きっと、決して忘れない。
あの日の、あの朝の事。
あの日が無ければ今は無い。
そう言える程――…そう、まさに運命と呼ぶにふさわしいあの日。
それは、いつもと同じ朝だった。

「行ってきまーす」
トントンと靴を履いてつま先を地につける。
これは、ついやってしまうクセのようなものだ。
靴は勿論、しっかりと履いてるんだけどね。
昔から、こうして家を出ると決まっていい事が起きる。
…と、思ってるからおまじないみたいな物なんだけど。
「あ、(みお)!ちょっと待って!」
「んー?なぁに?お母さん」
玄関のドアに手を掛けた所で、後ろから声が掛かった。
パタパタとスリッパを響かせて歩くのは彼女しか居ないから、まぁ、振り返らなくても分かるのよね。
「なあに、じゃないわよ。ほら、今日これ使うんでしょ?」
「あ。…あはは、ありがと」
「全くもう…」
彼女に差し出されたそれを見て、思わず目が丸くなった。
たはは。忘れてました。
これが無いと、今日は授業受けれません。
彼女から受け取ったそれは、今日の調理実習で使うエプロン。
家庭科の先生てば、優しい顔して結構厳しいのよね。
「ねぇ、澪。この前も話したけど――」
「いってきまーす」
「あ、ちょっと!少しでいいから聞きなさい!」
エプロンをバッグにしまってドアから外へ足を出した所で、やっぱり止められた。
でも、私正直言ってこの手の話は聞き飽きたのよね。
これまで何度となく聞いた事か…。
こういうのを、耳にたこが出来るって言うんだよ。
聞きだこってヤツ。
「…もぉ、聞き飽きたよー。勉強はちゃんとやってるから、平気だってば」
「でもね?この前の授業参観で話したら、殆どの子が今の時期から塾に行ってるって言うじゃない。
 それに、初めての高校受験だし…。お母さん心配なの」
「それは分かるけど…。でも、やっぱり私はまだ、これやりたいんだもん」
眉を寄せてため息をついた彼女に、こちらも思わず眉が寄る。
ぎゅっと握り締めたそこには、大事な相棒。
そう。
部活で使う、私のフルートだ。
「ねぇ、まだ一年あるでしょ?私…やっぱり、これやりたいの。今はまだ、受験は考えられないっていうか…」
そう呟くに連れて母の表情が曇るのが分かる。
だから、こっちの言葉もどんどんちっちゃくなっちゃうんだけど。
「ごめんねっ!行ってきます」
「あ、ちょっと!澪!!」
これ以上あれこれ言われたら塾に行くと言ってしまいそうで、私は外へと駆け出していた。
勉強しなきゃいけない事は、分かってる。
部活ばかりしてちゃダメだって事も、周りの皆が今からもう準備をしているって事も。
だけど。
…だけどやっぱり、私はまだどうしてもコレをやりたい。
これで、自分がどこまで届くか見てみたい。
ごめんね、お母さん。
心配してくれる気持ちは分かるけど、やっぱり私はコレが好き。
……まぁ、勉強しなくても平気なんていう余裕は、これっぽっちも無いんだけどね…。
だけど、塾になんて行ってる時間も暇も無いし。
勉強は心配だけど、でも時間無いんだもんー。
「…私の部屋で誰か教えてくれないかなぁ…」
最近、なにかとCMでも見聞きするようになった、いわゆる『家庭教師』というものだ。
「……なんてね」
いざ考えてみると、少し笑ってしまう。
女の先生だったらいいけど、男の先生だとちょっと困ってしまうのが本音だから。
…だって、恥ずかしいじゃない?
知らない男の人と二人きりで部屋に居るなんて。
あ、えと、そりゃあ部屋に居たって不健全なんかじゃない、勉強の為だけど。
見えてきたバス亭に向けて少し足を速めながら、ついついそんな考えに苦笑が漏れた。

「…ねぇ、あなた」
「ん?どうした?」
「どうした、じゃないですよ。澪の受験の事です」
娘の澪を見送った後でリビングへと戻った彼女は、椅子に座りながら向かいの男性に声を掛けた。
新聞を読んでいた彼は、話からしてもどうやら澪の父親のようだ。
「あいつは、きちんと勉強してるのか?」
「してないから、こうして相談してるんじゃないですか」
「…それもそうだな」
きっぱりと返ってきた母の答えで、彼が小さく苦笑を漏らした。
それで、再び母親が眉を寄せる。
「部活をやりたい気持ちも分かるんだがなぁ…」
「そんな呑気な事を言ってる場合じゃないですよ!あなたからも、澪に少し言ってあげて下さい!」
「……ふむ」
新聞を畳んでテーブルに置き、彼が湯飲みを傾けてから腕を組んだ。
どうやら、彼は彼で色々と考えているようだ。
恐らく、彼自身も澪と同じ年の頃に同じような体験をしていた記憶があるのだろう。
だからこそ、あまり強くは言わなかったのだが…。
やはり、自分と彼女は違う。
自分は今、彼女の父親という立場に居るわけで、やはり子供には少しでも挫折などと言う道を歩ませたくないのが親心と言うもの。
「…少し言ってみるか」
独り言のようなその言葉は、彼自身もこの時はこの程度の重さだった。

「へぇ、娘さんがねぇ」
「そうなんだよ」
比較的広いエレベーターホールで、男性が二人なにやら話をしていた。
二人ともしっかりとスーツを着込んでいる事から、ここが会社である事が伺える。
「それだけ打ち込める事があるというのもいい事なんだけどねぇ…。やっぱり、親としては心配だろう?受験が控えているだけに、ね」
「確かに、気持ちは分かるなぁ。なんせ、ウチは受験二度経験した身だからね」
「…あー、そうか。息子さん、もう大学生なんだっけ?」
「ああ。今年、3年になるよ」
丁度7階で止まったエレベーターの階表示を見ながら、少し白髪の交じった髪をかきあげると、彼が苦笑を浮かべた。
そんな彼に、メガネをかけている男性が何やら考え込んでから顔を上げる。
その顔には、先程とは違ってひらめきの様なものがあった。
「なあ、八城。息子さん、週に何時間か自由になる時間ないか?」
顎元に手をやった彼が、この時考えた事。
それで、娘である澪のこれからが少しずつ変わっていく事を、彼はこの時知っていたのだろうか。

「……家庭教師?」
「ああ」
いきなり聞かされた言葉に、思わず眉が寄った。
だって、そうでしょう?
今朝一度考えて、すぐに消した考えだったのに……まさか実現するなんて思いもしなかったんだもん。
「会社の同僚の息子さんなんだけどな。大学生だって言うから、お願いしたんだよ」
「ちょ、ちょっと待って!だって、そんな…急に言われても…」
「いいじゃないか。来てくれるって言うんだから」
「そういう問題じゃないでしょ!」
あっけらかんと言ってのけた父に、思わず声が大きくなった。
家に来て勉強を教えてくれるのは、確かに嬉しいし、ありがたいと思う。
だけどだけど!
何もこんな急に決まらなくてもいいじゃない?
「一応、週に1回。来週から頼もうと思う」
「来週から!?」
「何よ、澪。そんなに驚かなくてもいいでしょう?」
「だ、だって!話が急すぎるじゃない!」
どうして、この二人はこんなに普通なんだろう。
家庭教師って、そんなにすんなり受け止められる事?
…そ、そりゃあまぁ…私だって、家で勉強教えてもらえればいいなぁと思ってたけど……。
「これでもう、勉強しない理由はなくなったわよね?」
「ぅ」
にっこりとした母の笑みに、思わず小さな声が漏れた。
……分かりました。
すればいいんでしょう?受験勉強。
何も反論が出ない私を見て、母が再び嬉しそうな顔をしたのは言うまでも無い。

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