」
話を変えたかったのか、羽織が話しかける。
葉月はそちらに向き、
「あ、うん。たーくんがどうしているかは知らない。元々、散歩のつもりで出てきたし、おばさんが住所と道順を教えてくれたから、歩いてきたけれど?」
「え? 歩いて……」
羽織はビックリした顔をしているし、それを横目で見ながら、祐恭は吹き出しそうになるのを我慢していた。
彼は最近、車でしかあの家には行っていない。
よく迷子にならずに着けたものだと感心しながら、その前に彼女の口から漏れた一言が、見事にツボにはまっていたのだ。
葉月は、人差し指を口元に当てて、
「だって、歩いた方が覚えるでしょ?」
と言って、小首を傾げる。
「それはその通りだけど……」
羽織は少し心配そうな表情を浮かべる。
しかし、祐恭はそれらも見ずに下を向いたまま、手で口元を抑えて笑いを必死で押し留めていた。
どれほど我慢していても、どこかで出てしまうものである。
彼の肩は細かく震えていて、それを目の端に捕らえた羽織が心配そうに訊ねてきた。
「先生、どうしたんです? 気分でも悪いんですか?」
「ち……ちが…う……」
すぐさま否定したいのだが、口を開けば爆笑してしまいそうで、目の前で手を横に振るくらいしかできない。
それが羽織の心配を煽ったらしい。
彼女は席を立って、こちらへ近づいて肩に手を置いて、顔を覗き込んでくる。
「本当に大丈夫ですか?」
「だいじょう……ブッ……クククッ。アーハハハッハッ」
とうとう我慢し切れなくて、彼は噴き出してしまった。
お腹を抱えるようにして、笑い続けている。
葉月も何事かと心配になって、立ち上がって彼らのところへ行こうとした。
その時、コツンと手に何かが当たったのだが、彼女は気づかなかった。
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