銀の指輪を華奢な指先からするりと抜き取った。
 これは今は目障りな余計な輝き。
 彼女は戸惑いつつも身を任せていた。
 彼女が夫と使っている寝室で、絡み合う俺たちは
 なんて罪深いのだと思う。
 何を言っても今更遅い。
 最初に一目見た時から俺は、彼女が欲しかった。
 どんなことをしてでも手に入れると決めていた。

 月さえも眠る晩、俺は遂に彼女を手に入れた。
 案外やすやすと上手くいったものだ。
 拍子抜けするほどに。
 手の中に落ちてきた彼女は飢えていたのかもしれない。
 結婚して何年も経ち、既に子供がいてもおかしくないというのに
 まだいなくて、夫と二人広い屋敷に暮らしていた。
 寂しそうに笑いながら背中に腕を回してくる女の力は存外強く、
 堕ちたらとことんまで堕ちていく覚悟をしているように見えた。
(馬鹿だな……)
 この頬に流れ落ちている涙の意味は何だろう。
 指先で、唇で拭い去りながら、俺は、どこか遠くを見つめていた。
「ジュリア様……」
「ジュリアよ、イアン」
「ジュリア」
 熱に浮かされて何も見えなくなる。
 きっと俺たちの選ぶ道は一つなのだろう。
 許されざる想いを貫くにはそれしかないから。

 彼ーイアンーが下から私を見つめていた。
 「後悔しているの? 」
 わざとらしく聞こえた声に口の端を緩く持ち上げ、
 シーツの皺を伸ばす手に力を込めた。
 私を罠に落としておいてよくいうものだ。
 彼は瞳を細め、見上げている。
 繋がれた指先が離れることを許さないと言っているようだ。
 髪が乱れ、肌に落ちる。
 自分を取り繕うことさえ意味のないことだ。
 何でも見透かす彼は、最初から私を手に入れるつもりだったのね。
「君を鳥篭の中から放ってあげたい」
 さらりと髪を撫でる手に頬を寄せる。
「……素敵ね。どんな幻想よりも綺麗な夢だわ」
 彼の言葉を本気にできない。本気として受け取れば後が辛くなるから。
 彼が偽りを言っているわけではないと知りながらも  私は微笑さえ浮べて、流した。
「叶えてみせるよ、きっとね」
 彼ーイアンーは余裕綽綽の態で口元を吊り上げた。
 強い力で腕を引かれて今度は彼に見下ろされる格好になる。
 綺麗なイアン。
 許されない恋心を植えつけた男性(ひと)。
 彼との関係は極上の甘さと手に負えないほどの苦しみを  与えるばかり。
 私たちはいつ露見されるかも分からない秘密裏の関係の
 スリルを楽しんでいるのかもしれない。
 恋は危険だと誰かが言った。
 恋は愛より無謀だからなのだろう。
 何度キスをしても、私たちは終止符を打つことはしないのだ。
 それほどまでお互いに執着してしまった。
 多分最悪の形の終わりを迎えることを望んでいる。
 悲しみも喜びも生きている間だけ味合うものなのだ。
 無に帰ればすべて消えてなくなるだけ。
「愛しているよ、ジュリア」
 「ええ、私も愛してるわ、イアン」
 海よりも深い青で見つめられ湖の底の青で  見つめ返した。


2

 手を取り合い見つめ合う。
 甘い抱擁の時間だけ、生きていると感じられた。
 生き地獄。
 隠していることが辛いのじゃない。
 いつまで隠し続けられるか不安だった。
 平静を保っているつもりでも、以前と同じように
 彼を見ることができているかは、自信がなかった。
 親子ほどの歳が離れた夫は、時間がある時は必ず私を見張っていた。
 この家に来た時から変っていないこと。
 夫を拒絶し始めてから、余計に束縛が強くなった。
 暴力だけは辛うじて受けていないものの、扱いは散々だ。
 夫と私との間に挟まれたメイドは毎日おろおろと立ち振る舞っている。
 あなたは何も悪くないのだからと、視線に込めて
 彼女の働きを労うしかなかった。
「今日はお誕生日ですね」
「……そうだった? 」
「ご自分のお誕生日もお忘れになったんですか」
 クスクスと笑うメイドのアンナにつられて笑みがこぼれた。
「この所思いつめていらっしゃいましたものね」
 なんと言っていいやら言葉が返せず固まる。
「ごめんなさい、言葉が過ぎました」
「いいえ、本当のことだもの」
「奥様……」
 私には帰る場所もなく、往く場所もない。
 生きるのならここにいるしかなかった。
 生きていくのならば。
 カップがかたかたと震え音を立てる。
 否、自分の手が震えているのだ。
「あの……無理なさらないで下さいね。
 奥様の苦しみの全部を受け止めて差し上げることは
 できませんが、話を聞くくらいできるので」
 歳も同じ位のアンナは親しみをもって接していた。
 よく尽くしてくれていつもありがたかった。
「――きっと全ては遅すぎたの」
 うわ言のように呟く私にアンナは瞬きした。
「えっ」
「何でもないわ。心配かけてごめんなさいね。
 もう下がっていいわよ」
「は、はい」
 場を辞したかに思えたアンナが振り返り、
「お誕生日おめでとうございます、ジュリア様」
 柔らかく笑った。羨ましいくらい純真な微笑み。
 お願いだからどうか、私が失くしたものをあなたは失くさないでね。
「ありがとう」
 心の中で呟きながらアンナへ感謝の気持ちを伝えた。
 ぼんやりと溜息をつく。
 今日はイアンは夫について、出かけている。

「お帰りなさいませ」
 メイドの後ろから歩み出ると高慢な態度を隠そうともせず、
 夫は私の顎をいきなり掴み、体を引き寄せた。
 イアンが、その様子をじっと見ている。
「……こんな所で何をなさいます」
 腕で振り払う素振りをした。
 どんな反応を示すか見ものだ。

「ふん、お前に拒否する権利があるのか? 」
「私にだって恥も外聞もあります。他の者に見られて行為に甘んじるなんて
 品性の欠片もないではありませんか」
「最近、生意気になったな。従順だったお前の面影はどこをとっても見当たらない」
 面白くなさそうに鼻で笑い、夫はメイドにコートを預けると私室へと戻った。
 その後を追いながら、ちらりと一瞬、イアンを振り返る。
 彼は苦笑で見送ってくれた。
 従順だった私は、仮面を被っていただけよ。
「お前は美しくなった。出会った日から美しい少女であったが、
 最近益々輝きを増し艶めいた。私以外の誰かの手によってな」
「あなた以外の誰が私を変えたと」
「白々しい!」
 急に怒声を張り上げた夫は、広いベッドに私を押し倒した。
「やめて下さい」
 冷静に返せば、怒りを煽られたのか髪を掴み、ベッドの縁に腕ごと紐で縛られた。
「あの男の下でどんな声を上げるんだ。教えてみろ」
「イアンはどんな風にお前を抱いたんだ」
 抗う間もなく口づけられ、嫌悪が募る。
 身を捩れば捩るほど紐が腕を締め上げ、紫色の鬱血痕が出来上がる。
 傷みより何より、蹂躙されていく体に意識が持っていかれた。
 イアンと関係を持ってから、初めて夫に抱かれた。
 極めて不本意な形で。
 気がついた時には、薄暗い部屋の中にいた。
 いつから、知られていたのだろう。
 


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