「……凄いどきどきする」
部屋に一人で居る、現在。
時刻は、もう少しで8時と言う所だ。
…そう。
今日はいよいよ例の家庭教師が家に来る日だった。
あーもー、どうしよー。
物凄く緊張する。
父に聞いた話だと、どうやら男の先生らしい。
今、七ヶ瀬大学に通っている3年生。
七ヶ瀬大学の学生ならば、多分勉強面では問題ないと思う。
…でもさぁ。
何で、男の先生に頼むかなぁ…。
お陰で、こっちは朝から緊張しっぱなし。
いくら家庭教師だって言ったって、男の人には変わりない。
だからこそ、ちょっとでも可愛く居たいし、出来れば気に入られたいわけで。
時計の針の音ばかりが、やけに耳につく。
いつもならばリビングでテレビを見ていたり、部屋でCD聞いてる事が多いだけに、こうした静寂の時間はやっぱり苦手だ。
うー…。
どきどきするよぉー!
椅子に座ったままで背もたれに身体を預けるものの、一向に鼓動は治まってくれそうに無い。
まだ顔も見てないし声も聞いてない状態でこんな風じゃあ、実際に会ったら倒れてしまいそうだ。
それだけは避けたいなぁ…。
っていうか、ちょっと待って。
私、少なからず今先生に対して期待してる。
でも……期待通りとは限らないわよね。やっぱり。
そうか。
…そういう事もあるのよね。
今頃、気付いた。
ちょっと冴えない大学生なんて、ザラにいるじゃない。
自分より年上で大学生だからって聞いて、勝手に想像を作り上げていただけな事に、ようやく気付いた。
なぁんだ。
それもそうだよねー。
そんな、漫画みたいな話あるわけないんだから。
…あ。なんか、そう考えたら気が楽になった。
ふにゃん、と漏れた笑みで、ようやく身体から力が抜ける。
そうだよ。
もっと気楽に構えてようっと。
――…と思った時に、改めて大きく鼓動が鳴った。
家に響いた、チャイムの音。
時計を見ると、8時少し過ぎていた。
この時間の来訪者ならば、間違いない。
きっと、家庭教師の人だ。
…あれだけ気構えしないようにって考えたのに、やっぱりダメだ。
こんなに心臓がばくばくしてたら、勉強どころじゃないってば!
「澪ー!」
「うぁ!?…あ、は、はーい!」
いきなり呼ばれた大きな声で、やっと我に返る。
…そうだよね。
迎えに行かなきゃ、やっぱりマズいよね。
椅子から立ち上がって深呼吸を何度か繰り返してから、私は階段へと足を向ける事にした。
……神様って、意地悪だと思う。
「じゃあ、英語と数学を重点的にやろうか」
「あ、はい。…お願いします」
おずおずと彼を見ると、軽く頷いてから掌をこちらに差し出した。
「ん。それじゃ、教科書ちょっと見せてくれる?」
「はい」
机の端に用意していた教科書を両手で取ってから、彼に渡す。
すると、ぱらぱらめくってから視線をそこに落とした。
……はぁ…。
どう見ても、私が想像していた人そのままって感じのこの人は、八城隼人さん。
最後に想像した『現実はこんな人』などとは、似ても似つかない。
いかにも大学生って感じで、凄く大人っぽくて。
ついでになかなかカッコイイおにーさんが先生じゃ、勉強なんてもっと手に付かないよぉ…。
「…聞いてる?」
「え!?あ、す…すみません」
全く聞いてなかった所に、いきなり目の前に現れた彼の顔。
びっくりすると同時に、思わず身体が離れた。
…こ……こんな近くに居ないで下さい。
だけど、彼は特に気にする様子も無く教科書を開いて机に置いた。
「今日は俺が持ってきたプリントやって貰おうと思うんだけど、って言ったんだけど」
「あ、はい。お願いします」
「うん。じゃあ、目標点数言って貰おうか」
「え?」
クリアファイルを手にしながら言った言葉で、彼へと視線が向いた。
途端、彼がいぶかしげに眉を寄せる。
「目標点数だよ、目標。何点?そんなに難しくない問題だから、80は取って欲しいけど」
「80ですか!?それって、結構――……ぃ…」
「何?」
「…何でもないです」
しぼんだ語尾のまま口をつぐむと、瞳を細めて真っ直ぐに見つめられた。
…こ……恐い人かも実は。
足を組んで椅子に座られていると、結構威圧感がある。
なんていうか、私が思っていた大学生のイメージからはかけ離れた人だ。
もっとチャラチャラしてるのかなって思ったんだけど…。
意外にそうでもないのね。
それに、家庭教師のこの時間だって、もっと楽しそうなイメージがあったんだけど…。
先生と色々話したり、あれこれ相談に乗ってもらったり…とか。
でも、この人とじゃあそんな時間は望めなさそうだ。
だって、ほら……
「時間は30分。よーい…」
きっちり正確に腕時計見てるし。
…っていうか、有無を言わさずなのね。
まぁ、教え子に権限なんて無いのかもしれないけど。
「始め」
静かに響いた声で、自然と私の手も動いた。
家庭教師……かぁ。
ちょっと憧れてたんだけど、この先生とはうまく行かないかもしれない。
一問目の問題を読みながら、途中でそんな考えが浮かんだ。
「……あのさぁ」
「………はい…」
「…真面目にやってる?」
「や、やってますよ!」
ぽつりと呟いた彼に慌てて首を縦に振ると、『ふぅん』と小さく言ってから再びプリントに視線を落とした。
…………この沈黙が、物凄く気まずい。
何か喋ってよー!
そんな思いを抱きながら彼を見つめていると、顎に手を当ててからこちらを向いた。
ぅ。
その途端、当然と言えば当然なんだけれど目が合ってしまった。
真正面からこんな風に見つめられると、どうしていいか分からなくなる。
しかも、優しそうな眼差しで鼓動が早くなるし。
……なんか、ちょっといい雰囲気ってヤツかも?
先生も、何も言わずに見てるし。
ひょっとして――…
「出来悪すぎ」
「……すみません」
ちょっと期待した私が馬鹿だった。
もうちょっと優しい言葉で言ってくれてもいいじゃない!
オブラートに包むって事、知らないのかしら。
…そりゃまぁ、出来ない私が悪いんだけど。
「鍛え甲斐がありそうだな」
「……はぁ…」
椅子の背もたれに身体を預けて小さく笑った彼に漏れた言葉は、同意のようなため息のような…。
私自身も判断がつかない、微妙なラインの物だった。
…でも、これから先の日々が平穏無事に進むとは思えない。
だって――…
「俺が勉強教えて成績上がらない、なんて言われたら困るからさ。真面目に勉強して?」
「……はい」
この言い方を聞いてれば、想像つくもん。
あーうー。
家で勉強教えて貰えれば――…なんて、思うんじゃなかったなぁ。
今更だけど、ちょっと後悔だったりする。
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